満月の日だって

夏場

第1話

満月の日、子供を誘拐した。

最初から、子供を誘拐しようという気はなかった。

ただ、近所のスーパーで夕飯の惣菜を買った帰り道に、この子は、奏の後をアヒルの子供みたいについてきたのだった。

左右に一軒家がぽつぽつと並ぶ直線道、3メートル間隔に後ろをついてくるが、奏が少し早足になれば、その分離れてしまうほどには、相応の年頃であった。

4歳、といったところであろう。

気づいた時には、奏は踵をくるっと返して、その子をすくい、自分の家まで帰ってきてしまった。

心臓がバクバクしているのが、よくわかった。

少し冷静になった時、大変なことをしてしまった、と思った。

ワンルーム6畳半のアパートに子供と一緒にいる感覚は、もう今後一生体験することはないと思っていた。

その子の大きな丸っこい目で不思議そうに自分を見ている様子を奏は恐怖心と共に、愛おしいと思ってしまった。


もう子供は生めない、と医師から告げられたあの日、このまま死んでしまおうと思った。

SNSで子育ての情報を共有するアカウントをつくっては、これから母親になる人達と交流していたことも、心躍らせ自分の未来に期待していたことも、全部意味がなくなった。

すっからかんのアカウントで、以前交流していた母親達の育児日記や、投稿された子どもの写真を見ては、死にたくなった。

自分の子供ができないという絶望は、奏が小さな頃から心の底にあった夢を一瞬で壊した。

自分と夫と子供、家庭をもって、3人で、小さな一軒家で仲睦まじく暮らすという夢。

あれから夫と別れ、子供は生めず、自分一人で養子をもらって育て上げるほどの経済力もなかった。

奏の夢は、ただ死を待つばかりの今の現状からは、とてもかけ離れていた。



急に、子供の腹からぐうっとわかりやすく音がした。

目を下に傾け、自分の腹を抑えるその仕草、その一つ一つがとても可愛らしかった。

「なんか、食べる?」

子供は、コクっと頷き、奏をスッとまっすぐに見てきた。

カレー。今日食べようと、作り置きした物が冷蔵庫にあった。

今、買ってきた惣菜、卵焼きに、ちょっとしたハンバーグ。全部私が食べようと思って買ったものをレンジで温め、小皿に並べた。

カレーは、鍋でもう一度加熱し、子供が食べやすい甘口になるように、濃い口ソースを少し足した。

「こっちおいで」

小さい茶テーブルに、向き合うように子供を座らせ、小さなスプーンとフォーク、ご飯を並べた。

「食べて、いいの?」

そこで初めて聞いた子どもの声は、まさに自分が夢で考えていた吹き出しのセリフみたいだった。

奏は、いいよ、食べな食べな、と言うと、子供は最初にハンバーグをフォークでさしてかじった。

小さなスプーンとは馴染まない大きさのハンバーグが直角でフォークにさされていた。

「おいしい?」

「おいちい」

子供は、ハンバーグをひねったり下から見たりして、そう言った。

こっちも食べな、とカレーのルーとご飯を混ぜてあげた。子供はそれをスプーンでパクパクと口にした。

奏は、その間に、ハンバーグを一口サイズにはしで割ってあげたり、たまご焼きの中を少し開け、籠った熱を外に出してあげるようにした。

そうして、子どもは3つのものを少しだけ食べては、また交互に回すように食べ続けた。

よほどお腹が空いていたのか、無言でパクパクと食べていき、数分後、結局、半分近く3つとも残ってしまう形になった。

「おなか一杯?」

「いっぱい」

「よかった」

食べた後、子供は少しリラックスしているのが、その表情からわかった。

少し躊躇ったが、名前、なんて言うの?と聞いてみた。

子供は、ふうちゃん、と言った。

一瞬、溜息にも似たように聞こえたので、ふう、ちゃん?と聞き返した。

子供は、ふうちゃんと繰り返した。

ふうは、そう言って笑顔になった。

子供の笑顔、奏にとっては何にも変えられない喜びがあった。

ふうの、子供の100%の笑顔が自分に向いているという事実が、信じられなかった。

「ふう、他に何かしたいことある?」

「アニメみたい」

ふうがそう言ったから、自分のスマホの映像サブスクからアニメ欄を選択し、ふうに見せた。

「どれが見たい?」

「ふうこれ知ってる。大好き」

そう言って、最近よくSNSなどで見かける話題のアニメをふうは指さした。

3人の家族のアニメ。ピンク色の髪が特徴的な女の子と美男美女の二人が躍動感ある体制で映っていた。

スマホの画面を横にし、まだ残っている小皿を端にどかして真ん中に置いた。

いざアニメが始まると、ふうはかじりつくように見ていた。

食事の時は、あんなにせわしなかったのに、いざアニメが始めると、口をぽかんと開けて集中している。

アニメに集中するふうの横顔を奏はずっと眺めていた。

まさに夢みたいな時間だった。

こういうなんでもない日常が、自分が喉から手が出るほどほしかったものだった。

