第九章 意味なき戦

「信雄が年賀にも来ぬ。ひどいものじゃ」

 秀吉が官兵衛と蜂須賀正勝に向かってぼやいた。

「信雄は己の立場を理解しておらぬらしい」

 秀吉の言う信雄とは、織田信長の次男である北畠信雄のことである。北畠信雄は、織田信雄として生きてきたが、北畠具房の養嗣子となり、北畠具房が死んだ今は、北畠を継承している。

 つまり、北畠信雄は織田の名を名乗っていないのだから、三法師よりも織田家当主の座を遠慮するべきなのである。

 だが、北畠信雄は、他姓を継いでいるからと織田家当主の座を遠慮するどころか、織田信長の血筋の年長者は儂だと言い、織田家の当主である三法師にいずれ仇をなす存在になっていた。

「そして、織田家の当主はあ奴の兄上の信忠様の遺児である三法師様と決まっておるにも関わらず、しかも、尾張、伊賀、伊勢の織田家本貫の地である三国を貰っておきながら、まだ欲しいは厚かましいにも程がある。放っておけば、いずれ三法師様に刃を向けかねぬ」

 秀吉は少し苦い顔をして言った。

「しかし、殿」

 既に北畠という他姓を継いでいるとはいえ、誰がなんと言おうと信長の遺児であることには間違いはない。官兵衛が止めようとするのも気にせず、秀吉は語った。

「なあに、信雄は信長様のお子。決して傷つけたりはせぬ。ちと灸をすえるだけじゃ」

 秀吉は不敵な笑みを浮かべた。

「あと、それに手を伸ばしておる長宗我部にもな。できることならこの戦で長宗我部征伐を代行したい」

 秀吉は、長宗我部元親の本拠地である岡豊城がある土佐国の長宗我部家の家臣が、海を渡って尾張国付近に来て、商人を装って清州城に入城し、北畠信雄と密談していたことを把握していた。

 その少し後、北畠信雄が、あからさまに秀吉に牙を剥き始めた。

「信雄殿から野生の謀反猿を捕獲してほしいとの依頼が届いた。皆の者!清州城に出陣じゃ!」

 北畠信雄は、駿河国駿府城を本拠地としている、信長の同盟者であった徳川家康に援軍を要請し清州城に入城させ、徹底抗戦の構えを見せた。

 官兵衛は、その知らせを聞くなり呆れた。

「戦一つもお一人でできぬとは」

 官兵衛は少し間を開けると、呟いた。

「親子で何が違うのでござろうか。信長様のお子とはいえ、あのお方はその遺伝子を継げなかったのであろうな。何しろ、信長様は一人で戦をするどころか、複数の大軍を指揮する能力を、柴田勝家や秀吉様を対象とした方面軍で周辺諸国にわからせておられる。まあ、柴田勝家の場合は自滅しただけだがな。だが、北畠信雄を見ると、とてもそのようなことをできる人間とは到底思えぬ」

 官兵衛は、己が秀吉に三法師を擁立するように勧めたことは名案だったと感じた。

「秀吉様の天下はいつまで続くのであろうかな」

 官兵衛は、最早天下は織田家のものだと思っていなかった。

 北畠信雄に、伊予や讃岐などを我が物とし、前々から北畠信雄に手を伸ばした長宗我部元親、反秀吉勢力である、鈴木佐大夫孫一を頭領とした雑賀衆と根来衆、信長に滅ぼされた一向一揆の残党、関東の殆どを所領としている北条氏政、そして表向きは秀吉に従っている形を取っていた佐々成政らが秀吉に敵対し、北畠信雄方に加わった。

「殿」

 伝令役が官兵衛の屋敷に駆け込んできた。

「いかがした」

「はっ。徳川家康様が清州城に入城されました」

「いよいよか」

 官兵衛はやっと来たかというような対応を取っただけで、珍しく相手の軍勢の人数を聞かなかった。

「それに加え、池田恒興殿が犬山城を攻略されました」

「池田殿が」

 池田恒興は信長の乳兄弟である。当然北畠信雄に与するものだと、官兵衛も秀吉も読んでいた。

 官兵衛は勿論、そのことを秀吉に報告した。

「信雄め、さぞ当てが外れておることであろうよ」

 秀吉はほくそ笑んだ。

 だが、北畠信雄の三家老である津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三人が池田恒興の寝返りに油断し、秀吉に内通したということが露見した。これによって、三人は北畠信雄によって清州城に呼び出され、騙し討ちに遭った。

