第6話-1

 夕暮れの山道を、四台の自転車が走る。これから三年間、下校のために要達が避けて通れないのは、長い長い上り坂。


「ひぇーっ、初日からこんな時間まで練習するのな……」


「結局、後半はがっつり参加しちゃったね」


 疲れ切った様子の爽介と夏生の会話である。二時間ほどの練習で昼休みを挟んだとき、佐藤には「僕ら夕方までやるから、今日はもう帰ってもいいよ」と言われたのだが、あんな目標を語られたら、誰も素直に帰る気にはなれなかった。


 ずっと見学するだけでは退屈なので、結局午後からは混ぜてもらうことになった。そこからみっちり四時間。特別長い練習時間とは思わないが、強度の高いメニューがタイトに組まれており、要の体感としても練習密度は強豪のそれと言えた。


「つうか、あの不破と加賀美って野郎はナニモンだよ? 二人だけレベルが違うだろ」


 誠が素直に夏生以外を褒めるのは珍しい。それほどに、二年生の二人は別格の選手だった。たった一日の練習参加でも、不破の天才的なバットコントロール、加賀美の卓越したフィールディングは十分すぎるほど感じ取れた。


「あの二人は軟式出身だから、誠たちは知らないかもね。二人とも長野屈指の選手だよ。去年の夏は、今の二年生が引っ張って県予選十六強まで残ってる」


 県ベスト一六――あと四回勝てば甲子園。あの人数では、普通考えられない快挙である。そう考えると、主力の学年が上がり、更に爽介に誠というビッグネームが入部した今年の光葉にとって、甲子園出場は決して夢物語ではない。


 そんな中、夏生は不破との一打席勝負に勝ち、見事に強烈なアピールを果たした。一方で――今日の練習で、要にできたのは誰よりも声を出すことぐらい。


 要が野球歴半年の初心者だと申告したときは、全員驚いていた。どうやら妙な期待をされていたらしく、要に対する先輩方の視線は急激に生温かくなった。それでいい、と思った。認められたければ、実力をつけるしかない。


「不破さんと加賀美さんもすごかったけど、俺が一番意識したのはやっぱりキャプテンだ」


 光葉野球部主将・佐藤慎之介。彼のポジションは、キャッチャー。


「さっすが要。お前、キャプテンからレギュラー奪うつもりでいるのかよ」


「? 当たり前だろ」


「腹ペコ太郎だなお前は」爽介が呆れたように言う。たぶん「ハングリー」という意味だ。


「確かにあの演説には痺れたけどよ。言うほどすごかったか、あの人?」


 爽介の言うように、練習風景のほとんどを通して、佐藤が特別光る瞬間はなかった。良くも悪くも、安定感のある普通の選手という感じ。


「ブルペンで田中さんの球を受けてるとき。すごかったんだよ、ミットの音が」


「そりゃ田中さんの球がすげーんだろ。一三〇キロ近くでてたぜ、あれ」


「まあ、それも間違いないけど。上手く言えねえんだけど……」


 キャッチャーの完全装備を纏い、ミットを構えてしゃがむ佐藤は、スポンジの壁みたいだった。包み込むような、言葉にできない安心感のようなものを感じたのだ。


「今は全然敵わねえけど。夏までに、絶対あの人からレギュラー奪ってやる」


「要ならできるよ」何ひとつ疑わない笑顔で、夏生は溌溂と言い切った。


「お前もだぞ夏生。田中さんからエースの座奪うってぐらいの気持ちでやれよ」


「あ……うん、そうだね。頑張るよ」夏生は曖昧に笑って、歯切れの悪い返事をした。


「でも……いい、高校を選んだな」


 新二年生の戦力が高いという将来性。要達が二年になる夏も彼らと一緒に戦える計算だ。そして人数。入部さえしてしまえば、初心者の要も女の夏生も、確定でベンチ入りできる。野球に専念するためにも、実家から通えるアドバンテージは大きい。実に抜け目ない、夏生らしい選択だ。今なら、要も太鼓判を押せる。


「これで、後は死ぬ気で頑張るだけだな」


 舞台は整った。要も、夏生も、これで思う存分努力することを許された。峠を超えて、景色がぶわっと開けて、涼しい山風が汗まみれの体を冷やす。茜色の絶景――ここから先は下り坂。


「あのさ、要。今更だけど……ありがとう」


「は?」


「ボクの夢のために、東京から長野まで来てくれて……ハンドも辞めて。本当に、何度言っても伝えきれないくらい、要に感謝してるんだ」


 夏生のため、なんて考えたこともなかったから、何を言っているのか分からなかった。


「もう、俺の夢にもなったんだよ」


 坂の頂点を、力強く漕ぎ出す。下り坂を軽快に駆け下りる自転車が、ガツンガツン跳ねる。後ろで夏生が、声を弾ませて叫んだ。


「要ーっ、大好きー!」


 夏生に追いつかれないように、要は急いでペダルを踏み込んだ。

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