第7話-2

「はっ……!?」


「昼はすいませんでした! これから、土日のどっちかだけでも、午前中だけでもいいですから……学校に来ていただけませんか! 俺たちに、練習させてください!!」


 職員室は騒然となり、全員の視線が一斉に兵藤に集まる。


「ちょ、ちょっと外行こうか、とりあえず! ね!?」


 強引に立ち上がらせて背中を押し、廊下へ出す。


「なに考えてるんだ、いきなり! みんなびっくりするだろ!」


「……すみません、それしか思いつかなくて」


 曇りのない目で王城が頭を下げる。――なんだ、こいつ。


 出会ったことのない人種の生徒だった。それとも、この部活に懸ける情熱や行動力は、今まで自分が生徒たちから、見ようとしていなかった部分なのだろうか。


「……王城はさ、野球するためにウチへ来たって言ってたけど。なんでウチなの?」


「甲子園に行くためです」


 納得するばかりか余計に謎が深まる答えだったのに、その目があまりに強く、眩しくて、飲み込まれかけた。


「王城はプロになりたいのか?」


 聞いてしまったのは、進路指導主事の性だろうか。王城は、考えたこともなかったという風に目を丸くした。


「甲子園行くとこまでしか、見てません」


 次の言葉は、夢に向かって走る生徒に対して、教師失格の問だったかもしれない。だが兵藤は、生徒ではなく、一人の王城要という人間に、どうしても聞いてみたかった。


「……勉強を犠牲にして、遊びを我慢して、朝練、夜練、土日終日練、野球のことだけ考えて生きて、仮に、甲子園に行けたとして。それ、何になるんだ?」


 たかが部活じゃないか。


 学校教育の一環として、必要なものだとは思う。協働し、切磋琢磨し、一つの目標へ向けて努力と反省を繰り返す。だが、甲子園だの全国だの、勝利至上主義の風潮には「いきすぎている」と思わずにいられない。


 絶えない怪我。摩耗する精神。家庭にのしかかる経済的負担。とある野球の名門校は、休みが年に大晦日と正月の二日しかないと聞いたことがある。それは、もう、学校教育の範疇をとっくに越えている。野球の経験も興味さえない自分は、とても付き合いきれない。


 そうまでして、甲子園なんかに、なにがあるっていうんだ。


「――さぁ。行ってみたら、分かるんじゃないですか」


 力が抜けた。王城は、まるで興味がなさそうにそう言ったのだ。


「正直、今は、野球がしたくてしょうがないだけなんです。半年前に野球に出会って、あれきり一度も試合してない。全身がカラッカラに乾いてる感じがする。昨日より上手くなりたい、自分の体を操りたい、試合出たい、活躍したい、勝ちたい。勝って、勝って、勝ち続けて、最後に待ってるのが――甲子園。どんな眺めか……ワクワクして、震える」


 その笑顔に、鳥肌が立った。


 ああ、そうだ。それをして何になるとか、得だとか損だとか、そうやって打算的に選ぶ道は、いつだってつまらないものじゃないか。安定した収入のために教員を選んだ自分のように。


 でも――信頼していた恩師に、「君は教師に向いている」と言われた十五歳の冬、あの日胸を貫いてそこに根づいた種子のようなものは、あれもつまらないものだったろうか。あの日もらった大切な種は、芽を出し、花を咲かせた。大学受験も、教育実習も、教員採用試験も、そう言えば死にもの狂いで頑張ってきた。果たして自分は、あの頃、安定した収入のために頑張っていたのだろうか。教師として、最低限のことはやっているつもりだった。しかし、かつて懸命に咲かせた花は、今にも枯れようとしている気がした。


「……俺、すごい自分勝手なこと言ってるって分かってます。でも、お願いします、俺たちのために、先生の貴重な時間を割いてください!」


 兵藤は、たじろいた。頷きかけた自分に驚愕していた。冷静になれ。妻や、我が子の成長に寄り添えなくなる。日々の業務が圧迫されて、大変なことになるのは目に見えてる。


 なのに、こんなの、無理じゃないか。子どもにこんな風に頭下げられて、「力になってやりたい」と思わないやつは、教師になんてならないんだから。


「兵藤先生ー、お電話です」


「えっ、あ、はい!」今日は電話が多い。「ごめん」と王城を待たせて電話口へ急ぐ。


「お待たせいたしました、兵藤ですが」


『お世話になっとります、桜火おうび高校野球部監督の浦島うらしまです』

「あぁ……どうも」相手は、一ヶ月に一本のペースで電話を寄越してくるしつこいジジイだった。兵藤の声のトーンが明らかに落ちる。


『ずっとお願いしとる練習試合の件ですが、来週あたりどうですかなぁ』


 いつもの調子で断りかけて、ふと、逡巡した。……今回だけ。今回だけだ。


「では、来週の土曜でいかがですか」


『まぁまぁ先生、そこをなんとか……ってえぇ!? いいんですか!?』


 声が裏返るほど驚かれたが、無視してテキパキと時程などを決め、「では来週」と電話を切った。半分ヤケクソである。


「王城、お望み通り練習試合を組んでやったぞ」ちょっと澄ました顔で報告に行くと、王城は目をまん丸にしてしばし絶句し、感激の表情で抱きついてきた。


「ありがとうございます! ありがとうございます!!」


「なっ、なんだ暑苦しい!」


 迷惑に思いながら、どこか心が熱くなるのに戸惑う。


「いつですか!? どこですか!?」


「ららら来週の土曜、相手は桜火ってとこ!」


「うおおおおおお!」


 両拳を突き上げて叫ぶ王城の喜びように、兵頭は思わずつられて笑った。こいつ、クールかと思いきや部活のことだとけっこうバカだ。


「え、桜火? 桜火って……」やり取りを聞いていた一人の同僚が顔を引きつらせた。



「去年甲子園で準優勝した、あの桜火ですか?」

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