第5話-1

「――はぁ、どうしよう要……大変なことになっちゃったよ……」


「いや……お前じゃん、原因」


 練習着に着替えた要と夏生は、近い位置からキャッチボールを始めていた。あの威勢はどこへやってしまったのか、夏生は今にも泣きだしそうな顔でボールを放ってくる。不破はストレッチを終え、自前の金属バットで素振りをしているところだった。鋭いスイングが空を切るたびに、夏生の顔が引きつる。


 夏生と不破の一打席勝負。当然のように佐藤たち三年が止めに入ったが、「やらせてください」と間に入ったのは要と爽介と誠だった。捕手として、要もまたこの勝負に参加する。


「俺はむしろ見直したぜ。よく言い返したな」


「でも、ヤバイ人に喧嘩売っちゃった……」


「そんなにすごい人なのか?」


 身長は夏生より低く、高校二年生男子にしては相当小柄な部類。ところが夏生は、「すごいも何も」と青い顔で不破を横目に言った。


「中学通算で打率五割二分、本塁打二十本――不破竜児と言えば、超天才バッターだよ」


 それがどれだけすごい成績なのか、分かるくらいには、要は野球を勉強してきていた。


「そりゃ、燃えてきたな」


「話聞いてた!?」


「サイン決めとくぞ」


「え、う、うん」


 マウンドに集まって、最終確認。指一本がストレート、二本がスライダー。「オッケー」と笑う夏生の笑顔が硬い。顔色が青白く、指が小刻みに震えている。


「おい」


 夏生の左手を握る。夏生は目を丸くして要を見上げた。


 指先が冷たい。緊張で血が通っていないのだ。こんな指じゃ、いい球は投げられない。


「お前から仕掛けてきた約束の、第一歩だろうが。なにビビってんだ」


 夏生の目が、大きく開いた。あの日見上げた、星の降るような満天の夜空が、二人の間で鮮烈に広がる。


 夏生の顔色が戻る。手が温かく、熱くなっていく。もう大丈夫そうだ。


「よし、行くぞ」


「あ、要!」捕手の位置に走りかけた要を、背後から夏生が呼び止めた。振り返った要に走り寄り、夏生は背伸びして要の耳に口を寄せる。


「……マジ?」


「うん、一応伝えとく!」


 耳打ちされた内容に、どうしたものかと考えながら、要は打席で待つ不破の下へ駆け寄った。


「お待たせしてすみません。お願いします」


 深く頭を下げ、打席後方の捕手席キャッチャーボックスにしゃがみこんだ要に、不破も「お、おう」と面食らった様子で右打席に入った。


 不破は右打者―—厄介な相手だ。夏生は左のサイドスロー。左バッターに対しては相手の背中側から攻めるため打ち取りやすいが、その分右打者には分が悪い。


「不破! 相手は一年生だぞ! 打てて当たり前だからな! 一条さんに王城君も、打たれたからって気にしないでねー!」三塁側のファウルゾーンに集まっているギャラリーの中から、ハラハラした顔で佐藤が声を張り上げる。


「要ェ! お前が夏生を勝たせろよ! 勝ったら夏生のおかげ、負けたらお前のせいだからなぁ!」と、こちらは修羅の形相で怒鳴る誠。彼も捕手に立候補していたが、夏生に「要がいい」とストレートに言われて撃沈していた。


 さて――一打席勝負。内野外野の守備はなし。ヒット性の当たりを打たれたら負け、凡打か三振で要たちの勝ち。


 一球目、要が構えたのは、ベーススレスレを掠める超内角。


 外で見ていた佐藤たちが、いきなりの内角要求にどよめく。一歩間違えばぶつけてしまう危険なコースであり、逆に少しでも死球を怖がって投げれば、夏生の遅い球ではホームランボールだ。普通の神経なら、とても平常心では投げられない。


 だからこそ、ここだ。不破からは初球で終わらせてやろうという打ち気がムンムン立ち昇っている。内角に投げ切れれば、必ず腰が引ける。針の穴を通すようなコントロールで――ここに、持ってこい。


