第19話-3

『ピッチャー、田中君に代わりまして――姫宮君』


 三回表も無得点に終わり、〇対三となった三回裏の頭から、紫乃は決断を下した。役目を果たした田中をベンチへ下げ、初回からライトを守っていたエースをマウンドへ。ライトにはレフトから強肩の不破を移動させ、空いたレフトに鈴木が入る。


「ここからは、一点もやるな」


「当たり前でしょ」


 ベンチから踏み出した塁の金髪が、灼熱の日に照らされて、燃え上がるように輝く。


「出て来たか」「ラスボス降臨だな」「ふはは! 姫宮! 春の借りを返させてもらうぞ!」―—マウンドに上がったエースは、闘志を燃やす桜火ベンチの駒場を睨み下ろして呟いた。


「こっちの台詞だよ」


 桜火は二番からの高打順。必ず駒場まで回る。ここを塁が抑えるか、桜火が粉砕するか――間違いなく、試合の行方を左右するイニングになる。


「田中君は伏兵だったのぅ。最低でも五点は取りたかった。まだ長野にあんな投手がおったか」


「しかし、姫宮塁を引きずり出しました」


「うむ。向こうの監督さんもこのイニングの重要性をよく分かっとる。まだ若いのにすごいのう。じゃが――姫宮塁はガラスのエースじゃ。美しいが、簡単に壊せる」


 桜火ベンチで浦島と部長が語らう通り、桜火はもともと姫宮塁への対策をしっかりと共有して今日を迎えている。三点リードした状態から彼と戦えるのは願ってもない話だ。


 姫宮塁の弱点は二つ。一つはスタミナ。もう一つは、ランナーが出ると崩れる脆弱性。よって、チームが採るべき方針は――


「ボール、フォア!」


 二番の早稲田が、十一球粘った末にフォアボールを勝ち取った。先頭出塁。まだ点が入ったわけでもないのに、桜火ベンチが拳を突き上げ熱狂的な盛り上がりを見せる。


 浦島の示した姫宮対策の方針は、加賀美がやったように、カットで球数を投げさせつつ四死球での出塁狙い。たった一人でもランナーを出してしまえば、姫宮塁は終わったも同然だ。


 一方、光葉側は焦りまくっていた。満を持して登場したエースの剛速球を、執拗にカットされ続けた末に出塁まで許してしまった。改めて、とんでもなくレベルの高い打線である。


「塁! ドンマイ!」


 大慌てでマウンドに走っていった佐藤を、マウンド上のエースは不機嫌にあしらった。


「来なくていいから、こんなので」


「そんなこと言ったって、お前……」


 いつも通り機嫌を直そうとしていた佐藤は、あれ? と違和感を覚えた。機嫌が悪いのは間違いないが、いつもなら「萎えた」とか「やる気失せた」とか言って投げだすところなのに。


「……大丈夫なのか、塁」


「四球くらいどうってことないよ。どうせ最初から完全試合もノーノーもないんだし」


 あ――佐藤はハッとベンチを見た。紫乃がこちらを見て頷いている。


 塁を先発させず、田中をオープナーとして起用した真の狙いは――完璧で完全な投球に固執する塁のこだわりを、彼の頭から拭い去るためだったのだ。


「塁みたいな特性のあるやつのこだわりは、捨てようと思って捨てられるものじゃない。大好きな佐藤たちの最後の夏、大事な試合だからこそ、塁は桜火相手だろうと完全試合を目指して投げただろう。それで出塁された瞬間、あいつの精神は崩れる。どんなに気を持ち直そうとしても自分じゃ制御できなくなる。――そうですよね、兵頭先生」


 急に名前を呼ばれて、紫乃の隣に座っていた兵頭が「ふぁいっ!?」と跳ね上がった。


 塁の第二先発案を考えだしたのは、紫乃ではなく、兵頭だった。春の練習試合で塁が急に崩れたのをベンチで見ていた兵頭は、「彼にはもしかして、発達的な特性があるのではないですか。たとえば、ものすごくこだわりが強いとか」と紫乃に言ってきたのだ。


