マギアと呼ばれた男

寝改

第1話

 汝らに告ぐ ー 剣と斧の時代は近い。獅子の吹雪の時代は近い。白冷と白光のときは近い。狂気のとき、屈辱のとき、テッド・ダリーター ー 終末のときは近い。世界は霜の中に滅し、新たな太陽と共に蘇るであろう。それこそ、世界にまかれた古き血脈 ー ヘン・セチェル ー の種が蘇るとき。種は芽吹くのみならず、炎となって燃え上がるだろう。

 シャ=トゥース・エイ!かくなるべし!徴を待ち受けよ!それがどのようなものであれ、最初に地上にはアエン・テーゼ ー エルフ ー の血が流れ………


 ーイスリン・エグリ・ライル・エヴェニエンの予言書ー




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 街は燃えていた。

 濠と近くの高台に通じる狭い路地は煙と火の粉を吐き、密集する藁葺き屋根の家屋を炎がむさぼり、城壁をなめつくそうとしていた。港門のある西の方から聞こえる叫び声と激しい戦闘の音と破城槌の鈍い響きが、次第に大きくなってくる。

 侵略軍はいきなり街を包囲し、僅かな兵と、鉾槍を持った一握りの住民と、ギルドから派遣された数名の石弓兵が守っていた防塞を破壊した。黒い馬飾りをなびかせた馬群が亡霊のように柵を飛び越え、騎兵隊の眩しく光る剣刃が逃げ惑う防衛軍の間に死の種を撒き散らしてゆく。

 ディアを鞍の前に座らせた騎士が拍車をかけ、叫んだ。

「つかまれ、つかまれ!」

 シェロナ国の軍旗を掲げる騎士団が後ろから追いつき、全速力でプウォジューフ兵に向かっていった。鋼のぶつかる音、刃と盾がぶつかる音、馬の嘶きが辺りを満たし、視界の隅で青地に金の軍服と、黒いマントが狂ったように渦巻き ー叫び声が上がった。いや、声じゃない ー 悲鳴だ。

「つかまれ!」

 怖い。馬体が揺れ、引きつけ、跳ねる度に、手綱を掴んだ両手に痛みが走った。脚は痛みで強張り、身体はぐらつき、煙で目がうるむ。身体にまわされた腕で喉が詰まり、肋骨が押さえつけられて息ができない。聞いたこともないような悲鳴がさらに大きくなった。一体何が、これほどの悲鳴をあげさせるの?

 怖い。怖くて動けない。息もできない。 

 鋼がぶつかる音。馬の嘶き。周囲の家並みが渦を巻き、さっきまで死体と、逃げ惑う住民が捨てた荷物が散らばるだけだった狭い路地に窓が浮かび、炎が噴き出した。鞍の後ろに座っていた騎士があえぐように咳き込み、手綱を握る手に血がほとばしった。悲鳴があがり矢がかたわらをかすめ飛ぶ。

 ディアは落馬し、痣ができるほど激しく甲冑にぶつかった。蹄が脇を駆け抜け、馬の腹と擦り切れた腹帯が頭上をかすめてゆく。さらにもう一頭の馬の腹と黒い馬飾りが通り過ぎた。木こりが木を切り倒すときのような力のこもった唸りが聞こえる。でも、これは木じゃない。鉄と鉄がぶつかる音だ。くぐもった低い叫びとともに黒く大きな塊が血を噴き、パシャッとディアの脇のぬかるみに倒れ込んだ。武具をつけた足が震え、ばたつき大きな拍車が地面をえぐっている。

 その瞬間、ディアが誰かにぐいと掴まれ、別の鞍の上に引き上げられた。つかまれ!気がつくと、またしても疾走する馬の背上にいた。ディアは死にものぐるいで掴まるものを探した。馬が後ろ脚で立ち上がる。つかまれ!………でも、掴めるものは何もない。何も………何も……………あるのは血だけ。馬が倒れた。飛び退きたいけど動けない。どんなにもがいても、鎖かたびらに覆われた腕を振りほどけない。頭と肩に血が降りかかる。

 ディアは馬から放り出され、ドサッと地面に落ちた。馬の背で激しく揺られたあとでは、地面にじっとしている方がかえって怖い。馬が立ち上がろうとして、あえぎ、嘶き、蹄鉄の響きとけずめと蹄が脇を駆け抜けた。黒い馬飾り、黒いマント。怒号。

