第6話
(私が今のままだったら婚約解消なんですって!)
今までにないくらいサンドラの胸は高鳴っていた。おそらく、エイデンとの婚約が決まったときよりも高揚感が強い。
エイデンはきっと、婚約解消の話を持ち出せばサンドラが元のサンドラに戻ると思っていたのだろう。真面目だけが取り柄の、地味で従順なサンドラ・ルーンに。
しかし、そんな忠告はサンドラにとって渡りに船だ。エイデンから婚約解消を持ちかけてくれるなんて、これほど好都合なことはない。
サンドラは軽やかな足取りで帰宅した。
天にも昇るような晴れやかな気分だった。
しかし……
「サンドラ、話があります。お父様の部屋に来なさい」
帰って早々、玄関ホールで待ち構えていた母にそう言い渡された。十八年間もこのひとの娘として生きてきたサンドラにはわかる。母は間違いなく怒っている。
サンドラは浮き浮きとしていた気分が瞬く間に萎んでいくのを感じた。
「お、お母様、もしかして、エイデンとのことをもう聞いたの……?」
「話はお父様も交えてするわよ。いいから早くきなさい」
そう言い放って、母は早足で父の部屋へと向かっていく。
(……これ、絶対に怒られるやつよね。というか、もしかしたら婚約解消できないやつ……?)
死んだ魚の目をしたサンドラの頬がひくりと引きつった。
せっかくエイデンから婚約解消の話を引き出したのに、全部無駄になるのだろうか。朝、あれだけ化粧と髪のセットを頑張って、立ち振る舞いだってマチルダのように──……
(……そうよ。私は第二のマチルダ・ナトルになる女。マチルダ様はこんなところで引き下がらないわ、きっと!)
「サンドラ! 早く来なさい!」
「──ええ、お母様」
サンドラはキッと目線を上げ、睨むように母の背中を見つめる。そして、ゆったりとした余裕のある足取りで母の後を追った。
「サンドラ、歩くのが遅いわよ」
「ごめんあそばせ」
「…………?」
父の自室には父と母だけでなく、義兄となるユーリスもいた。家族全員で話をしようということらしい。
サンドラはユーリスの隣のソファに腰掛け、神妙な顔をする両親に向き直る。
「それで、いったいなんの話ですの?」
「……? サンドラ、今日はなんだか様子がおかしくないか? なにか変なものでも食べたのか?」
「まさか。いつも通りですわ」
「っ……!」
隣のユーリスが、吹き出しそうになるのを堪えるように手で口を押さえた。
サンドラも、マチルダが家で両親にどんな態度なのかは知らない。とはいえ、おそらくこんな口調ではないだろう。
しかし、いつもと違うこの口調で喋っていると、サンドラはいつもと違う自分でいられる気がした。不思議なくらい堂々としていられるのだ。
「で? 話とはなんですの、お父様?」
「あ、ああ……お前の婚約者のエイデンのことだが、いったいどうなってるんだ? ロードリー伯爵からさっき早馬で手紙が届いて驚いたんだぞ。突然婚約解消だなんて……」
「それはエイデンが言い出したんです。だから、私はそれを了承しただけですわ」
「エイデンは本気ではなかったと言っているらしい。……サンドラ、お前はエイデンとの婚約を喜んでたはずだろう? なのに、なんでこんな話になってるんだ? それに、突然そんな派手な格好をして……いったいお前になにがあったんだ?」
「ああ、それに関しては色々理由があるんですよ。俺から説明します」
父の苦言に口を挟んだのはユーリスだった。軽く咳払いをしてから、ユーリスは昨日サンドラの身に起こったことを端的に両親へと説明してくれた。
あの品行方正なエイデンが裏でサンドラのことを悪く言っていたのは両親も知らなかったらしく、ふたりは目を丸くして顔を見合わせている。
「──と、言うわけで、サンドラは今マチルダ・ナトルのような派手で強気な女を目指しているわけです」
「なるほど……いや、サンドラが目指している方向は少しナトル公爵令嬢とは違う気もするが、なぜエイデンと揉めているのかはわかった……わかったが…………」
両親はどちらも渋い顔をして、頭を悩ませているようだった。なにも知らなかった両親はおそらくサンドラを窘めるつもりだったのだろうが、想像よりもエイデンの方に非があったことに戸惑っているようだ。きっと、一人娘を馬鹿にされて腹が立つ気持ちもあるのだろう。
「……真面目だけが取り柄の、地味で従順な女だなんて……サンドラは私たちの大切な娘なのに……っ」
特に、エイデンの母親と仲の良い母の動揺は大きいようだった。涙ぐんで、口元を手で押さえている。幼い頃からエイデンのことを知っていて、息子のように思っていたからこそ、裏切られた気持ちも大きいのかもしれない。
父はそんな妻の背中をさすりながら、困惑した顔でサンドラを見る。
「サンドラ、つらい思いをさせてしまってすまなかった……エイデンは出来の良い少年だと思っていたが、そうではなかったらしい」
「……いえ、お父様とお母様のせいではありませんわ。私だって、昨日まではエイデンのことを優しい婚約者だと思っていましたから」
予想よりも両親がサンドラの味方となってくれそうなことに、サンドラは内心驚いていた。家のことを考えて我慢しろと言われるかと思っていたが、自分で思っていた以上にサンドラは家族に愛されていたらしい。
「……それで、お父様、私とエイデンが婚約解消することになったとして、なにか問題はありますか?」
「問題か……ロードリー伯爵夫妻とは少し険悪になるかもしれんが、婚約解消を言い出したのがエイデンならそれほど揉めることもないだろう。ただ、今になってお前の新しい結婚相手を探すのは大変だろうな……」
「でしょうね」
さらりと言って、サンドラは軽く頷く。
貴族の子どもは早いうちから自身の結婚相手を決められている。十代後半になっても婚約者がいない貴族なんて、なにかしらの問題があるか、よっぽどの変わり者かのどちらかだ。今からまともな結婚相手を探すのは、父の言う通りなかなか骨が折れるだろう。
(でも、それならそれで、結婚なんかできなくてもいいわ)
ここ数日で、サンドラの中に薄っすらとあった結婚願望はすっかり消え失せていた。別に結婚なんてできなくてもそれはそれで良い気がしている。周りから白い目で見られてしまうかもしれないが、それなら修道女にでもなって──
「なら、ずっとここにいればいいじゃないか」
サンドラは目を丸くして、隣に座るユーリスを見上げる。ユーリスは青い目を細め、優しくサンドラを見下ろしていた。
「ここはお前の生まれた家なんだから、これからもずっとここに居ればいい」
「……でも、それではユーリスお義兄様に迷惑がかかります」
「迷惑なんてかからないさ。俺とお前が結婚すればいいんだから」
「えっ?」
サンドラと両親は呆気に取られたように目を見張る。しかし、ユーリスは変わらず満面の笑みを浮かべたままだった。
「サンドラ、お前を誰よりも愛してる。俺と結婚しよう」
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