第二部 〈歯車仕掛けの演奏家〉
第1話 「夕暮れの音」
渡利は鼻唄を歌いながら寮への帰路についていた。
夕暮れ時、空はオレンジ色に染まっている。
――はよ雪降らへんかなあ。
例の事件が起こってはや三か月、渡利たちは二年生最後の長期休みである春休みを迎えていた。
つい一週間前には部屋の引っ越しも終え、晴れて一人一部屋となった。とはいえ、毎日のように碧海か神楽の部屋に集まっているので、実のところ去年とあまり変わっていない。
ちなみに碧海と神楽の部屋にしか集まらないのは、残る二人の部屋がすでに悲惨な有様になっているからだ。
「ふんふーん」
鼻唄で歌っている歌もサビに差し掛かってきて、渡利は一度歌うのをやめて息を吸い込んだ。
「ん?」
渡利は立ち止まった。
何か音楽が聞こえる。主旋律のない子守歌のような、聞いたことのない曲調だ。
体から力が抜け、頭がぼんやりとしてくる。
「……あ、こりゃあかん」
しかし、渡利はすぐに我に返った。その音楽の奥にわずかなノイズが聞こえたのだ。一昔前のCDプレイヤーで再生しているのかもしれない。最近のスピーカーは高性能で、渡利の鋭い耳朶をもってしてもノイズの類はほとんど聞こえないのだ。
一度意識すると、ノイズはよりやかましく聞こえてくるようになってしまった。
渡利は仏頂面を作り、音が聞こえてくる方に目を向ける。
――せっかくいい音楽やのに、なんやもったいないな。
ここまでリラックスできる音楽は初めてだ。もしここが自分の部屋だったら、あっという間に眠りに落ちてしまうだろう。
それだけに、耳障りなノイズが耳につく。
「ま、俺以外には聞こえへんしな」
あまり自覚はないが、渡利の聴覚は人並み外れている。
この子守歌のような音楽を再生しているスピーカーのノイズも、渡利以外には野生動物くらいにしか聞こえないだろう。モスキート音とも違うから、小さな子供にも聞こえないに違いない。
「……ていうか、いつまで鳴ってんねん」
商店街やスーパーならともかく、ここはごく普通の住宅街だ。ちょうどイチョウ通りを抜けたところで、ここをまっすぐ進むと杜葉高校や寮に着く。そんな場所で鳴らす音楽ではない。
――ちょっと見てみよか。
ノイズがなければ最高にリラックスできる音楽だ。誰がこの音を鳴らしているのか、少し気になる。もし動画配信サイトなどで聞けるのなら、ぜひ寝る前に聞いてみたい。
渡利は左右に首をかしげながら横道に逸れた。
近づくにつれて音が大きくなっていく。
――ここらへんやな。
立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回す。
「あ、あれや」
脇道をずっと行くと小さな公園に繋がっている。
音の出どころは、その公園のベンチに座る一組の親子だった。
笑みを浮かべる父親らしき男と、そのももに足を乗せてまどろむ小さな女の子。父親の手にはスマホくらいの大きさのミュージックプレイヤーが握られている。公園でたっぷり遊んだ子供に一息つかせていたのか、それとも帰りたくないとぐずる子供を泣き止ませていたのか。
いよいよあたりが暗くなってきて、父親は優しく女の子の肩を揺すった。女の子はゆるゆると体を起こした。父親を見る目はぼんやりとしている。
「帰ろうか」
父親が囁きかけると、女の子はゆっくりうなずいた。まだ寝ぼけているらしい。
父親はそんな女の子を抱き上げ、公園を後にした。
「なんや、ただの平和やんか」
渡利は頬を掻いた。少しわくわくして音を追ってきた自分が馬鹿らしく思えてくる。
「帰るか」
回れ右をしてもと来た道を戻り始めたとき、渡利はふと違和感を覚えた。
――あの女の子……。
どこかで見たことがあるような気がする。
――ま、ええか。
このあたりに住んでいるのなら、きっとどこかですれ違ったことがあるに違いない。
渡利は一人肩をすくめ、駆け足で横道を抜けた。
ほどなくして寮に着き、渡利は一度息を整えた。ジャージのファスナーを胸元まで開け、ぱたぱたと空気を送り込む。
玄関を抜けてエントランスに入ると、来客用の長椅子で久瀬と佐川が話していた。
「おう、景虎!」
「大我やん! 何してん?」
「描いた絵を見てもらってたところだ」
久瀬は手に持っていたキャンバスを渡利に向けた。今まさに通ってきたイチョウ通りを描いた水彩画だ。白い雲がぽっかりと浮かぶ大きな青空を背景に、立ち並ぶイチョウの木を見上げている。歩道には輪郭のはっきりとしない親子らしき人影もあった。
渡利は思わず感嘆の声を上げた。
「すげえ! 大我、めっちゃすごいで!」
「ほら、渡利もこう言ってくれてるでしょ? 自信持ちなよ」
佐川もしげしげと水彩画を眺めながら褒めるが、久瀬はどこか釈然としない表情を浮かべていた。
「そうは言ってもなあ。ここの、ほら、人影のところがうまくいかねえんだ。どうもありきたりな感じがしてな」
「ぼんやりしてんものええと思うけどな」
「いや、全体がぼんやりしすぎるとメリハリがないって言うか」
大きな手にキャンバスを持ち、久瀬はじっと絵を見つめた。久瀬の巨体がキャンバスを握ると、布地を破ってしまわないかとはらはらしてしまう。
困り顔の久瀬をどうにか助けてやりたくて、渡利は腕を組んだ。だが、芸術に関してはまったくの素人である渡利にいい案が浮かぶわけでもない。
「俺でも描くか?」
物は試しと訊いてみると、久瀬は眉を持ち上げて渡利とキャンバスとを見比べた。
「そうだな……」
「ええんか?」
「やるだけやってみるぜ。よし、完成を楽しみにしてろよ!」
「お、おう!」
いとも簡単に素人の提案が受け入れられてしまったことに困惑しつつ、渡利は差し出された拳に自分の拳をぶつけた。
久瀬はにかりと笑い、キャンバスを小脇に部屋へ駆けていった。
一人残された佐川は目をしばたかせている。
「すごいね、私がなに言っても納得しなかったのに」
「そら親友さかい」
「いいねえ、男子って」
佐川はいたずらっぽく笑うと、立ち上がって片手を振った。
「それじゃ、私も戻るね。ばいばい」
「ほなまたな!」
渡利は鼻唄を歌いながら佐川に背を向け、階段を駆け上がった。これもまたトレーニングの一環。
一度自分の部屋に入ってジャンパーを脱ぎ、すぐに隣の部屋の扉を開ける。
「入るでー!」
「ノックくらいしてくれよ」
「まったくですね」
二人分の苦笑が出迎えた。
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