 通りが燃え、赤い炎の壁がうなりを上げた壁の前に、騎乗の騎士の影が燃え盛る屋根より高く浮かび上がった。黒い飾りをつけた馬が跳ね回り、頭を仰け反らせて嘶いた。

 騎士がディアをじっと見下ろした。猛禽の羽でふちどられた巨大な兜の隙間から、光る目が見えた。下ろした手に握った剣の幅広い刃に炎が写っている。

 騎士がディアを見ていた。ディアは動けなかった。死んだ騎士の腕が腰に巻きつき、重くて血まみれのものが太ももの上に横たわって、地面に押さえつけられている。

 ディアは恐怖に凍りついた。胃がひっくり返りそうだ。傷ついた馬の嘶きも、炎のうなりも、住民の断末魔も、蹄の音も聞こえない。そこに存在し、意味を持つのは恐怖だけだ。恐怖が羽つき兜の黒騎士となって、猛り狂う赤い炎の壁を背に凍りついたように立っていた。

 騎士が、馬に拍車をかけた瞬間、兜の翼が猛禽の飛翔さながら羽ばたき、恐怖にすくみ上がる哀れな獲物に向かって飛び立った。鳥が ー いや、騎士が ー 恐ろしげに、残酷に、勝ち誇ったように叫んだ。黒い馬。黒い鎧。はためくマント。その向こうには ー 燃え盛る炎。炎の海。

 怖い。

 鳥が甲高い声を上げた。翼が羽ばたき、ディアの顔を叩く。怖い!

 助けて! どうして誰も助けてくれないの? たった一人で放り出され、なす術もないあたしを………。動けない。喉が詰まって声も出ない。どうして誰も助けに来ないの?

 怖い、助けて

 羽のついた大兜の隙間越しに目が光った。次の瞬間、黒マントが全てを覆い ー

「ディア!」

ディアは悲鳴を上げて目を覚ました。全身が痺れ、汗びっしょりだ。自分の悲鳴の余韻が辺りを満たし、身体の奥 ー 胸骨の下 ー でなおも振動し、渇いた喉にやきついている。両手は痛いほど毛布を握りしめ、背中が痛い………。

「ディア。落ち着け」

 暗く、風の強い夜。周囲の松林梢が音楽のように絶えずざわめき、枝と幹が風にきしんでいる。燃え盛る炎もなければ、悲鳴も聞こえない。聞こえるのは森の優しい子守歌だけだ。焚き火が光と熱を放って揺れていた。炎が馬具の留め金に反射して輝き、地面の鞍に立て掛けた剣の、革と鉄帯で巻かれた柄を赤く照らしている。それ以外に炎や鉄はどこにもない。ディアの頬に触れた手からは血ではなく、革と灰のにおいがした。

「ロベルト ー 」

「ただの夢だ。悪い夢を見ただけだ」

 ディアは身体をギュッと丸め、激しく身震いした。

 夢。ただの夢。

 焚き火が消えかかっていた。カバノキの薪が赤く光り、ときおりパチっとはじけて小さな青い炎を放つと、身体を毛布と羊の毛皮で包んでくれる男の白髪と鋭い横顔が浮かび上がった。

「ロベルト、あたし ー 」

「ここにいる。眠るんだ、ディア。休め。まだ先は長い」

 音楽が聞こえる ー ふとディアは思った。木々のざわめきに交じって………音楽が聞こえる。リュートの音。人々の話し声。 ー シェロナ国の王女………運命の子………古き血脈の子……… ー エルフの血 ー 。魔法剣士のロベルト。《白獅子》。その運命。いや、あれはただの伝説だ。詩人の創作だ。王女は死んだ。脱出の途中で殺された………。

 つかまれ……! つかまれ………。




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「ロベルト?」

「なんだ、ディア?」

「あの人はあたしに何したの? 何があったの? あの人は………あたしに何をしたの?」

「誰のことだ?」

「騎士………羽のついた兜をかぶった黒い騎士………何も思い出せない。覚えているのは、怖かったこと………とても怖くて………」

 ロベルトが顔を近づけた。焚き火の炎がロベルトの目の中で火花を散らした。不思議な目。とても不思議な目だ。最初は怖くて目を合わせられなかった。でも、それは遠い昔。はるか昔のこと………。

「何も思い出せない」ディアは呟き、原木のように堅く、ざらざらするロベルトの手を探った。「黒い騎士が ー 」

「夢だ。ゆっくり眠れ。もう悪い夢は見るな」

 これまで何度もそんな言葉を聞かされた。何度も、何度も。夜中に自分の悲鳴で目が覚めるたびに、ディアはなだめるような言葉をかけられた。でも、今度のは違う ー ディアは思った。今度だけは信じられる。ロベルトの言葉だから。魔法剣士。魔法剣士のロベルトは戦いと死と絶望の中からあたしを見つけ、救い出し、決して離れないと約束してくれた。 

 ディアはロベルトの手をきつく握ったまま、眠りに落ちた。

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