第5話-3

 スクリューボール。

 夏生が投げたのほ、そういう名前の変化球だった。サインを出した要自身、初めて生で見た球種。捕球できたのは……説明不要、夏生のコントロールのおかげだ。

――新しい変化球、覚えたんだ。まだ練習中だけど。


 勝負の直前、夏生は要にそう耳打ちしてきた。まだ狙ったところに落とすのが難しいという、未完成の変化球、スクリュー。最初は使わずに打ち取るつもりだったが、不安要素に頼らざるをえないほど追い込まれた。結果――夏生は土壇場で、スクリューを要のミットめがけて完璧に投げ込んだ。


 一年生女子が不破を倒した。ざわつくグラウンドでマスクを脱いで、要がマウンドに駆け寄っても、夏生はまだ呆然としていた。「しゃあああああ!」「おらぁ!」と叫びながら爽介と誠が走ってくる。


「勝っ……た?」


「ああ」「おう」「やったな!」三人の顔を見合わせて、ようやく夏生はゆっくり破顔した。――かと思えば、突然、その大きな目がうるうると潤み出す。


「わーっ、泣くな!」


「まだまだこっからだろ!」


「泣き顔も可愛すぎる……ゔっ!」


 誠が一人胸を押さえてうずくまるが、いつものことだ、要と爽介は気にも留めない。いっそ夏生のためにもそのまま死んだほうがいい。


「……おい」


 浮かれていたので、不破の接近にすぐには気づけなかった。金属バットを担いで険しい顔の不破に、佐藤が「うわー!」と慌てながら飛び出す。


「やめろ不破! お前が女子嫌いなのは知ってるけど、負けておいて情けないぞ!」


 誠が夏生の前に出かけたが、寸前で要と爽介が止めた。不破と夏生がマウンドで向かい合う。びくびくする夏生に、不破はいきなり口を開いて、


「――すげえな、お前!」


 真っすぐな賞賛を浴びせた。


「……え」


「すげえコントロールと変化球だった! 完敗だ! 失礼なこと言って、本当にごめん!」


 あまりに素直で飾り気のない物言いに、夏生も要も呆気にとられた。良くも悪くも、不破は表裏のない人間だった。


「いや、そんな……一打席勝負は圧倒的に投手有利だし……」


「関係ねえよ! まあ、次やったら負けねえけどな! おう、それからお前も、強気なリードでよかったぜ! 特に初球のインコースな!」


 不破が要の方を見て、笑顔で手を差し出してくる。「どうも」と握って、戦慄した。


 岩盤を貼り付けたような、硬く分厚い手の平。要もこの半年間の素振りで何度も血豆を作ったが、その比ではない。一体何年かければ、こんな手になるのか。


「一年の王城要です。不破先輩、俺に打撃を教えてください」


「うぇ?」


「うわははっ、要ぇ、いきなりがっつきすぎ! すんません先輩、こういうやつなんで!」


 悪癖発動、挨拶もそこそこに不破を威圧してしまった要を、爽介が上手くフォローする。輪が大きく、和やかになってきたところに、もう一人の二年生が合流した。


「楽しそうですね。一年ですか?」


「おっ、加賀美かがみ! 遅いよもう、不破が暴走して大変だったんだから!」

 加賀美と呼ばれたのは、灰色がかったサラサラの髪の毛が映える、絵に描いたような美少年だった。加賀美は輪の中に夏生を発見すると、目を丸くして「なるほど」と言った。


「だいたい状況は分かりました。ごめんねキミ、不破が怖がらせなかった?」


「い、いえっ、大丈夫です!」どこぞの王子のような美貌に微笑まれ、夏生の返事も緊張気味だ。敵認定、夏生にたかる虫でも見るような目で誠が加賀美へガンを飛ばす。


「彼女、一条さん。すごい球を投げるんだよ。加賀美も見ればよかったのに」


「不破を三振斬りだ」佐藤と田中の紹介に、不破まで大きく頷いて「俺の完敗だった!」と太鼓判を押すものだから、夏生の顔がどんどん羞恥で赤くなっていく。


