第3話



(こ、これ、大丈夫かしら……?)


 自宅へと向かう馬車の中、サンドラは落ち着きなく視線を漂わせた。

 自分から香る化粧品のいい香りも、緩く巻かれた髪が頬にあたるのも落ち着かない。

 けれど、不思議と嫌な気分ではないのだ。くすぐったいような、照れくさいような──初めてのパーティーで綺麗なドレスを着せてもらったときのような妙な高揚感に、サンドラの頬は僅かに色付いていた。


 よく磨かれた馬車の窓に映る自分を、サンドラはぽうっとした表情で見つめる。


(私じゃないみたい……)


 まつ毛は普段よりも長く、綺麗に見えるし、目鼻立ちはいつもよりはっきりしているような気がした。それに、可愛らしいピンク色の口紅を塗られた唇がぽってりとしていて、なんだか少し大人っぽい雰囲気だ。

 いつもは後ろで結い上げていた髪も今日は下ろして、軽く巻いてもらった。サイドの髪は編み込まれ、綺麗な髪飾りで後ろに留められている。


 全部、マチルダがしてくれた。彼女はいつも大量の化粧道具を学院に持ってきているらしく、それをサンドラに使ってくれたのだ。


『……マチルダ様は、いつも自分でお化粧を?』

『そうね。貴族が自分で身の回りのことをするなんて卑しいって言う人もいるけど、いちいちメイドに指示するより自分でした方が楽だし、その方が綺麗にできるもの。あんたほどじゃないけど、私も手先が器用なほうだから』

『私はお化粧はメイドに任せてますけど、自分でする方が楽なのはちょっとわかる気がします。じっと待ってるのって疲れますよね……といっても、正しいお化粧の仕方なんて私にはよくわかりませんけど……』

『そんな難しいもんじゃないわよ。でも、ただ適当に化粧品を塗りたくって粉をはたくんじゃダメ。人間の顔はもともと立体的なんだから、ちゃんと影をつけてあげるの』

『なるほど……絵と同じ、ってことですね』

『そうよ。わかってるじゃない』


 サンドラに化粧を施しながら喋るマチルダは楽しそうだった。どんどん別人のように美しくなっていく鏡に映る自分を見て、サンドラは嬉しいを通り越して感動した。


 化粧は魔法ではなくアートだとマチルダは言った。けれど、サンドラには自分に魔法がかけられたように見えた。

 サンドラは自分の顔に手を当て、窓に映る自分を食い入るように見つめる。


(……ちゃんとお化粧した私、もしかして結構可愛い……?)


 そんな自画自賛をしてしまうくらい、今のサンドラは浮き足立っていた。今日聞いたエイデンの陰口のことも、サンドラはすっかり忘れてしまっていたのだった。






 屋敷に帰り着くと、出迎えてくれた執事や使用人たちが目を丸くしてサンドラを見つめた。いつもと違うサンドラの姿に彼らも驚きを隠せないようだ。


「お、お帰りなさいませ、お嬢様……」

「ただいま…………あの、この見た目は変かしら……?」


 サンドラがおずおずと尋ねると、目を丸くしていた執事がにっこりと微笑んで首を横に振る。


「いいえ、そんなことは。いつもと違うので驚きましたが、よくお似合いですよ」


 幼い頃から家に仕えてくれている執事の言葉に、サンドラはホッと胸を撫で下ろした。そして、自室へ向かおうとしていたところで「サンドラ!」とよく通る声で名前を呼ばれる。

 声のした方を振り返ると、ひとりの青年が軽快な足取りでサンドラのもとへとやってきた。

 サンドラの従兄弟であり、ゆくゆくはルーン伯爵家の跡取りとなるユーリスだ。


「ただいま帰りました、ユーリスお義兄様」

「おかえり、サンドラ。今日はいつもと少し違うな。普段のお前も可愛いが、今日のお前もすごく可愛い」


 満面の笑みを浮かべたユーリスは、大きく腕を広げてサンドラを抱き締めようとした。……のだが、それはふたりの間に体を滑り込ませた執事によって阻まれる。


「ユーリス様、いくら兄妹のように仲が良いといえど、おふたりは従兄弟なのですから」

「はいはい、わかってるよ。過度な触れ合いは厳禁だろ」


 ユーリスは肩をすくめ、サンドラを抱きしめようとしていた両腕を下げる。

 ユーリスはサンドラの父の弟の息子で、つまりはサンドラの従兄弟だ。サンドラには兄弟がいないため、追々ユーリスが父の養子となり、ルーン伯爵家を継ぐことが決まっている。まだ書類上の手続きは済ませていないが数年前からこちらの屋敷で暮らしており、すでに家族同然の仲だ。


