第12話-2
夢から覚めるような言葉だった。小さく頷く夏生の顔から赤味が抜けていく。
「コントロールは大したもんだ。昨日のフリー打撃見りゃ分かる。機械みたいにど真ん中ばっかり投げてたな。まずあんなのは打者の練習にならんからやめろ」
「は、はい」
「夏生」初めて下の名前で呼ばれて、夏生は上ずった返事をした。
「そのコントロールを、捨てる勇気はあるか」
雷に打たれたように、夏生は絶句した。
「あとでピッチングを見てやる。丁度いいから王城、お前受けろ。アップしたらブルペンで待ってな。はい、解散」
追っ払われてはどうしようもなく、二人は並んでストレッチを始めたものの、夏生の表情は冴えなかった。口数少なくキャッチボール等でアップを済ませてブルペン(ただベンチの横に小高く土を盛ったマウンドがあるだけだが)に向かうと、約束通り紫乃がやってきた。
「よし、投げてみろ」
ブルペンに夏生が立ち、離れたところに要が座る。夏生の投げたストレートは、構えたミットの中心を真っ直ぐ射抜いた。
「大したコントロールだ。ストラックアウトの全国大会があれば優勝できる」
「それは……高校野球では、通用しないってことですか」
「まったくもってな」
きっぱりと断言するや、紫乃はおもむろに夏生の尻を鷲掴みにした。
「ひゅっ!?」
「小せえ尻だな。まぁでも、筋肉量は十分だ。腿裏も……ほぅ、悪くない」
舐めるようにするする下におりる長い指に、ぐっと結んだ夏生の口からか細い悲鳴が漏れる。
「な、なんですかいきなり!?」
「――お前、本気で投げてねえだろ」
獅子のような目に見つめられ、夏生は何を言われているのかさっぱり分からないという顔になった。
「え……な、投げてますよ、もちろん」
「いいや。しなやかな肩関節。下半身の土台。お前のその体なら、本来あと十キロは速い球が投げられるはずだ」
それには、要も驚きを隠せなかった。
「こんな細っこいのにですか? こいつ、体重増やすの嫌がるんですよ」
「女心の分からんやつだな。確かに球威のためには体重は欲しいが、今の夏生の体はそれなりに完成してる。筋肉と脂肪の割合が理想的だ。見た目より重いぞ、こいつ多分」
つい感心して夏生の体をじっくり観察すると、夏生は「そんな見るな、バカ!」と顔を真っ赤にして怒鳴った。
「問題なのは、その割に球速とキレが出てないことだが、原因は一つだ。お前の機械じみた
まるでずっと拠り所にしてきた柱を無頓着に斬り落とされたみたいに、夏生がよろめく。
「たぶん、お前は男に混じって野球やると決めたときから、女の身で磨ける最大の武器がコントロールだと信じ、ひたすらそれだけを磨いてきたんだろう。それは一つ正しいし、そんだけ割り切って考えられるメンタルはお前の強みだ。けどその結果、お前の投球には"制球第一"の思考がべったり染み付いちまってる。お前、今までどんな練習してきた」
「え、えっと……庭の壁に、九分割したストライクゾーンの的を描いて。横手投げから、狙ったところに……"当てる"……」
自分で言いながら、夏生の顔もみるみる青ざめていく。
「だろうな。分かっただろ。お前がこれまで磨いてきたのは、常に狙ったところへ当てる球。野球の世界じゃ『置きに行く球』と言われる、最悪の球だ」
あまりに狼狽する夏生に、要はなんと声をかけていいか分からなかった。
夏生は試合に出たことがなかったのだ。生きた打者を相手にした経験がなかった。夏生の相手は常に家の壁で、いずれ自分が狙った場所に完璧に当てられるようになれば、女でも、高校野球で通用する武器になると信じて投げ続けてきた。
そうして愚直に磨き続けた唯一の武器は、夏生の七年間は、無意味だったと言われたのだ。
「コントロールは大事だが、それは"投げ切った"球である前提。どんなにコースギリギリでも置きにいった球を打つのは造作もない。変化球も一緒だが、まずはストレートだ。ピッチングの軸となる最低限のストレートが投げられなきゃ、お前は永遠に通用しない」
夏生は、呆然と左手に目を落とした。七年間、何千日と欠かさず投げ続けてきたその体には、もう狙ったところへ確実に投げるという意識、技術、感覚が、へばりついている。
今からそれらを全て捨て、力のある球を投げる練習を始めるなら、それはゼロからのスタートになる。いや、力で男に劣る夏生は、一気にマイナスまで逆戻り。
「やるだろ」と、いつもの要なら言っただろう。しかし言葉にならなかった。要は夏生の七年間を知らない。要が出会った夏生は、既に完成されていた。要の知らない七年間を捨てて、もう一度果てしない道をふりだしから歩く決意を、簡単に言う資格なんてないと思った。
夏生が答えを出すのを、要はじっと待った。明日でも、明後日でも、来月でも、いくらでも隣で待つつもりだった。夏生が答えを出したのは、僅かに三十秒後だった。
「やります」
気温が、一気に上がった。
「教えてください。本当の、ストレートの投げ方」
いい度胸だ、と紫乃が歯を見せると、夏生は「でも」と強く続けた。
「コントロールは、野球選手として選んだアイデンティティです。一条夏生と言えばコントロールと言われるような、精密機械と呼ばれるような選手になりたい。そこだけは、絶対に譲れない。だから――これまで積み上げてきたすべてを崩して、粉々に壊してしまうとしても。本物のストレートを身につけたら、もう一度イチから積み直して、必ず取り戻して見せます」
要が夏生を尊敬するのは、たとえば、こういうところだ。打算的で柔軟なくせに、芯の部分はダイヤモンドみたいに頑固で、てこでも動かせない意地とプライドがある。
「狙ったところに必ず投げられる。そんな投手はメジャーにもいない。ピッチングマシーンでさえ誤差があるんだ。だから――どうせ目指すなら、精密機械なんかで満足するな。ストレートを習得したら、とことん追求すればいい。そしてお前は、機械を超えろ」
お前ならできる。紫乃は姉のような表情で、夏生の頭を撫でた。
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