第18話 男と女とラブホテル



 雨が降っている。打ち付ける雨音は、エレベーターの中にも聞こえていた。

 安くて古いラブホテルだ。中層の繁華街の外れの奥まったところにあって、外観の白かった壁も薄汚れている。このエレベーターだって、内装が劣化している。敷かれたカーペットの感触も鮮やかさを失って久しい。こうして雨音だって聞こえる。


「ん……」


 それも仕方がない。彼女との関係自体、公にはできないんだから。こういう場所で無くてはならない。人が少なく、会計も掃除もあらゆる全てがオートメーションされているような場所。


「ぁ……んん……すき」

 

 我慢できず唇を合わせてきた年若い女の顔を薄めで見た。男は、答えるように唇を貪り、背伸びした細くも柔らかな体を優しく引き寄せて、ブロンドを優しく撫でる。空いた手で尻を長めのスカート越しに味わうように手のひらで揉む。

 ……男自身、少女のことを棚上げにできないくらいに盛り上がっていた。

 そのすぐ後、エレベーターが到着の音をたてて、ドアが開く。


「続きは部屋だよ、ミーシャ」


 唇をやや強引に離した男は、頬を赤らめたミーシャに囁いた。


「うん。神……ハインツおじさま……」


 体を離すと今度は腕を絡ませてくるミーシャに、ハインツは微笑む。そのままエレベーターから薄暗い廊下に出て、古めかしい鍵にぶら下がった『402』の部屋番号を探す。

 その合間もハインツは、腕に伝わる年の割に大きな胸の柔らかさ、張りのある若い乳房を今すぐ弄びたくてしょうがなかった。

 2人の出会いは、日曜日の教会だ。

 ハインツは、その教会の神父で、ミーシャは、両親に連れられてやってきていた。

 つまらそうな彼女に何気なく話しかけたら思った以上に懐かれてしまった結果、人に言えない関係性の始まりだった。

 最初は教会。夜の教会に両親と喧嘩をしたミーシャがやってきて話し相手をしている内に、唇を奪われた。

 呆然とするハインツのことなど構わず強引に唇を割って入ってきたミーシャの稚拙な舌使い、胸板で潰れる年齢にそぐわない大人びた胸、伝わる高い体温──すべてがハインツのタガを外した。

 以来、彼は、夜の教会の出来事を忘れられなくなってしまった。それはミーシャも同じで、密会を重ね、今日もこうしてラブホテルにいた。

 

「ハインツおじさま、通り過ぎているわ」

 

「ああ、すまない。少しぼうっとしていた」

 

「早く入りましょう」


「……ああ」


 彼を見上げるミーシャの目は、これから起きることへの期待でいっぱいだった──そうして、数時間。


「ふう……」


 備え付けの冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターを呷る。流石に若いとすごいな……。1周り以上離れていると流石に体力の差を感じずにはいられない。

 大学の頃は、これでも体格を生かして運動部で毎日練習漬けだった。おかげで今もある程度の筋力が保ているが……。


「少し運動したほうがいいかな……」

 

 脂肪もついた。筋力も落ちた。体力だって落ちた。


「汗でも……っと、どうしたんだい。ミーシャ」


「どこに行くの、ハインツおじさま」


 ベッドの上でシーツにくるまっていたミーシャが後ろから手を回してきた。汗ばんだ肌が張り付く。柔らかさと体温が先程の情事をハインツに思い出させた。


「なに、シャワーさ」


「いや。いやよ。もうちょっと」


 ぎゅっとミーシャの腕に力がこもる。背中と尻の合間で、乳が形を変える。


「一緒に居てほしいの。神父様、お願い」


「ミーシャ……」


 甘く媚びるような声に我慢できなかった。振り返り、ミーシャを見る。潤んだ青い瞳が情念を浮かべてハインツを見上げていた。


「ね、抱いて、ハインツおじさま」


「ミーシャ……!!」


 ベッドに押し倒し、唇を合わせようとした。

 

『ブ、ブブブブブブブブブ、ブブブブブブブ…………』


 その時、部屋のどこからか低く、大きな、蝿の羽音の様なノイズ音が流れてきた。

 動きが止まる。燃え上がる欲情がしなりと萎える。音がやまない。ハインツは、怪訝とミーシャの顔から音の方へ顔を向けた。

 天井に備え付けられたスピーカーが音源だった。


「どうやって止めるんだ……?」

 

 部屋に入って、すぐに始めたから部屋の機能については特に意識していない。古い内装とはいえ大体こういうもののコントロールは、ベッドのへッドボードにある操作パネルだ。

 