「……変わってないなぁ」


 こんなに離れているのに、夏生の弾むような声が確かに聞こえた。かすかに笑って、夏生がゆっくり振りかぶる。肩の力が抜けた美しいフォームに、ぴくり、と不破の目つきが変わる。


 横手投げから放たれた白球は、左手目いっぱいから一八・四四メートルを斜めに切り裂いた。とっさに腰を引いた不破を、ミットに飛び込んできたストレートが、まるで吹き飛ばしたみたいに見えた。


「す……ストライク!」


 球審をかって出てくれた田中が、上擦った声でコールした。構えてから一ミリも動かさなかったミットを突き出したまま固まった要の背筋を、ぞわぞわぞわぞわっ、と電流が走る。―—ちゃんと、速くなってるじゃねえか!


「はああああああああああああ!?」


「えええええっ、一条さんええええええ!?」


「一〇〇キロ出てるぞ、あれ……本当に女子かよ、女子だよな!?」


「当たり前だろ、あんなに可愛いんだぞ!」


 驚愕する山路や先輩たちを横目に、爽介と誠が含み笑いする。


 ――そのとき、打席でスイッチの入る音がした。


 そこに立っているのは、今や要と夏生の知らない人物であった。鋭い三白眼を野犬のように光らせて、マウンドを睨みバットを担ぐように構える姿は、先ほどまでとは雰囲気から別人。コォォ……―—と、軋るような闘気の音が、呼気と共に彼の口から洩れるのが聞こえるほど。


「―—来い、一条」


 小さな背丈を山の如く錯覚する、凄まじい圧力だった。要は生唾を飲み、慎重にサインを決めた。


 夏生の二球目、今度は球が外に大きく外れる。「ボール」と不破が口早に呟いた瞬間、白球は、鋭くホームベース目がけて軌道を変えた。


「っ!?」―—慌てて不破の伸ばしたバットをかい潜り、ボールはミットへ。再びギャラリーがどよめく。ストライク、ツー。たった二球で追い込んだ。


「今度はスライダー……!」


「変化球も投げれんのかよ!?」


 外野は盛り上がっているが、バッテリーの心境は全く晴れやかではない。本当なら追い込んでから初めて見せたかったスライダーを、早々に使ってしまった。正確には“使わされた”。ストレートは、もう打たれる――そう思わされる不破の迫力に、奥の手を切らさせられた。


 ふーっ、と不破が強く息を吐く。追い込まれて、更に一段集中力が上がったのが、捕手から見ても伝わってきた。どうする、何を投げる。少し迷って、要求したのは内角、今度はボールひとつ分外れるストレート。


 スライダーを見せてしまったなら、ここからはそれを利用して組み立てる。大きく食い込んでくる変化球の残像が頭にあれば、内角球に即対応は難しいはず――


 注文通りのボールを、神速のスイングが弾き返した。


「はっ!?」


 打球は鋭く三塁線に打ち上がり、弧を描きながら――レフトの左、僅かにファウルゾーンへ切れる。


「だぁっ、くそ! 引っ張りすぎた!」


 悔しげに叩きつけた金属バットが、ホームベースをがつんと鳴らす。


「……マジかよ」


 要は呆然と打球を見送ったまま、しばらく動くことができなかった。内側に食い込んでくるスライダーの意識がある中で、あのインコースをあそこまで飛ばすなんて、要には思いもよらない芸当だ。打者として、次元が違いすぎる。爽介や誠よりも、たぶん一段階上のステージにいる。確信した――夏生の言っていた「すごい選手」とは、この人のことだ。


 追い込まれてゾーンを広げた不破に対して夏生の球速では、いかに虚を突いたコースに投げても三振は奪えないだろう。スライダーも右バッター相手には威力半減……――どうする。どうすればこの人を打ち取れる。


 ツーストライクノーボール。圧倒的に投手有利の局面にも関わらず、投げる球がない、という感覚だった。それはそのまま、バッテリーと打者との力量差を意味する。


 ――不意に。要は先ほどの耳打ちを思い出した。

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