第63話 「告発人」
「……『W-B』と渡辺万太は別人だと、そう言いたいのか」
「あくまで僕の推測の域を出ませんが……十中八九、そうだと思います。考えても見れば、ほかにもおかしなところがあるんです。普通イニシャルを書くときは、名前と苗字を海外風にひっくり返すことが多いし、間に入れるのは『-(ハイフン)』じゃなくて『・(中点)』か『.(コンマ)』だ。英語でハイフンを使うのは、関連ある文章をつなげるときか、二つ以上の単語をつなげて一つの語にする連語として活用するときです」
日本でも有名な連語に、『check-in(宿泊手続きをする)』や『take-off(離陸する)』などがある。あまりに多く使われすぎて、最近ではハイフンが省略されがちだが。
「ハイフン……」
キョウロウがつぶやく。
碧海は体を揺らしそうになるのをこらえた。
三年間、絶望の中にいても、人間の本質は変わらないのだと突き付けられたような感じがする。
知識と情報を駆使して推論を立てる。
今この瞬間が、碧海はたまらなく楽しかった。
「差出人の名前として利用している以上、二つの文章をつなげているとは考えづらい。となれば、残る選択肢は『W』と『B』から始まる単語で作られた連語。僕が知らないだけで、俗語的な表現は他にもたくさんあるかもしれませんが……一つ、あてはまるものがあります」
本来の碧海の得意教科は言うまでもなく数学だが、もう一つ同じくらい得意な教科がある。
英語だ。
たまに読んでいた数学の論文は未翻訳のものもあり、それを読み解くうちに自然と英語力が身に付いたのである。同じ大学に通っていた留学生曰く、碧海と英語で会話すると、まるで学者と話しているような気分になるらしいが。
碧海は一心に論文を見つめる神谷の横顔を思い浮かべた。
三年前のあの日から、呪いとして碧海を締め付けていた彼の姿は今、一抹の寂しさとほっとするような温もりに包まれた思い出として刻まれている。
碧海は改めてキョウロウを見つめた。この殺人鬼が現れて、碧海のすべてが変わった。いや、元に戻ったと言うべきか。
皮肉なことに、死によって奪われた本当の碧海は、死の権化である殺し屋によって取り戻されたのだった。
「『W-B』……ホイッスルブローワー(Whistle-Blower)です」
「笛を吹く人?」
「内側からピーっと笛を吹く人、という意味から転じた……」
「――内部告発者か」
キョウロウが答えを口にする。碧海はこくりとうなずいた。
内部告発とは、読んで字のごとく内部の事情を告発することを言う。例えば、とある企業に務めている社員が偶然にも上層部の不正を知ってしまったとして、それを外部の人間である記者や警察などに知らせたら、それが内部告発に当たる。
それは紛れもなく立派な正義なのだが、上層部の人間にしてみれば裏切りでしかない。だから内部告発をすることはリスクが高いため、公益通報者保護法によって保護されている。
「それを、わざわざ差出人の位置に書いたのはなぜか」
内部告発というからには、事情を知る内部の人間であることは間違いない。
「『W-B』の正体、つまりあの脅迫状の差出人は大塚議員本人なんだと思います」
「脅迫されていた相手に、逆に脅迫し返したのか?」
「国会議員とはいえ、毎月数百万を支払うのは金銭的につらかったはずです。むしろよく三年も持ったものですよ。今年は、今月の分も含めて四千万近く送金しています。これじゃ、誰だって音を上げるでしょう。そこで案じた一計が、逆に脅迫し返してやろうというものだったんです。荒川さんが自分の隠し子だという事実は、もちろん大塚にとっての弱点ですが、それをネタに脅されているという事実は荒川さんにとっての弱点になり得ます。そのことを悟った大塚議員は、今から数日前、自分の名前を伏せて脅迫状を送った」
金が尽きたのか、それとも我慢の限界に達したのか、それは分からない。とにかく、何かしらのきっかけでこれ以上送金は続けられないと判断した大塚は、自らの名を伏せて脅迫状を送った。
脅迫されていた側が、脅迫していた側を脅迫し返す。とんでもない泥仕合だ。
