第42話 「ペテン師症候群」
そして、碧海と神楽は弾かれたように立ち上がった。
二人の間には芯の折れた鉛筆が落ちている。
碧海は信じられない気持ちで自分の手を見下ろした。
「ご、ごめん、投げるなんて、そんなつもりじゃ……」
「いえ、僕が言いすぎただけです」
神楽は鉛筆を拾い上げ、机の隅に置かれている鉛筆削りに差し込んだ。
「け、怪我とかしてない? 当たったでしょ?」
「問題ありませんよ。ほら、僕って運動神経いいですから」
「ならいいんだけど……」
「真に受けないでくださいよ。ボケたつもりなのに」
神楽はぶつぶつつぶやきながら鉛筆削りを回した。元通り尖った鉛筆を満足そうに見つめ、碧海の手に握らせる。
「はい」
「ありがとう」
碧海は礼を言い、ひっそりとため息をついた。自分にはほとほと嫌気がさす。言葉による反論ができなくなった途端、持っていた鉛筆を投げるという暴挙に出ようとは。もし目に当たっていたら、ごめんでは済まない事態になる。
一瞬とはいえ、久々に感情を爆発させたせいか、ひどく疲れてしまった。碧海は椅子に座り直し、鉛筆削りの削りかすを捨てている神楽を見やる。
ふと脳裏に一つのひらめきがよぎり、碧海は思うがまま口にした。
「僕のこと、わざと怒らせた?」
神楽は表情を変えなかったが、鉛筆削りをもとの場所に戻す手がぴくりと動いたのを感じた。やはり図星だったらしい。
なかなか自分のことを話そうとせず、それでいて勉強を嫌がる碧海のことを、神楽も内心腹に据えかねていたに違いない。そこで碧海を怒らせて感情的にすることで、本音を口走らせようとした。その目論見は成功したと言っていいだろう。さらに、理性を失ったばかりに暴力に打って出た碧海に、自ら内省する機会も与えた。
神楽の口のうまさ、相手の性格を掌握する才能には毎度のこと驚かされる。
いいように翻弄されたのは腹立たしいが。
「このペテン師」
拳を振り上げるふりをすると、神楽は慌てたように後ずさった。その拍子につまづいてしまったようで、危なっかしく椅子に座り込む。
「や、やめてくださいよ」
「冗談だよ」
「きみは自分の見かけを理解してなさすぎなんです。十センチくらい差があるんですからね」
羽織をまとう神楽の姿は、高校生とは思えないほど貫禄がある。そのせいであまり気にしていなかったが、確かに身長差が十センチ近くある。
それならと、碧海はずいと身を乗り出した。
「よくもやってくれたな」
「すみませんって……謝りますから!」
神楽は上ずった声を上げたが、失った威厳を取り戻そうというのか、大儀そうに咳払いをした。あれだけ情けない姿を見せた後なので、まったくもって名誉は回復していない。
「と、とにかく、離れてくださいな。早く離れないと、黒焦げにしますよ」
「黒焦げ? どうやって?」
「できないと思ってるんでしょ。きみを輪切りにしたうえで、サラサラの灰になるまで燃やしてやりますよ!」
碧海にからかわれたことが相当気に食わなかったようだ。普段から神楽は一目置かれる立場にいるだけに、からかわれるのに慣れていないのだろう。
もっとも、今回に関しては神楽本人に原因があるのだが。
「分かったよ」
それでも碧海は素直に引き下がった。これ以上詰め寄って、本当に黒焦げにされるのは御免だ。神楽なら意外とやりかねない。
「ただ、一つ言わせてもらうと、そもそもの原因は竜さんにあるんだからな」
「おやおや、心外ですね。そこまで的外れな指摘だったようには思いませんでしたけど」
碧海は苦虫を噛み潰したような顔をした。
——ホントにたちが悪い。
実際、神楽の指摘はもっともだった。言葉による反論を諦め、思わず暴力に訴えてしまうほどに。
碧海も椅子に座り直した。
「そのとおりだよ。さっきはごめん。鉛筆投げて」
「いえ、怒らせた僕も悪いですから」
神楽はさらりと言った。そこにはいつもの冷静沈着な神楽竜太郎の姿がある。
それから彼は思い出したように碧海を見た。
「インポスター症候群ってご存じです?」
「インポスター?」
「ペテン師症候群、詐欺師症候群とも呼ばれたりするんですけど」
「竜さんのことか」
「違いますって。世間に認められるべき優れた才能を持っているのに、それを自分自身で認められず、自分は他人を騙して成り上がっただけの詐欺師なんだと感じる傾向のことです。まさにきみみたいですね」