「彼が完全試合にこだわるのなら、いっそ、彼を途中から投げさせられませんか。あ、えっとですね! この本に、オープナーっていうメジャーの起用法が載ってて!」


「データで見る最新式野球二・〇」という本を申し訳なさそうに掲げて、戦々恐々とした顔でそう提案して来た兵頭に、紫乃は吹き出したものだった。その後、何日もかけて現実的に精査して、兵頭の作戦を「大いに有効」と判断した。


「発達課題は、意識して改善できるものではありませんから。仕組みで解決するしかないんです。特に彼のこだわりは、チームを勝たせたいという強い思いから来ているように感じたので」


 柴乃にとって、兵頭から学ぶことは多い。実際、塁は今、落ち着いてマウンドに立てている。先発登板そのものもこだわりの一つだった塁だが、これについては彼が納得するまで時間をかけてやれた。


「兵頭先生、ありがとうございます。弟のあんな顔は、初めて見ましたよ」


 紫乃に言われて、兵頭も満更でもなさそうにはにかみ、二人してエースに視線を送った。



 無死一塁で三番・岩本。ランナーは俊足の早稲田。佐藤を守備位置に追い返し、塁はマウンド上で仁王立ちする。その初球――


「走った!」塁が投球モーションに入った瞬間、一塁ランナーが地を蹴った。クイックという文字が辞書にない塁と、佐藤の決して強くない肩を知っていれば、誰もがスチールを画策する。


 だからこそ、公式戦で初めて見せた塁のクイックモーションは、完全に敵の虚を突いた。


 左足を地面スレスレに這わせるようにしながら右足に体重を乗せ、下半身で生み出した力を素早く腕に集めて、振り抜く。見事なクイックで投じられたストレートは、ほとんど球威を落とさず打者の目線の高さを駆け抜ける。


 立ち上がりながら捕球した時、既に佐藤は体をくるっと回して左足を前に出していた。その無駄のない動きが、二塁ベースに走りながらハッと見開いた要の目に映る。何も肩の強さだけが盗塁阻止ではない。捕ってから投げるまでを、いかに短く突き詰められるか――


 決して速くない送球が、正確に要とランナーの間に飛んできた。捕球したグラブで塞いだ進路にスパイクが滑り込んでくる。――「アウト!」審判のコールに大観衆が湧く。


「はあああ!?」


「クイックできんのかよ!?」


「スコアラー何やってんだ!」


「仕方ないだろ! 公式戦じゃランナー一人も出してないんだから!」


 おののく桜火ベンチを横目に、塁の小鼻がぷくっと膨らむ。


「ぬふふふ……ビビってるビビってる。僕の才能に皆ビビってる」


「落ち着けい! クイックができると分かったならよし! もう一度出塁じゃ! 岩本! 必ず塁に出て駒場に繋げぃ!」


 名将が、この試合で始めて声を荒げた。変わりつつある試合の潮目を敏感に察知したからこそ。桜火が誇るスラッガー、岩本は、強くうなずいて打席に入る。


 しつこいほどに、金属音が鳴り響く。一五五キロ付近を連発する塁の剛速球に、岩本のバットが空を切らない。七球投げて全球ファール。塁の表情にも苛立ちの色が浮かぶ。


「いける! クイック習得に時間がかかったのか、球威は春から特に変わってない!」


「俺たちなら打てるぞ!」


 一流選手は切り替えが早い。桜火ナインがにわかに活気を取り戻していく。


 八球目――ついに完全にアジャストした。真ん中低めに放たれた剛速球に対し、完璧な角度、タイミングでバットが飛び出す。


 その瞬間、煙のようにボールが「消えた」。


「っ!?」


 岩本の巨体がひっくり返り、盛大に尻もちをつく。捉えたはずのボールが霧散し、バットを潜り抜けてキャッチャーミットに収まっているではないか。


「なんだ、今の球は……?」


 球が消えた、なんて本気で思ったのは、岩本の野球人生で初めてだった。


「ふははははは! 新技を携えて来たか! それでこそ我がライバル!」


 二死ランナー無しで主砲・駒場を迎える。前回対戦では二発の場外弾を被弾し、完敗を喫した塁だったが、今はマウンド上で、そんな駒場さえ見下ろしている。


「たとえお前でも打てないよ。僕の最強必殺魔球――『スピリット』はね」

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