「……止まらない」


 ハインツの努力虚しく、ノイズ音は、スピーカーから流れ続ける。耳障りな音と止まらないことへの苛立ちに、流石のハインツも眉間に皺が寄る。


「管理人に聞いてみる?」


「そうだね。確かドアの辺りに番号が張ってあったはずだ」


 番号はすぐに見つかった。手元の端末に打ち込み、電話をかける……が。


「繋がらない……」


 というか電波が立ってない。ネットも繋がらない。ここに居てはいけない気がした。今すぐこの部屋から出なければいけないという警鐘がハインツを焦がした。


「ミーシャ、服を──」


『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』


 ──着て、外に出よう。という言葉は、ノイズ音の代わりに流れ始めた意味不明の何か言語めいたものに押し流された。

 おぞましい音声。この世のものとは思えない声。地獄の底の亡者たちの呻き声と言われれば納得しかねない。


「神よ……」


 思わず足を止めた。この音声だけじゃない。スピーカーの穴から何かが現れようとしていた。ブクブクと泡立つなにかがそこにある。

 あまりにリアリティがない光景に、既に服を着終えたミーシャもハインツも動きを止めていた。

 

 ──びちゃんと、それは落ちた。


 丁度、ハインツとミーシャを分断するように落ちた。灰色のカーペットが赤黒く染まる。

 それは一言で言ってしまえばスライムのようだった。赤黒い半固体状の物体。ゼリーのようにぷるりとしていて、大きさといえば190センチあるハインツと同じくらい。 

 それは、中に、人体のパーツを浮かべていた。どこかの誰か。男女二人の顔と手足。噛み砕かれるようにスライムの中で消えていった。

 明らかにおかしい。スライムは兎も角、そんなパーツが通り抜けられる幅も広さもスピーカーにはなかった。

 

「ひっ……」


 ミーシャが小さく悲鳴をこぼした。それに、ぴちゃりとそのスライムが確かに反応した。反応したら行動は

早い。ずるずるとベッドの方へスライムが動いていく。


「ミーシャ!!」


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」


 スピーカーの音声も止まらない。ハインツは、気が狂いそうだった。神よ。どうか我々を助けてくれ。祈りながら近くにあった椅子なり小物なりをとにかくスライムに投げた。ミーシャだけは、守らなければ。

 しかし、スライムに当たったものはじゅっと溶けた。一瞬で形を失った。あのスライムに触れられればもう終わりなのが見て分かった。

 だがハインツの行動には意味があった。彼の声には反応しなかったが、投げたもののスライムから外れて、ディスプレイを破壊する音には反応した。

 そちらにスライムの意識と動きが逸れる。その一瞬をハインツは見逃さなかった。忍び足でなるべく早くミーシャに駆け寄り、抱えてもと来た道を同じように戻る。


「逃げるよ……!!」


 腕の中で恐怖に固まったミーシャが小さく頷いた。

 スライムがディスプレイを溶かし、ベッドを溶かすのを横目になんとかドアの前に、ハインツはたどり着いた。

 

「なっ……!」


 今度はドアが開かない。何故か開かない。ドアノブをどちらに捻っても。押しても引いても。

 

「どうして……!」


「ハインツおじさま……!!」


 焦るハインツの耳に悲鳴混じりのミーシャの声が聞こえた。振り返るとスライムが迫ってきていた。ドアの音に気づいたのかミーシャがいないのに気づいたのか。

 どちらは分からないがどちらにせよ2人の命運は尽きようとしていた。

 なにせ逃げ場はもうない。

 唯一の出入り口のドアは何故か開かず、左右はとてもじゃないが突破できない硬い壁。前にはスライム。


「ミーシャ、後ろに隠れてなさい」


 腕に抱えていたミーシャの盾になるように、ハインツは、彼女とスライムの間に立った。


「あのスライムが襲いかかってきたらなんとかドアに押し付ける。それできっとドアが溶ける。そこから逃げ出すんだ」


 大人として、社会的にも世間的にも神父としても終わっているとしてもミーシャをみすみす殺させるわけにはいかない。ハインツの男としてのプライドがそうさせた。


「で、でも……!」


「ミーシャ、それしかない。それしかないんだ……!!」

 

 振り返らない。盾として死ぬ。なんとか彼女だけは救ってみせる! その気概だけでハインツは立ち向かう。


「────!!」


 立ち向かう、はずだった。

 スライムのいた丁度、横。他の部屋との仕切りになっている壁が破壊された。衝撃波。轟音と強烈な衝撃がスライムを捉えて反対側に吹き飛ばした。

 もうもうと立ち込める白色の煙。コンクリートの粉塵の中、出来上がった大穴をくぐり抜けてきた影が一つ。


「あ、ご、ごめんなさい。お邪魔してますぅ……」


 その影はハインツを見ると少女の声を発した。何が何だか分からない。ハインツはそういう気分だった。


「きゃっ……ええ、えっと、ごめんなさい……その何か……隠して……」


 少女の影が今度は悲鳴を発したそこでハインツは、思い出した。


「あ、ああ……こちらこそすまない……」


 そういえば全裸だった、と。

 

 

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