半分だけ開いたおちょぼ口、長いまつげに丸く大きな目、綺麗に茶色かかっている髪色。

その匂いや、その表情や、その仕草は、自分の子でもなくとも、とても愛らしかった。


30分のアニメがようやく終わる頃、ふうはふわっと両手を伸ばした。

その時、長袖のシャツから一瞬、赤い傷のようなものが見えた。

少し嫌な予感がした。

「ふう、ちょっとごめんね」

奏がふうの長袖を肩までめくってみると、ふうの左肩に赤いひっかき傷や、ちょっとした痣のようなものがあった。

「ふう、これどうしたの?」

「狼のおじさんにやられた」

「狼のおじさんって?」

「月がまん丸の日にくる、狼のおじさん」

ふうはそう言って、アニメのエンディングを見ていた。

ふうの言っている事はよくわからなかったが、もしかしたら、ふうはそういう扱いを受けているのかもしれない、と思った。

奏は、他の場所も見ようとして、ふうの右肩に手を伸ばしたが、本当にその線を超える権利が自分にはあるのかと思い躊躇った。

それを見たとして、虐待ともわからないとして、通報してもふうは家庭に戻されるし、自分は誘拐犯として逮捕されるだろう。そもそも虐待の確証もない。

今、こんなことをしているにも関わらず、さらに、その間に入っていくほど、自分には母親の権利はないと思ってしまった。

奏は少し考えた結果、それだけ見て他に関わるのはやめようと思った。



「ふう、狼のおじさん怖い?」

エンディングがちょうど終わって、次回予告も終わったタイミングでそう聞いた。

ふうは、ちょっと、怖いと言った。

少し身体が震えているのがわかった。

それを聞いて、奏は一つの絵本を戸棚から持ってきた。

それは、奏自身が、自分の子供が生まれた時に、一番に読み聞かせしてあげようと思った自分も小さかった頃に大好きな本だった。

「これ、なに?」

「狼おじさんをやっつけちゃう話」

奏は、ふうに読み聞かせをした。


満月の夜、楽しい夜のお話。


一ある日、平和な街に満月の夜になるとおおかみに変身する怖い狼男がいました。


狼男は、満月の夜になると、街の人達をつめでひっかいて傷つけたり、食べたりしていました。


狼男を恐れた街の人達は、みんなどこかに逃げたりしてどんどんいなくなっていきました。


街の人達がほとんどいなくなった満月の夜、狼男は、母親も父親も食べられてしまって一人ぼっちになっていた女の子を見つけました。


こいつを食ってやろう、狼男は女の子を食べようとしました。


すると女の子は、手に隠していたモップを振り上げ、狼男を叩きました。


狼男は驚きました。今まで、自分のことをみんな恐れたり逃げたりするばかりで、反撃にでようとする者などいなかったからです。


「私の街から出ていけ、狼男なんて大嫌いだ」


女の子は一生懸命、狼男を叩きました。


驚いたまま動けなかった狼男に、女の子が叩いた一発が、狼男のすねにあたりました。


いてーーーー、狼男は悲鳴を上げ、そのまま遠くに逃げていって、もう二度と街にくることはありませんでした。


街は平和になって、逃げていた人も帰ってきました。


街の人達は、踊って騒いで、その日からは、満月の夜は楽しい夜になりました。


女の子は皆に感謝され、幸せに暮らしました。


終わり。



ふうは、さっきのアニメを見るように、絵本の絵を見ながら、奏の話をただ聞いていた。

「狼おじさん、少しは怖くなくなった?」

「うん、でもまだちょっと怖い」

ふうは、そう言って奏を見た。

するとその時、窓越しに遠く向こうでパトカーのサイレン音がしている事に気づいた。

ああ、ふうを探しているのだと直感した。


もう、時間が少ない。


奏はおもむろに立ち上がってベランダに出て、ふうを呼んだ。

「ふう、こっちおいで」

3階のベランダの景色は、前には広い道路があり、音はうるさいものの、その景色は開けていた。

夜はまだ深くなかったが、10月の18時頃は、もう夜空の真ん中に大きな満月が綺麗にあった。

「ふう、満月さんにピースして」

ふうが小さな手でしたピースは、満月に被るようになった。

奏も、ふうの手と若干重なるように、満月にピースをした。

二つのピースサインが満月の内を少しだけはみ出したものを、奏はそれを写真で撮った。

「大丈夫のピース。怖くないよ」

奏はそう言った。

ふうもその様子を、満月に重なる二つのピースを面白がって、ピースピース、と言っていた。

奏は、ああ、この日の為に生きてきたのかもしれない、と思った。

ずっと退屈だった日が、今日だけは一瞬色鮮やかになって、もう自分の人生は、それで十分だった。

奏は、覚悟は決めた。


「強い子になって」

18時30頃、奏は、最後にそう言って、ふうを最寄りの交番の前に放して走り去った。



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