第26話 「ツワモノの自信」
再び目をこすった拍子にバランスを崩した鎌田を支えながら、碧海はぼんやりと二人の会話を聞いていた。
「どうしても教えてくれないんですか?」
「うん。教えたらつまらないだろう?」
「人の命が懸かっているのに、ですか」
「私の命じゃないからねえ」
しゃあしゃあと伊達は口にする。そこに罪悪感のようなものはない。
神楽と鎌田が怒りの眼差しを向け、渡利はというと廊下の突き当りの窓から雪を眺めている。伊達を嫌悪する気持ちは消えたというか、そもそも興味をなくしたという感じだ。興味ないことはとことん無視するタイプらしい。
「あなたは、曲がりなりにも警察でしょう!」
「ひどいな、曲がりなりにもって。これでも職務はちゃんとこなしてるんだよ?」
「酒飲む癖によ」
「飯沼くんが言ってたんだっけ? 彼、まじめすぎるんだよなあ。
「飯野だし日向だし、なんも合っちゃいねえ」
飯沼はともかく、日向夏は人類ではなく柑橘類だ。
これには仏頂面だった鎌田も噴き出し、渡利はゲラゲラと腹を抱えて笑った。
「日向夏って、おっさんおもろいなあ!」
「あ、ホント? 本場の人に褒めてもらえるなんて、嬉しいなあ」
「喜んでいる場合ですか。飯野さんに報告することだってできるんですよ。あなたが、殺人鬼とつながっている可能性があるということを」
「やめておきなよ、竜太郎くん。飯野くんは何も知らないんだ。あんまり俺に深入りすると、痛い痛いになっちゃうよ」
とても正義のおまわりさんが発するような台詞ではないが、そこには尋常ではない迫力がある。
気圧され口を閉ざした神楽に不格好なウィンクを残し、伊達は背を向けた。
「それじゃあね。あ、もちろん、捜査資料を横流しした件は、内密に頼むよ」
片手を振る。
と、その動きが途中で止まり、伊達は少し離れたところで振り返った。
「そうだ、忘れてた! もう一つの用件!」
「な、何ですか」
「はい、これ!」
何かが伊達の手から放たれる。空中を舞うそれをキャッチし損ねた碧海の背後から手が伸びてきて、代わりにつかみ取った。
「お、碧海のスマホやんけ。おっさん、おおきに!」
「いえいえー」
「なんで持ってんだよ……」
なおのこと、あの男たちと伊達との関係が分からない。
にこやかに笑った伊達が、今度こそ廊下から姿を消した。
「何なんだよ、あいつ。ふざけやがって。イカれてるんじゃないか」
鎌田が吐き捨てると、渡利は首をひねった。
「そうか? 俺、あのおっさんのことは嫌いやあれへん。自由に生きてる感じがするさかい。まあ、犯罪はあかんけど」
「昨日のお前に、今のお前を見せてやりたいよ」
「せやから、昨日は嫌な感じがしたの!」
「今さっきも嫌なやつだっただろうが。にしても、くそ……不意打ちだったとはいえ……」
鎌田が絞り出すようにつぶやいた。他の誰よりも自分の実力に信頼を置いているからこそ、赤子の手をひねるがごとくしてやられたことが悔しくてたまらないのだろう。
それは、圧倒的な強者の自信が揺らいだ瞬間だった。
「……部屋に戻りましょう」
悔しいのは、何も鎌田だけではない。いつも微笑みをたたえているその顔は苦々しげで、神楽は扉が壁にぶつかるほど乱暴に開け放った。
「ちょ、竜さん」
「きみはなんでそう能天気でいられるんですか!」
「そう怒鳴らんでも……だって……」
嫌な感じがしなかったから、と言いかけ、渡利はもごもごと言いよどむ。これ以上言ったところで、反感を買うだけだと思ったのだろう。
渡利は叱られた子犬のように首を縮め、神楽の肩に当たりそうだった扉をそっと押さえた。
「……ごめん。とりあえず、部屋に入ろう?」
関西弁すら神経を逆なでしかねないと思ったのか、たどたどしい標準語で渡利が促す。
その健気な姿に毒気を抜かれたか、神楽は苦笑を漏らして渡利の代わりに扉を押さえた。
「きみが謝ることじゃないですよ。音を立てたりしてすみません。先にどうぞ」
「そ、そうか? ほな、先に失礼するで」
渡利が入り、神楽に視線を向けられた鎌田が後に続く。
「碧海くん」
「あ、ああ……いや、自販機寄ってから戻るよ」
碧海は一歩後ずさった。神楽は逡巡するようなしぐさを見せた後、無言でうなずいた。伊達が待ち伏せしていたら、と考えたのだろう。
碧海は首を振ってその可能性を打ち消した。
「襲われることはないさ。あと三十分で十二時だ。食堂に行くまでの道は混んでるはず。……それに、手出しはしないって言ってたし」
「後者はともかく、前者はその通りですね。でも、十二分に気を付けてください」
「一昨日からずっとそうしてる」
その結果、何度も襲われているのだが。
碧海は翳の差す笑みを浮かべ、神楽に背を向けた。
数メートルほど離れたところで、神楽のよく通る声が聞こえてくる。
「きみが、過去に何を抱えているのかは分かりませんが……」
咎めるようでもなく、慰めるようでもなく、淡々と事実を伝えるように言う。
「抱え込むべき過去と、清算すべき過去は違いますからね」
「知ったような口を」
鼻で笑うと、神楽はとぼけたように肩をすくめた。
「そこら辺の、人の妙は理解しているつもりです」
「詐欺師らしいな」
「今のところ、詐欺師になるつもりはありませんよ。……手品で食えなくなったら、そちらへの道も考えますけど」
「僕が観客になるから、そっちの道は諦めてくれ!」
「前向きに検討します」
華麗に片目を閉じると、ブレザーを翻して部屋に戻っていく。学校帰りということもあるが、お気に入りの羽織は雪で濡れてしまったため乾燥中だ。
――本当に詐欺師になりかねないな。
神楽と話していると、知らぬうちに手綱を取られていることが多い。狙ってやっているのかは分からないが、しゃべりに関してはある種の天才だ。
「まあ、頭いいし……」
詐欺なんて、ただリスクばかりが高いことをしようなどとは考えないだろう。
――でも竜さん、意外とギャンブラーなんだよなあ。
ちらりと浮かんだ考えを追い払い、碧海は曖昧に笑った。
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