 高い身長に、端麗な顔立ち。誰とでも仲良くなれる明るい性格。おまけに妹のような存在であるサンドラには、昔からとびきり優しい。

 そんな、義兄であり従兄弟でもあるユーリスのことを、サンドラは幼い頃から慕っている。もしかすると、両親よりも信頼しているかもしれない。


 ユーリスは目を細めて微笑み、サンドラの背中に手を回した。


「サンドラ、夕飯の前に一緒にお茶でもどうだ? どうして急に雰囲気を変えたのか、理由も聞きたいしな」

「…………」


 そこでようやくサンドラは、今日あった最低な出来事を思い出した。あんなに傷付いていたのに忘れていた自分に驚きつつ、今も耳に残るエイデンの言葉に表情が曇る。


「……ええ。私もユーリスお義兄様に聞いてほしいことがあるんです」

「ああ、もちろんいいよ。お前の話ならなんだって聞くさ」


 ユーリスの優しい手に背中を押され、ふたりはユーリスの部屋へと向かった。





 ユーリスの部屋で、サンドラは侍女の用意してくれた紅茶にそっと口を付けた。

 香りのいい紅茶の温かさに緊張がほぐれるのを感じながら、サンドラは静かに話をはじめる。


「……実は今日、悲しいことと嬉しいことがひとつずつあったのです」


 エイデンの陰口を聞いてしまったこと、マチルダに出会ったこと、マチルダにお化粧をしてもらったこと──なるべく淡々と話そうとしたが、マチルダの話に関しては少し興奮気味だったかもしれない。

 サンドラはいつになくはしゃぎながら言葉を続ける。


「私、エイデンに『慎ましくするように』って言われてたから、こんなにしっかりお化粧をするのは初めてで……マチルダ様のお化粧は本当に魔法みたいにすごいんです!」

「そうかそうか。それは良かったね。……それで、今サンドラはエイデンのことをどう思ってるんだ?」


 ずっと静かに話を聞いていたユーリスが、にこやかにサンドラの言葉を遮った。その顔にはうっすらとした笑みが浮かんではいるが、青い瞳はいつもより冷ややかだ。


(エイデンのことをどう思っているか……)


 サンドラは少し考えてから、俯き加減で答える。


「……私、正直エイデンとの結婚が怖くなっています」

「無理もない。そんな酷いことを聞かされたら、誰だって不安になる」

「でも、こんなことを理由に婚約解消なんてできないのは私もわかっています。だから私……明日から変わろうと思います」

「……どう変わるんだ?」


 ユーリスの問いに、サンドラは背筋をまっすぐに伸ばして答えた。


「マチルダ様みたいな女性になります」

「……なるほど……エイデンの嫌う第二のマチルダ・ナトルを目指すのか」

「ええ、もうエイデンにとって都合の良い女でいるのはやめようと思います。真面目だけが取り柄の、地味で従順な女だと見下されるのはもうごめんです」


 とはいえ、サンドラは自分から婚約解消を持ちかける気はない。もちろんそうなってくれたらとは思うが、貴族の結婚に私情など二の次なのはわかっている。

 それに、下手に揉めてこちらが婚約破棄の慰謝料を請求されたら、両親とユーリスに迷惑をかけてしまう。なるべくそんなことは避けたい。


 結局のところ、ふたりの関係がどうなるかはエイデン次第だ。

 サンドラの変わった姿を見たエイデンが『そんな女とは結婚したくない』と言い出すならそれでもいいし、逆にサンドラが自分に都合の良い女でなくなっても結婚するというなら、それでもいい。

 どちらにせよ、サンドラは今までの自分でいる気はない。もうあんな風に陰で見下されるのは懲り懲りだ。


「……もしかしたら、ユーリスお義兄様たちには迷惑をかけてしまうかもしれません」

「迷惑なんてかかるわけないだろ? 俺はお前を愛してるし、お前の両親もそれは同じだ」


 そう言ったユーリスは立ち上がり、サンドラの隣へと腰掛けた。青い目がサンドラを見下ろし、大きな手がサンドラの手を優しく握った。


「ユーリスお義兄様?」

「サンドラ、なにがあっても俺はお前の味方だ。お前を誰よりも愛してる。もちろん、あのエイデンなんかよりも」

「……ありがとう、ユーリスお義兄様」


 頼りになる従兄弟の言葉にサンドラは頬を緩める。

 そんなサンドラを見てユーリスは一瞬なにか言いたげな顔をしたが、すぐに穏やかに笑ってサンドラの髪を撫でてくれた。


(ユーリスお義兄様もこう言ってくれてるし、明日から頑張らなければ……!)


 マチルダに化粧の仕方と髪のアレンジの仕方は教わったし、化粧道具もマチルダの手持ちにあった分をたくさん貸してもらった。あとは持ち前の手先の器用さを活かして自分でマチルダに似た派手な化粧をして、マチルダのような気の強い女として学校に通うだけだ。


 サンドラは意気込むように、胸の前で両手の拳を握る。


(絶対に変わってみせるわ! 目指せ、マチルダ様!)

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