「……それ、ホント? 不破が三振? やばいじゃん」


「まっ、まぐれです!! ほんとに!!」


「謙遜しなくていいよ。僕も勝負してみたいなぁ」


「まぁまぁ、一条さんも疲れてるから。ところで、るいは?」


「あいつは家で個人練習ですよ。いつも通り」


「はぁーっ!? 今日は絶対来いって言ったのに!」


 加賀美の言葉に佐藤が何やらブチギレる。それからため息をついて要たちに向き直った。


「ごめんね、本当は二年が全部で三人いるんだけど、最後の一人、その塁ってやつは唯我独尊の超絶問題児……基本全体練習には来ないと思う。ド金髪で超目立つから、校内で見かけることもあると思うけど、挨拶とかしなくていいから。気分悪くなるだけだし」


「ああ、本当に、不破が可愛く見えるほどの問題児だからな」


 佐藤と田中が神妙な顔でそう言い、上級生全員うんうん同調するのを見ると、よっぽどの人物なのだろう。爽介と誠はどうやら塁という人物を知っているらしく、「ちぇー、会いたかったなぁ」「どうでもいいだろ」と小声でやり取りしていた。


「夏生は知ってるのか、その人?」


「もちろん。長野の球児は全員調べてるからね」


「そうだった……」


 どおりで、不破の中学時代の成績にもいやに詳しかったわけだ。


「あ、そうだ加賀美、自己紹介」


「ああ、申し遅れました。新二年生の加賀美 碧都あおとです。ポジションはセカンド。分からないことがあったらなんでも聞いてね。二年間よろしくお願いします」


 終始にこやかな美少年の隙のない立ち振る舞いに、新入生の挨拶が揃う。


「さあ、これで塁以外は全員集合だね。じゃあ早速練習を始めよう」


「おいキャプテン、年度初めの練習だぞ。なんかキャプテンらしいこと言わねえの?」


 とぼけたような顔で言い出した田中の無茶ぶり、即座に鈴木と山本が乗っかり、不破と爽介まで煽りに加わった。「ええっ!? 去年そんなのなかったじゃん!」とモジモジしながらも、やるしかない空気を感じ取ってか、佐藤は渋々といった顔で輪を見回し、咳払いした。


「……さっきも勢いで言っちゃったけど。僕の目標は甲子園優勝だ。でも、僕は別に甲子園に行きたいわけじゃない。プロになりたいわけでもない。僕はただ、誰よりも長く、お前らと野球がしたい。あとたった三か月で最後の夏予選。まだまだ、終わりたくない。終わらせない。そのために、今年の試合は全部勝つ!」


 青く優しい、炎のような言葉だった。中学時代、既に日本の頂点に立った要に言わせれば、あまりに若く、軽い思考。それでも要は、佐藤に呑まれた。


「さて、これは僕のワガママ。みんなに押し付ける気はこれっぽっちもない。プロになりたいやつ、趣味でやってるやつ、なんとなく続けてるやつ、一人ひとり違うだろう。ただ一つだけ断言できるのは、ここにいる人間は全員『野球をするために』集まってるってこと。だから野球をやろう。毎日、ここにいる間は、時間を無駄にせず野球だけに集中しよう。そのうえで――僕のワガママに賛同してくれるやつは、ついてきてほしい」


 今まで出会った一流の主将は、共通して、ブラックホールのようだった。凄まじい重責に二十四時間三六五日耐えているからなのか、常人とは「質量」が桁違いなのだ。気を抜くと引っ張り込まれるような、強烈な引力がある。たぶん、人が求心力と呼んでいるものだ。

 佐藤にそのような圧力は全くない。しかし、かわりに、張り詰めた心が和むような、淡くも温かい光がにじみ出ている。引力などなくとも、寒さを抱えた人間なら、無意識にそちらに引き寄せられるだろう。そんな、日だまりのような、心地よい包容力――理屈ではなく、要は、彼のもとで野球がしたいと思った。

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