第13話-1

 姫宮家の長女に生まれた紫乃が、物心ついて最初に悟ったのは、「自分は要らない子だった」ということだった。


 父、姫宮 一真かずまは高校卒業と同時に海を渡り、マイナーでもがきながら最後までメジャーを夢見た苦労人。引退するその瞬間まで、野球だけを愛し、野球に生涯を捧げた。引退後にスピード結婚。相手はオリンピックにも出場したアメリカの短距離選手、エリーゼ。我が夢を息子に託すべく、一真が選んだ伴侶だった。


 妻と共に日本へ帰国し、地元の長野に一軒家を建てて間もなく、エリーゼは身籠った。


 生まれた子どもは、女児だった。


 紫乃を産み、母は翌年に次女のあいを産んだ。それから二年半経って、三女のあおいが産まれた。その頃には、幼いながらに、紫乃は父の落胆を肌で感じとっていた。


 野球一本に生きてきた父は資格を取り、鍼灸院を開業し、必死に家族を養っていた。無口で厳格な父親ではあったが、描いた絵を部屋に飾ってくれたり、たまに肩車をしてくれる父のことが、紫乃は好きだった。


 好きだったからこそ、末の弟が産まれたとき、はっきりと痛感させられた。人が変わったような父の高揚に、自分は要らない子だったのだと。


 六歳下の弟は、まるで紫乃が生まれるより前から決めていたように、父に塁と名づけられた。母のお腹にまだいるうちから、父はその名前で弟を呼び、待ちきれない子どものように目を輝かせて母のお腹を撫でていた。紫乃たち三姉妹の名前は、母がつけたらしい。父が塁を溺愛するのも、母がそのぶんとばかりに自分たち三姉妹に愛を注いでくれるのも、かわいい弟も、全部憎かった。塁が物心つくと、途端に父は彼にだけ鬼のように厳しくなった。まるで専属のトレーナーのように塁を鍛える父に、もう紫乃は近づくことも許されなくなっていた。


 紫乃が野球を始めた理由だ。最初はただ、父に振り向いてもらうため。父も喜んだ。塁の練習相手が増えるから。父にも、紫乃自身にも誤算だったのは、紫乃に有り余る野球の才能があったことだ。両親の遺伝子は、紫乃にもしっかりと引き継がれていた。何より人並み外れた努力を、紫乃は努力とも思わず継続できた。父の自分を見る目が日に日に変わることが、紫乃に無限の原動力を与えた。


 リトル、シニアで女子ながら不動のエース。メディアも注目するほどの存在となった。それでも、紫乃が選手として活躍できたのは、中学生まで。


 高校野球の規定は、女子選手の参加を許さなかった。ここまで男に交ざって戦い続け、男と五角以上に渡り合えてきた自負のある紫乃に、今更女子野球への転向は無理だった。


 家から近い光葉を選び、弱小野球部の中で三年間を過ごした。紫乃の練習量や闘志に引っ張られるようにして、人数ギリギリの光葉野球部は少しずつ戦う意志を持ち始めた。それを感じるうち、紫乃の中で、二つのものが見え始めた。


 野球選手としての、自分の限界。そして、チームを鍛えていく楽しさ。


 三年の夏、光葉は初めて地区大会一回戦を突破した。その瞬間のことは、一生忘れない。紫乃はマウンドでも、ベンチでもなく、応援席で涙を流した。


 体育の教員免許が取れる大学を選び、女子野球部に入りつつ、選手としての成長よりは指導者としての勉強に時間を費やした。バスの運転免許を取ったり、マッサージの勉強をしたり、必要だと思うことはなんでもやった。激戦区の高校教員採用試験に落ちてしまい、路頭に迷っていたところを、大学時代の監督経由で、兵藤が光葉の指導者の話を持ってきたときは驚いた。


 ――監督さんからお話をうかがって、今、光葉ウチの野球部に最も必要な指導者が、あなただと確信しています。


 紫乃の答えなんて最初から一つしかなかったのに、直接会いに来てそんなことを言われたら、いよいよ全力でやるしかなくなった。かつて、悔しくてもかけがえのない三年間を過ごした母校。そこに今、弟の塁と、女子選手がいる。そして今の規定なら、女でも試合に出られる。甲子園に行ける。肝心の一条夏生は、期待以上の女だった。


 二年生は塁の他にも粒揃いで、新一年に県下最強真水シニアのエースと四番まで入った。ピースは、ほぼ揃っている。あとは――欠かせない選手がもうひとり。


「―—いってぇ、クソ……! もう一球!」


 ブルペンに響く苦悶の絶叫。腕組みして眺める紫乃の前を、凄まじい豪速球が横切った。ミットの上端を掠めてプロテクターに激突し、あまりの衝撃でキャッチャーはひどく咳き込む。一四〇キロを軽く超えて飛んでくる、石のように硬く重い硬球。プロテクター越しでも痛みと衝撃は計り知れない。要は苦しそうに呼吸を繰り返してから、歯を食いしばって顔を上げた。


「もう一球!」


 とんでもない素人だ、と率直に思う。


 聞くところによれば野球を始めたのは去年の夏。まだ一年未満にして、塁の豪速球に一歩も引かないどころか、歯を見せて笑えるほどの胆力、度胸、向上心……一体どんな世界にいれば、こんな精神力が身につくのか。キャッチャーフライも捕れないくせに、メジャーリーガー顔負けの強肩。何から何まで常識外れだ。この男が成長すれば……。


「塁。どんどん投げろ」


「……いいの? アイツ、死ぬんじゃない?」


「あたしが見てる。本当にヤバそうなら止めるさ」


 捕手の最初にして最大の関門は、ボールを怖がらないこと。一八.四四メートルの至近距離。時速一〇〇キロのストレートでも、〇・六秒で捕手に到達する。まして塁の球は、速さも重さも桁違い。普通なら長い時間をかけて徐々に慣らしていく恐怖心を、王城はすっ飛ばしてしまっている。


 そのミットの音は、突然、まるで祝福のように鳴り響いた。


「と……捕れた……」


 ミットに収まった白球を宝物のように見つめる王城に、塁の目が苛立ちと屈辱に燃える。


「マグレだから。音汚いし。もう一球」


「はい! どんどんお願いします!」


 体からメラメラ炎を放出せんばかりに燃え、再び投げ始めた塁とそれに食らいつく王城を見て、紫乃は指導者として節穴を恥じた。王城でも、捕れるには半月かかると思っていた。後に王城の中学時代の経歴を知って、全てに納得することになる。


 頭の中で、最後のピースが埋まった。

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