「馬鹿が」

 秀吉は激怒した。

「なまじ斯波家の血筋じゃから、公家かぶれじゃからこういう時に油断する。使い物にならんわ」

 秀吉は津川義冬との内通の約束の際に斯波家の旧領を全てくれてやるという約束をしていた。

 秀吉は唾を吐き捨てた。そして、手に持っていた扇子を膝に叩きつけて真っ二つにした。

 内通していた三人が一気に殺されたのだ。これを徹底抗戦の意思と取った秀吉は、怒り狂い、十万の大軍を率いて清州城へと出陣、徳川家康まで滅ぼそうと意気込んだ。

 だが、官兵衛への知らせはこれだけでは終わらなかった。

「そして、雑賀衆、根来衆、一向一揆の残党が合力して和泉国岸和田城に襲来」

「何っ」

 この知らせが初めて官兵衛の心を動かした。

「その数、何と三万」

「長政は、長政はどうしておる」

 官兵衛が心配するのも当然であった。長男長政は秀吉から大阪の留守居を命じられ、岸和田城周辺で奉公しているからである。

「はっ。岸和田城主中村一氏様とともに籠もられ、一揆勢を蹴散らしておられまする」

「そうか。ご苦労であった。」

 官兵衛は伝令役に褒美を取らせた。

 秀吉は清州城に向かって自ら出陣したわけではなかった。一族である三好秀次を派遣したのだ。

 だが、その三好秀次がひどかった。徳川家康の背後を突くために迂回作戦を決行したのはいいが、己が十万の大軍を率いているということで油断し、進軍を遅くした挙句、途中で何度も休息を取り、居所を家康に知られてしまった。そこに、徳川四天王の一人である榊原康政が突撃し、羽柴軍は大混乱、織田家の重臣である池田恒興、森長可ら有力諸将を失った。

「若さ故の過ちでございますな」

 知らせを聞かされた官兵衛は三好秀次に呆れた。

「家督を秀次様に継がせても羽柴は持たないであろう」

 官兵衛は、秀吉も三好秀次もいない所でぼやいた。

「馬鹿をしおって」

 秀吉は三好秀次を呼び戻すと、家臣団のいる前で殴り、その場を出て、軍備を整えて清州城へと今度は自ら出陣した。

 秀吉は、自ら出陣してもなお、徳川家臣である服部半蔵正成ら伊賀衆の忍者集団に陣容から出陣武将から全てを徳川軍にばらされ、一旦退き、清州城を包囲した。

 北畠信雄は秀吉に包囲され、窮地に陥った。そこに、秀吉から降伏の軍使が来た。

 北畠信雄は条件をあっさりと飲み、所詮は織田家を助けるという名目の援軍でしかない家康を撤退せざるを得ない状況に追い込んだ。

 官兵衛は、天下の大戦とも言えよう戦いが終わったことを察知し、長政を呼んで、親子でこじんまりと盃を酌み交わした。

 その中で、官兵衛は長政を試すように聞いた。

「長政、一ついいか」

「何でございましょう、父上」

「この戦、どうせ和議を結ぶのであれば意味なき戦とは思わぬか」

「確かにそう思いまする。ところで、私からもお話が。私も小牧長久手のことでございまするが、父上、この戦で一番得をしたのは誰でございますか」

「一番得をされたのは・・・・・・徳川殿じゃ」

「家康殿でございますか。何故でございまする。家康殿は長い滞在で物資をかなり消費しましたぞ」

「兵も殆ど失っておらず、有力な家臣は誰一人として死んでない」

 官兵衛は、息子である長政を愚かであるとでも言うように、事実だけを長政に突きつけた。

「なるほど」

 長政も、官兵衛の言おうとしていることの全てを理解した。

「では、信雄殿は」

「信雄殿は、明らかに損をされた」

「何故でございまする。信雄殿は、家康殿のお力があったとはいえ、秀吉様と対峙するほどの実力を知らしめたと思いまするが」

「それより信雄殿の評価を落とす、大きいものがある。声望じゃ」

「声望」

 長政は訳も分からず繰り返した。

「そうじゃ。信雄殿は援軍に来ていた家康殿に無断で秀吉様と和睦を結んだ。つまり、援軍を見捨てたことと同じ。如何に戦国の世と言えど、仲間を見捨てた将を、皆が信用し、ついて来ると思うか」

「いえ・・・・・・」

「仲間を見捨てることほど、皆の信頼を裏切ることはない。今は織田の血筋じゃからまだ優遇されるであろうが、いずれ世が変わったら、信雄殿は皆から放置され、居場所を失い、野垂れ死にすることになる」

「成程。浅慮でございました」

 長政は、父の思考の深さに感嘆した。

「では、殿は、秀吉様はどちらですか」

「損得だけで言うのであれば、殿は得をされた」

「何故でございまするか。秀吉様は有力諸将である森長可殿や池田恒興殿を討ち取られて・・・・・・」

「その逆だ。殿は織田家重臣である森長可や池田恒興らが死んでくれたと思っておる。これで己を、秀吉様を叱ることができるのは織田家の中で筆頭とも言える立場の丹羽長秀のみとなったのだからな」

 長政は沈黙した。いや、言う言葉が見つからなかったというほうが正しいであろう。

 秀吉は北畠信雄の一件を片付け、紀州に根を張って岸和田城を攻めた雑賀衆、柴田勝家との戦いであった賤ヶ岳合戦に引き続き、二度も秀吉に敵対した佐々成政殲滅作業に取り掛かった。

 佐々成政は秀吉の率いてくる大軍に降伏、大坂に召集され、雑賀衆は棟梁の鈴木佐大夫孫一が殺されたことによって降伏、鈴木佐大夫孫一の息子である鈴木重秀、鈴木重朝は、秀吉にその才を見出され、秀吉への仕官を条件に助命された。

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