第6話-3

「グラウンド整備ー!」


 その日の放課後、まだ日も沈んでいない時分に響き渡った佐藤の指示に、要は困惑した。


「キャプテン、整備ってなんで……」


「なんでって、練習終わりだから」


「まだ六時ですよ!?」


 終業が午後四時だから、全力で部室まで走って最速で着替えて準備しても、実動練習時間は二時間未満……あり得ない。中学でも要のチームは八時まで居残り練習があった。


「仕方ないよ。兵藤先生が帰っちゃうからね」


「帰っちゃう!?」


「顧問がいない状態で活動したら部活停止だ。それにウチの部予算少なくて夜間照明もないから、暗くなるとどのみち練習できないんだよ」


「じゃ……じゃあ、明日明後日はみっちりやりましょうね!」


 明日は土曜日。授業もなく、思う存分終日練習できる夢のような時間だ。


「それが……ウチの部、土日は休みなんだよね」


「へっ?」


「顧問が来ないんだもの。働き方改革ってやつなのかなぁ」


 目の前が真っ白になった。平日二時間未満、土日休みのスーパーホワイト野球部。こんなのがどうやって甲子園に行くというのか。そろばん教室だってもう少しやっているぞ。


「……ごめんね、やる気になってくれてるのに、部の有様がこんなんでさ」


 すまなそうに目尻を下げられて、感情のやり場に困った。


「は……腹が立たないんですか、あの顧問に」


 キャプテンは、子どもに言い聞かせるような笑顔で言った。


「兵藤先生は、授業も丁寧で、いい先生だよ。進路のことで三年は特にお世話になってる。奥さんと小さなお子さんもいて、先生だって早く家に帰りたいはずだ。野球やったこともない人に、毎日遅くまで学校残れとか、土日も学校来てくれとか、言えないよ」


 主将の言葉で、要は、いかに今までの環境が恵まれていたかを思い知った。


 午前六時からの朝練、誰よりも早く来て、夜八時までの居残り練習、全員追い出してから体育館の施錠をしていたのは――夢に出てくるほど怖くて、最初は死んでほしいぐらい大嫌いだった鬼コーチだ。土日も当たり前のように終日練習。あの人は、いったいいつ休んでいたんだろう。いつ、自分の生活をしていたんだろう。


 夜が遅くなるから、ほとんどの生徒が親の迎えで下校していた。要は申し出を頑なに拒否していたから自転車下校だったけれど、アキラは毎日、体を大きくするための食事を要の望むだけ作ってくれた。弁当箱は毎朝三つを満杯にして用意してくれた。


 全国を制覇するような強いチームを支えているのは、大人たちの、普通じゃ考えられないレベルの献身だった。周囲の大人のサポートなしに天下を取った子どもなんて、要は一人も知らない。だから皆、口を揃えて言う。「支えてくれた方々に感謝している」と。


 ――じゃあ、どうすりゃいいんだよ。


 たまたま、顧問に経験と熱意がなかった。そんなの死んでも言い訳にしたくない。練習させてくれ。時間を気にせず、気の済むまで努力できる環境をくれ。素人が甲子園に行こうというのだ。やれるだけのことはやったって胸を張って言えなきゃ、勝負の土俵に立つ資格すらない。


 それがお門違いであると要はすぐに気づいた。要には、勝負する環境を選ぶ権利があった。選んで光葉ここに来たのである。


 グラウンドが、夜の闇に染まっていく。「急ごう!」と佐藤に手を叩いて急かされ、要はトンボを手にとり整備を始めたものの、ぐるぐる回る思考が頭から離れなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る