「そこからはさっきの説明の通りです。荒川さんは『W-B』を渡辺万太のイニシャルだと誤解し、拉致して殺害した。渡辺くんは勘違いで殺されたんですよ。ただイニシャルが一緒だという理由で。……その後始末のために雇われたのが、キョウロウさん、あなたです」
碧海は一息つき、目を細めた。
「……キョウロウさん、僕はあなたの信条が何なのかは知りませんが」
渡利の言うとおり、キョウロウに矜持があるなら、今から碧海が言う意味も分かるはずだ。
「あなたは勘違いで学生を殺した男の証拠隠滅に奔走した挙句、その人にはヤクザに鞍替えされたんだ」
キョウロウを挑発することは得策ではないことは分かっている。
だが、渡辺万太がただの勘違いで殺されたのではないかという推測が首をもたげた時から、行き場のないやるせなさが渦巻いていた。
「――これが、事件の全貌だ」
キョウロウは無言だった。碧海も同じく口を閉ざしたまま、互いに見つめ合う。
その視線が意味するところは、尊敬かあるいは殺意か。
碧海自身、よく分かっていなかった。
沈黙を破ったのはキョウロウだった。
「……なるほど、これは、私の矜持が揺らぎそうだ」
その言葉通り、キョウロウの体が揺らめく。実際には微動だにしていないはずなのに、存在自体が蜃気楼のように揺らいだ気がした。
「あ、碧海っ、避けろ!」
鎌田の切迫した声が聞こえるとほぼ同時に、キョウロウが動いた。顔から感情を消し去り、構え直したナイフを持って迫りくる。
「どうやって避けろってんだよ!」
碧海は思わず怒鳴り返し、やけくそで椅子を傾けた。わずかに反れた碧海の眼前を鋭い刃が通過した。ひやりと冷たい汗が背筋を伝う。
「鎌田、早く来てくれ!」
椅子に縛られた状態では、動くこともままならない。
次いで放たれた斬撃は、腰をかがめることで何とか回避した。もし渡利が両手首の戒めを解いてくれていなかったら、首筋を掻っ切られていただろう。
「鎌田!」
「おいこらキョウロウ、てめえの相手は俺だろうが!」
鎌田はキョウロウから少し離れた位置にいる。こちらに向かって駆けているが、到着には数秒を要するだろう。
頸動脈を切断するには、十分すぎるほどの時間だ。
深夜に初めて碧海を殺そうとしたときとは反対に、ナイフが恐ろしいスピードで首筋にあてがわれる。
——こ、殺され……。
ビリビリとした恐怖が全身を駆け巡ったとき、背後から声が聞こえた。
「そんなに首切るのが好きなら、俺がてめえの首噛み切ったろうか!?」
臆病さを微塵も感じさせない、迫力を感じさせる渡利の咆哮。
碧海が縛り付けられている椅子の背を踏み台に大きく跳躍し、渡利はキョウロウの体に飛びついた。これにはさすがのキョウロウも驚きの声を上げる。
脳震盪から回復した渡利は、虎視眈々とキョウロウに隙が生まれるのを待っていたのだ。
宣言通り、キョウロウの首筋に喰らい付く。
ギラギラと目を底光りさせながら犬歯をむき出すその姿は、さながら狂犬だ。
鋭い犬歯が首の皮膚を喰い破り、血が流れ出す。
だが、キョウロウも黙ってやられているわけではない。
「この犬もどきが……!」
一時的に殺人鬼スイッチが切れたか、激しく悪態をつく。苦痛に顔が歪んでいる。
「渡利、離れろ!!」
喉が裂けるような勢いで鎌田が叫ぶ。
いつもなら命令に迷いなく従う忠犬は、今回に限って鎌田の言葉を無視した。
犬歯が一段と深く食い込む。
瞬きと同時に顔から感情の一切を消し去ったキョウロウが、順手に持ち替えたナイフで寸分の狂いもない軌道を描いた。
「渡利!!」
碧海と鎌田の悲鳴が重なる。
渡利はナイフが視界に入るや否や飛び退いたが、キョウロウの方が速かった。渡利の首筋にナイフを押し当て、横に振り抜く。
二メートルほど離れた場所に落下した渡利は、自分の仕事ぶりに満足したように、へらりと軽妙に笑った。
そして、ばたりと倒れた。
「渡利……渡利!」
碧海は絶叫し、渡利の元に駆け寄ろうとした。首からは血が流れていて、床に血だまりを作りつつある。碧海たちに背を向けたまま、ぴくりとも動かない。
半狂乱に陥りながらベルトを拾い上げて結束バンドを外し、一歩を踏み出す。
キョウロウが行く手を塞ぎかけたが、それより早く鎌田が声を荒げた。
「てめえの相手はこの俺だ!」
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