第13話-2
紫乃が就任してからの練習密度は、劇的に変わった。
元々、少ない練習時間を無駄にしない意識が統一されたチームだった。一人ひとりが夏までの課題と、それを達成する明確な手立てを示してもらえたことで、要たちは迷いなく突き進むことができた。ただ、与えられた課題は誰一人として生易しいものではなかった。要は塁の剛速球を受けて全身青あざまみれになったし、夏生は紫乃の言葉通り、あの精密な制球力を見る影もなく失った。誠も爽介も、二、三年生も皆苦戦しているようだった。
そんな中、山路がある日の練習前、要と部室に二人きりになったところを話しかけてきた。
「……すごいね、要君は。姫宮先輩のあんな球、毎日受けて、楽しそうにしてる」
「楽しいぞ? レベルの高い人と練習すると、引っ張られて上手くなっていく感覚があるんだよな。山路も参加するか?」
とんでもないと首を激しく横に振って、山路は力なく息を吐く。
「うちの中学の軟式野球部、けっこう強かったんだよね。僕、ほとんど試合に出られなくてさ。高校は人数の少ないところ行って、ゆるめに練習しながら、試合に出て……楽しい野球がやりたいなって思ってたんだ」
要は制服を脱ぎ、上裸になってアンダーシャツに袖を通した。毎日管理している理想の筋肉バランス。今はその上に青あざだらけの要の体を、山路はどこか恨めしげに見つめた。
「今は楽しくないってことか?」
「……正直、キツいばっかりだよ。結局ここでも補欠だ。女の子にすら勝てない。要君だって、みるみる上手くなっていくのが分かる。自分が情けなくて、でも、要君たちみたいには頑張れなくて……僕、ここを選んだの失敗だったのかな」
よくある話だ、と思う。
部活に対する意識なんて三者三様。ゆるくワイワイできればいいという者もいれば、学校生活の全てを捧げる者もいる。どちらかが正しいわけではない。ただ、要は経験上、両者は決して理解し合えないと知っていた。だから今まで、こういう手合の人間とは対話を避けていたフシがある。けれど、山路に対しては感情的になる自分がいた。
「なぁ、山路。お前がやりたかったのは、楽しい野球か。楽な野球か」
山路は息を呑み、黙り込んだ。鋭く光る瞳が、山路をとらえて離さない。
「山路の思う楽しい野球って、なに」
しばらく狼狽していた山路は、やがてたどたどしくも真摯に、言葉を紡いでいった。
「ま……まずはやっぱり、試合に出ること。す、スタメンで! 四回も五回も打席に立って、最初っから最後まで任されたポジションを全うして、みんなで、点取られても笑顔で励まし合って、点を取ったら大声で喜んで。九回を戦い抜いて、ついでに、もし勝てたら……最高だなぁ。そんな楽しい野球、してみたい」
「へえ。それが、山路の理想か」
要の言い方がどう聞こえたのか、山路は珍しく丸い目に苛立ちの色を浮かべた。
「な、なんだよ、価値観なんてひとそれぞれだろ! 日本一獲った君には分からないだろうけど、僕にとっては、これが理想の楽しい野球なんだよ!」
「いや、悪い。ただ随分謙虚だなと思って。俺は理想を聞いたんだぞ?」
「だから、僕の理想は……」
「ホームラン、打たなくていいのか」
山路の呼吸が一瞬止まった。
「ば、バカじゃないの。ホームランをなんだと思ってるんだよ。誠君や姫宮さんが特別なだけだ。ホームランなんて普通ポンポン打てるもんじゃないんだよ。僕のパワーじゃ、一条さんにど真ん中に投げてもらったって、何百球打っても無理だよ」
「だから理想の話だって。打たなくていいのか。それとも打ちたくないのか」
黙り込んだ山路に、要は手を緩めず追撃する。
「九回裏の守備、ツーアウトで一点リード。一打逆転サヨナラのピンチを、お前のファインプレーが救う。想像してみろ。こっちの方が、楽しいと思わないか」
山路は自分で想像したのか、恐縮したように項垂れた。耳の端が赤くなっている。
「俺も、ベンチだった頃はスタメンで試合に出ることだけを夢見てた。勝つ負けるは正直二の次で、チームの中心として試合に出てみたいって。そうなれたら、どんなに楽しいだろうって」
「ぼ、僕と同じだ!」
「でも、それは違った。初スタメンの試合で、チームは俺のミスで負けたんだ。その試合は、最初から全く楽しくなかった。ガチガチに緊張して、何度もミスして、頭も体もいつもみたいに働かない。しまいには、『俺のところにボール来るな』って思ってた。最後は、責任から逃れるように出したパスを相手にカットされて」
自分のことのようにイメージしたのか、山路の顔が蒼白に染まる。
「その時知ったんだよ。勝負事を本当の意味で楽しむには、強さがいるって。体の強さ。技術の強さ。心の強さ。全部持ってないと、持ってるやつに、ただ蹂躙されて終わるんだ」
次の試合は、勝った。要の貢献度はほとんどなく、味方の活躍のおかげで勝てた。勝った瞬間はホッとしたが、どこか心に生焼けの部分があるみたいに、スッキリしなかった。
「そっからはキツかったよ。死ぬ気で練習したからな。成果が出たのは二か月後くらいか。前ボコボコにやられた他校のエースの上から、ジャンプシュートを決めた――あの瞬間、もう、今までの自分には戻れなくなっちまった」
下手でもスポーツは楽しいなんて言う人間も、たった五分、トップアスリートの身体を授かってみれば、自分の体を思い通りに操る快感が何にも代えられないことに気づくだろう。
「そんな力が楽に手に入るなら、俺だってこんな苦しい思いしねえよ。……俺はさ。野球を楽しみたいんだ。一番楽しい野球をしたい。夏生と、みんなと一緒に。山路は、どうする?」
着替え終えた要は、山路に体の正面を向けた。
「楽な野球がやりたいなら、確かに今の雰囲気は居心地悪いかもしれない。辞めたいなら、止めない。でも、もし楽しい野球がやりたいなら。一緒に、あとちょっとだけ辛い思い、しよう」
要の差し出した右手を、山路は長い間見つめてうつむいていた。
「……ずるいよ。なにが、あとちょっとだけだよ。僕なんかが、ホームラン打って、ファインプレーして、勝利の中心にいる……そんな都合のいい夢、実現するのに、必要な辛い思いがちょっとだけなはずないじゃん」
結果が出なくても、辞めずに続けてきた。やりたい野球のために進路を決めた。初心者の要を本気で羨ましがるぐらい、山路は野球が好きなのだ。だから要は、彼と一緒に野球をやりたいと思ったのだ。辛くて、苦しくて、最高に楽しい野球を。
「……僕、やめるよ」
潤んだ目で、山路は要を見上げた。
「夢まで謙虚にするのは、もうやめる」
その目の力強さに、要も思わず圧倒された。
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