第2話


「あら、ほんとに泣いてたのね」


 サンドラの赤くなった目を見て、マチルダは少し呆れたようにそう言った。

 恥ずかしくなったサンドラは再び下を向く。


「ちょっと、隣あけてくれる? ここはあんただけのベンチじゃないんだけど」

「ご、ごめんなさい……」


 ベンチの真ん中に腰掛けていたサンドラは、あわててベンチの端にずれる。するとマチルダは、当然のようにサンドラの隣に腰掛け、手に持っていた本を読みはじめた。

 そんなマチルダを、サンドラは唖然と見つめる。

 

 マチルダ・ナトル。彼女はナトル公爵家のひとり娘で、この国の第三王子であるダニエル殿下の婚約者でもある。

 とびきりの美人で、いつも髪型や服装に人一倍気を遣っている……つまりは、とても派手で、その派手な装いがよく似合う特別な容姿のひとだった。


(……私とは、正反対)


 ただでさえ気まずいのに、サンドラはなんだかマチルダの隣にいるのがとても苦しくなってきた。

 サンドラがマチルダみたいだったら、エイデンもあんな酷いことは言わなかったのかもしれない──そんな馬鹿なことを考えて、いっそうみじめな気分になる。


「……では、私はこれで──」

「エイデン・ロードリーに浮気でもされた?」


 サンドラが腰を上げかけたところで尋ねられた言葉に、サンドラはぴたりと固まる。おそるおそる隣を見ると、マチルダは本のページに視線を落としたままだった。


「……えっと…………」

「こんなとこで女が泣いてる理由なんて、男のこと一択でしょ」


(そうかしら? まあ、私の場合は確かにそうけど……)


「……浮気されたりは、しておりません……」

「なら、なにか酷いことでも言われたとか? このひとと結婚して大丈夫なのかしら~って不安になったとか?」

「…………」

「図星ね」


 マチルダは得意げにふふんと笑い、読んでいた本をぱたんと閉じる。


「聞いてあげるから話してみなさいよ」

「えっ?」

「だって、気になるじゃない。ここで会ったのもなにかの縁でしょ。ひとりでメソメソ泣いてるより、誰かに言った方がスッキリするわよ」

「……でも」


 婚約者との揉め事を、知人ですらない相手に話すのは気が引けた。しかも、相手は高貴な公爵令嬢だ。

 サンドラがもじもじとしていると、マチルダがそれを鼻で笑う。


「言いふらしたりなんて絶対しないわよ。私にそういう相手がいないのは、あんたも知ってるんじゃない?」


(確かに……)


 というのも、マチルダは学院の中で孤立していた。力のある家の子息子女には友人を自称する取り巻きがつきものだが、彼女の周りにはそういう人間すらいなかった。

 はっきりとした理由は、サンドラにもわからない。学院に入学して、気づいたときにはマチルダは遠巻きにされていたのだ。

 ただ、なんとなく近寄り難いオーラがあるのはサンドラにもわかる。見た目も派手で、気が強そう……いや、今話した感じだと実際に気は強いのだろう、たぶん。


 ……とにかく、マチルダに親しい友人はいない。サンドラの愚痴を聞いたところで、それを伝える相手もいないだろう。


 言っていいのか迷う。

 でも──……


(誰かに聞いてほしい)


 助言がほしいわけでも、慰めてほしいわけでもない。ただただ、胸の奥から溢れ出てくるこの感情の整理をしたかった。


 サンドラはおずおずとマチルダを見る。


「……マチルダ様からしたら、大したことじゃないかもしれませんが……」


 そう前置きをしてから、サンドラは先ほど聞いた話をぽつぽつと喋りはじめた。









「……予想してたより酷いわね。それ、完全に舐められてるじゃない。このままそんな男と結婚したら地獄よ、地獄」


 意外にも、マチルダはサンドラに同情的だった。笑われたり馬鹿にされたりするのも覚悟の上で話したので、サンドラは少し拍子抜けしたような、でもホッとしたような気分になる。


「ですよね……でも、この程度じゃ婚約解消なんてできないでしょうし、私どうすればいいのかわからなくて……」

「確かにそうね。親に言ったところで、子どもの喧嘩扱いされそうだわ」


 マチルダはなにかを考えるように顎に手を当てた。そして、赤い瞳がスッとサンドラを見つめる。


「あんたはエイデンのことをどう思ってるの?」

「え?」

「本当に婚約解消したいと思ってる? それとも、反省して謝ってくれるなら許せる?」

「それは……」


 サンドラは顔を伏せ、ギュっと手を握る。

 婚約者として出会ってから、サンドラはエイデンのことが好きだった。さらさらとした黒色の髪も、穏やかな青い瞳も、整った顔立ちも、自分にはもったいないくらい素敵な婚約者だと思っていた。

