第2話 ぼっちと悪魔と殺人鬼
「黒霧ミハ。俺と契約しろ。さもなくば死ぬぞ」
「なにこれ……」
「言ってる場合じゃない。伸るか反るか、選べ」
「なにこれ……」
天井からロープでぶら下がって揺れる死体。床に染み込む形容できない何か。漂う腐臭、異臭、死臭。夢であってほしい。たちの悪い悪夢であればいい。
そういう目を逸らしたくなる現実を前にした私は、幻覚を見て……幻覚……。
「全部幻覚にならないかなあ……」
「ならないから早く決めろ。俺は契約したい系の悪魔だぞ。悪いようにはしない」
「悪魔と契約って……」
漫画と小説の読みすぎが幻覚になるなんて……。
私の前でふよふよ浮いてる翼の生えた紫のナスみたいなやつは、自分を悪魔だと名乗った。ちょっと、可愛いかもしれない。
がたがたばたばたと背もたれにしたドアの向こうの廊下から音が聞こえてくる。やばい。近づいてくる。
「早くしろ」
低い声で急かされる。実際この幻覚は正しい。
だって、この紫ナス以外は現実なんだ。周りの死体も、私がここにいる理由も。手と足に付いたロープの痕とか、すーすーする下半身とか。
そういうのまとめて全部。
「この手をとれ。邪悪にして無価値、悪徳の為の悪徳、悪魔の中の悪魔、このベリアルと契約しろ。黒霧ミハ」
小さな爪の生えた小さな手が私の前に差し出された。分かっている。これは幻覚じゃない。
足音が迫ってきている。もうほど近い。見つかればただではすまない。
……どうしてこんなことになってるんだろう。
私は、一瞬、現実逃避した。
◇ ◇ ◇
嫌な予感はあった。
行方不明者がここ最近近所で出ているというのを聞いた時。朝、ニュースで絞殺死体が発見されたというのを見かけた時。取材ドローンが飛んでいるのを通学路で見かけた時。スーパーによって買い物をしたせいで帰りが遅くなった時。後ろから足音が聞こえた時。
その時からずっと予感があった。
今となって逃げるべきだったと後悔している。後悔先に立たず。もう、何もかも遅かった。
だって、私は今。
「…………かわいい」
──殺される。
私は、身動ぎ一つとれずに、ひっと悲鳴をこぼすことしかできない。
手首に沈み込むロープの感触。荒いロープが肌を擦っている。食い込んでいって、赤くなる。振り払おうとしても動かせない。天井近くからぴんと伸びたロープは少しも揺れない。
足も同じ。壁の床近くの方から伸びているロープが私を捉えて離さない。
もっとも不穏なのは、首元にかけられたロープ。今は緩く、輪っかがかかっているだけだけどちょっと力を込めれば私の首を締め上げてくる。
私は、空中に浮いている。どこともしれない部屋で、バッテンに、私の体が空中で固定されている。傍から見れば滑稽に見えると思う。それくらいおかしな光景だ。
いつの間にかこうなっていた。目を覚ますと私は、いつの間にか誰かの手でこんな風にされていた。
私をこんな風にした誰かは、今、私の目の前にいる。
私を殺そうとしている。
間違いなく、そうだ。
「かわいいなあ」
男の人。ロウソク代わりに先端だけ赤く燃えるロープだけが照らす、仄暗い部屋。かさついた白髪交じりの髪、しわだらけの乾いた肌が作った顔の内側で、黄色の歯と、爛々と輝く真っ黄色の瞳が厭らしい。
また男が顔を近づいてきて、同じ言葉を繰り返す。
生温い息が臭い。どうしようもない嫌悪感がぶわりと鳥肌を立てる。顔を背ける。ぎゅっと目を瞑る。するとひひひと男の人が笑う。
知らない人。見たことない人。気持ち悪い人。
私が嫌いで、私のことが好きな人。
今まで何度も見たことがあるタイプの人。何度も警察を呼んで、警察に突き出した人と同じに見えた。
けど、確定的に違うところがある。私が警察に突き出したタイプと明らかに違うところがある。
「かわいいねえ……」
ずずっと男の体を覆う、床を引きずっていた長い黒布が持ち上げられた。
その奥からロープが現れた。一本じゃなくて何本も。床を這って、空中を泳いで、私の方に伸びてくる。
髪に絡みつく、撫で回す。嫌悪感を浮かべてしまう。毎晩毎朝丁寧に育てた。私のために育てた髪。去年、白く染まってしまった髪。
胸に絡む。おもちゃのゴムボールを子供が遊ぶみたいな所作。深い谷間の合間に入り込んだり、ぎゅっぎゅと揉む。不快感しかない。気持ち悪い。
そこで、嫌な予感がした。それはすぐに的中した。
「………!?」
制服のスカートの下から潜り込んだロープがふくらはぎに絡みついてきた。ただ絡みつくのではなくて、味わうように舐めあげるロープの感触に、息が詰まる。
それだけでは満足できないとロープが奥へ奥へとやってくる。タイツを破いて、内側に入り込むと言い表せない感覚に襲われた。
その後すぐに、大きくぶちりと下半身で嫌な音がして、すっと締め付けから開放されたのを感じる。さっと顔から血が引いた。ロープの一本に絡め取られた下着を見せつけてくる。
黒とリボン。つい最近買ったばかりの、新しい下着が見るも無残になっている。
そこから脳裏によぎる、すぐに来る現実……考えたくもない。夢なら醒めて欲しい。
殺されるのも嫌。だけどこれも嫌。
こんなぞんざいに、こんなものに奪われたくない。
「いや……!」
おぞましさと恐怖。そういうこのが渾然一体になってやってきて、最終的に私の中で、別のものになった。
「やめて……!!」
怒りだ。黒くて、赤い。熱くて、冷たい。そういう怒りだった。
「かわいいよぉ……」
だけど、それが意味がないのも分かっている。私は、今、蜘蛛の巣の蝶。瞼をつぶって、歯を噛みしめるしかなかった。
その時だった。
すごい音がした。ばん!とかどん!とか大きな音。突然のことだから私ももちろん、この男の人のほうもびっくりしたみたいだ。同時に、私を縛っているロープが一気に緩んで、空中から落とされた。
「きゃっ……!」
痛い……。けどチャンスだと思った。逃げよう。どこに? 部屋なんだから出入り口の一つや二つくらいあるでしょ。
「大丈夫か?」
渋いバリトンボイス。酸いも甘いも噛み分けてきた味わい深い声がすぐ近くでしたと思うと、私の手をなんか小さくて丸っこい手が私の手を握っていた。
「え?」
「こっちだ」
答えも聞かずに走り出す。普通なら無理な体格差なのに、私の体が浮くくらいの速度で移動した。
──それがこの自称悪魔との出会い。
「契約!」
催促の声で、私は、現実逃避から戻ってきた。ベリアルと名乗った悪魔は、やはりそこにいる。
「契約するとどうなるの……?」
「今日を生きれる上、これから起こる悲劇を覆せる」
「……これから?」
「うむ」
悪魔──ベリアルが見た目と裏腹な重々しさで頷いた。足音がかなり近い。ばたんとドアの開く音が聞こえた。どうやら他にも部屋があるらしい。まだ距離はあるけど部屋を漁る荒々しい、怒りに満ちた音がこの部屋まで響いてくる。私たちには、あまり時間が残されていないことがわかった。
「それは、どういう……?」
でも聞かずにはいられなかった。
「……〈ダークプロヴィデンス 〜少女惨劇録〜〉を知っているか?」
迷った風なベリアルの口から出てきたのは、とてもじゃないが信じられない話だった。
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