返す言葉もない。
「……ホント、気持ち悪いくらい人を見てるよな」
「気持ち悪いは余計です」
「ペテン師っていうか、サトリだな」
「ついに妖怪扱いですか!?」
珍しく神楽が素っ頓狂な声を上げたので、碧海は思わず吹き出してしまった。神楽は恥ずかしそうに笑った。
——妖怪っぽいと思ったら、人間っぽいところもあるんだよなあ。
碧海は頬を綻ばせた。神楽との距離が一歩縮まったように感じた。仲がいい先輩と話しているときのような、ある種の遠慮のようなものが薄れたような気がする。
「……勉強する雰囲気でもなくなってしまいましたね。一戦、どうです?」
神楽がどこからともなくトランプのケースを手に取った。
碧海は袖をまくった。
「ポーカーで」
「僕にポーカーを挑むとは、いい度胸ですね」
スピードのような瞬発力が必要なゲームや、ババ抜きのような戦略の練りようがないゲームはお世辞にも強いとは言えないが、大富豪やポーカーのようなじっくり考える必要があるゲームは大の得意だ。勉強というより遊んでいるという感覚だからか、頭痛もほとんどしない。
神楽も羽織をまくり上げ、片手でカードをシャッフルした。
五分後、速いテンポで数ゲームを終えた神楽は、トランプの角をそろえながら満足げにうなずいた。
「意外と強いんですねえ」
「勝っておいてよく言う」
「ここまで苦戦したのは初めてですよ」
神楽にポーカーを挑んだのが無謀だったというか、なんというか。惨敗とまではいわずとも、惜敗とは言えない結果に終わってしまった。勝率は四割くらいだっただろうか。
「なんであんなに嘘がうまいんだ……ていうか、カード運がおかしいだろ。なんか仕組んだんじゃないか?」
「いやいや、友達とのゲームにイカサマを持ち込むほど、狭量な人間ではないつもりですよ」
そうは言うが、たった数ゲームでフルハウスを二回出す人間がどこにいるのだ。付箋をコイン代わりにして賭け合っていたのだが、神楽の机には付箋が所狭しと貼ってある。
だが、いかさまをしていないのは本当だろう。このポーカーは仲直りの意味も込められている。ただただ強敵なだけだったようだ。
カードをケースにしまいなおし、神楽は立ち上がった。
「まだ早いですが、鎌田くんを起こして食堂に行っちゃいましょう」
「うん、そうしよう」
碧海と神楽は協力して鎌田を引っ立てた。いつも以上に低い声で恨み節をつぶやいてみたり、緩慢な動きで拳を振り上げてみたりと、満身創痍の人間にしてはそこそこの抵抗を見せたものの、男二人の力にはさすがにかなわなかったようだ。
「もう十分かよ……まだ一分もたってねえだろう」
「きっかり十分ですよ」
さりげなく嘘をついてから、神楽がベッドの方に倒れこもうとした鎌田を支える。
「さ、行きましょう。たっぷり食べて、たっぷり寝てください」
「どこのばばあだよ」
「ほら、行くぞ! 早くしないと、久瀬とか呼んで担いでもらうよ」
「分かった分かった……もっとゆっくり歩いてくれ」
ふらふらと足取りのおぼつかない鎌田を左右から支えつつ、どうにかこうにか食堂にたどり着いた。崩れ落ちるように椅子に座った鎌田に代わって食事を持っていってやると、碧海と神楽を差し置いてその左右に人が座った。
「よう、鎌田!」
「元気でっか?」
「最悪だ……」
今の鎌田にとっては最悪の二人に捕まってしまったようだ。
久瀬と渡利は、しかし純粋無垢な笑みを浮かべている。
「一緒に食おうぜ!」
「なあ、聞いてや、さっき大我がな……」
悪気がないとあっては邪険にするわけにもいかないようで、鎌田はてきとうに相槌を打ちながら箸を口に運んだ。最初はゆっくりだったその動作が、少しずつ早くなっていく。
碧海と神楽が食べ終わったころには、鎌田は三人前をぺろりと平らげていた。
「やっぱおばちゃんの飯が一番だな」
まだまだ全快にはほど遠いが、それなりには元気を取り戻したようだ。
鎌田は満足そうにトレイを押しやると、ばたっとテーブルに突っ伏した。
「呆れた」
寝てしまったようだ。健やかな寝息が聞こえてくる。
碧海はため息をつき、久瀬に頭を下げる羽目になった。
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