 でも、いまとなってはエイデンのことがよくわからない。なにより、自分がエイデンのことをどう思っているのかもわからない。サンドラは彼の友人が言っていた『腹黒いエイデン』なんて知らないのだ。

 

「……私、エイデンのことがよくわからなくなってしまいました……たとえ謝ってくれたとしても、それが彼の本心かどうかわかりませんし……」

「まあ、あんな話聞いちゃった後じゃなにもかも薄っぺらいわよね」

「はい……」


 笑顔の裏で、サンドラのことを馬鹿にして笑っているのかもしれない。結婚しても、子どもが産まれても──……そう考えると、サンドラの背筋にゾッと冷たいものが走った。


「わた、わた、わたし……!」

「落ち着きなさいよ。取り乱したってどうにかなることでもないでしょ」

「は、はい……」


 頷いて、サンドラは大きく深呼吸する。その様子を、なぜだかマチルダがじっと見ていた。


「…………」

「…………」

「……あ、あの、マチルダ様?」

「あんた、手先が器用なのになんで化粧しないの?」

「え? えっと……一応お化粧はしてもらってます……」

「これで? どうせ侍女が粉叩いてるだけでしょ?」

「……はい」


 別に悪いことをしているわけでもないのに、サンドラはなんだか恥ずかしくなる。ばっちり化粧をしたマチルダと並ぶと、ほぼすっぴんの自分がいっそう味気なく思えた。


(……待って。そういえばマチルダ様は、なんで私の手先が器用なことを知っているのかしら?)


 手先が器用なことは、サンドラの数少ない長所だった。特に縫い物や刺繍は人一倍得意で、周りにもよく褒められる。

 しかし、それを友人でもないマチルダに知られていることがサンドラは不思議だった。サンドラはきょとんとマチルダを見つめる。


「マチルダ様はどうして私の手先が器用なことを知っていらっしゃるのですか?」

「あんたの刺繍を見たことがあるから」

「私の刺繍を……? どこでですか?」

「エイデン・ロードリーの刺繍入りのハンカチを見たのよ」


 その言葉にサンドラは納得した。

 確かにサンドラは、時々エイデンに刺繍入りのハンカチをプレゼントしていた。その時はエイデンもうれしそうに「ありがとう」と笑ってくれたものだ。


「私とエイデンはクラスが同じだから、たまたまハンカチの刺繍が見えて、誰にもらったのか聞いたら、あんただって。私が話しかけたら嫌そうな顔してたわ、あいつ」


 そのときのことを思い出しているのか、マチルダは冷たく鼻で笑う。

 エイデンもマチルダのことをよく思っていなかったようだが、どうやらそれはお互い様らしい。


「もしかして、マチルダ様は刺繍がお好きなんですか?」

「別に。刺繍なんてどうでもいいわよ」

「そ、そうですか……」


(じゃあなんで私の刺繍のことが気になったのかしら?)


 と、サンドラが疑問に思っていると、サンドラの顔をじろじろと眺めていたマチルダが呟くように言う。


「……真面目だけが取り柄の、地味で従順な女がいいってエイデンの奴が言うんなら、そうじゃない女になってみたら? 私みたいな、派手で、気が強くて、絶対妻にしたくない女に」

「…………?」


 サンドラは首を傾げた。マチルダの言葉の意味がよくわからない。

 しかし、そんなサンドラを置いてきぼりにして、マチルダはどこかウキウキとした表情をしていた。


「こういう子の方が案外化けるのよねぇ……肌も綺麗だし、パーツの位置も悪くない。髪も解いたら長そうだから、色々アレンジできるわ……」

「……あの、マチルダ様……?」

「化粧は魔法じゃなくてアートよ。アートに必要なものがなにかわかる?」


 独り言をぺらぺら喋っていたマチルダの瞳がサンドラを捉え、揚々と問いかけてくる。

 その問いの意味も、答えもわからずサンドラがおろおろとしていると、マチルダの目が弧を描いた。


「手先の器用さと、情熱よ。今のあんたにはぴったりじゃない?」


 そう言って、マチルダは悪戯を思いついた子どものように無邪気に笑う。

 赤みの強い口紅を塗られた唇が笑みを浮かべる様は蠱惑的で、サンドラはなぜか少しドキドキした。

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