第2話-3

 星が降るような空だった。こんなに綺麗な星空は、東京では拝めない。夏だというのに、長野の山の夜は氷水に漬けたみたいに空気が冴えて、涼しかった。


「要君はさ、どうしてハンド辞めちゃったの」


 数分歩いただろうか。一枚の絵画のように切りとられた丸い夜空を一望できる、柔らかい芝の斜面に二人は腰を下ろした。夏生は遠慮気味に、それでいてどうしても聞かずにはいられなかったというように、要の傷口にそっと触れてきた。


「そうだな……誰にも知られたくなかったことを知られたから、かな」


 傷口は風化しないまま、今もなお、思い出すだけでジクジク痛みだす。要はどうにか、それだけ言った。夏生は深く追求してこなかった。代わりに、自分のことを語りだす。


「ボクね、今日の試合に負けたら、諦めようと思ってた夢があるんだ」


「……なに?」


「甲子園」


 要は笑うことができなかった。夏生が代わりに笑った。


「君に笑われたら、どうしようって思ってた」


 死んでも勝ちたい、と言った夏生の、あの追い詰められた獣のような顔を思い出した。


「いいじゃん。応援するよ」


「あはは、なにその棒読みー、思ってないでしょ!」


「そんなことないって。ただ不思議に思っただけだ。なんでスポーツマンってみんな全国を目指すんだろう。俺なら、たとえ一回戦負けでもいいから世界最強の選手になりたいけどな」


「あぁ……なるほど。要君ってやっぱり面白いな」


 夏生は感心したように頷いた。


「舞台はついてくるもんだろ。もし本当にその場所が一番の目的なら、強い学校に入ってどうにかベンチ入りすればいいってことになっちまう。特に甲子園は、夢とか言うやつ多いじゃん」


「手厳しいなぁ……覇道を歩いた君に言われると、なんか、自分の夢がすごくちっぽけに思えるよ。ごめん、甲子園は目的じゃなくて手段なんだ。本当の、夢を言うとね」


 夏生は言葉を切った。金色の月光に照らされた横顔が、揺るぎなく一等星を見つめていた。


「男の子に、勝ちたいんだ」


 それは何よりも正直な言葉だったのだろう。要の、甲子園なんて建前じゃ動かなかった心に真っ直ぐ届いて、激しく揺さぶった。


 甲子園の規約から「男子」という文言が消えたニュースは、要の記憶にも新しい。これまでひっそりと積み上げられてきた女性たちの活動が身を結んだのだ。それから甲子園では女子マネージャーがグラウンドに入ることも可能になり、規約上は、女子部員が試合に出ることもできるようになった。結局未だに、女子選手が甲子園の地を踏んだ例はないが。


「ボクは、女だよ。だけど、爽介や誠と同じように、普通に、甲子園に憧れちゃったんだ。自分じゃ、もう、どうしようもないんだ。ボクという投手が、甲子園で、男の子相手に、どれだけ通用するのか……挑みたくて仕方がない。それが叶うなら、次の日に死んでもいい」


 心の奥底に、小さなころから地層のように積み重なっていた思いの全てを、絞り出すように。耳朶に染み込むような夏生の言葉を聞いているうちに、不思議な感情が胸を満たした。


 要の人生は、いっそ夏生の対極にある。生まれつき誰よりも体を動かすのが得意で、そのうえ、思い切りハンドボールに集中できる環境を、要はアキラに与えてもらえた。要はただ、強くなることだけ考えていればよかった。努力することを、許された。実際、ハンドボールの世界で「甲子園」に当たる舞台に上り詰め、日本の最優秀選手にまで選ばれた。


 この功績は、自分だけのものではない。自分は誰よりも恵まれていた。それなのに、ハンドボールを辞めてしまった――こんな恩知らずに、夏生の何を理解できるというのか。


 それなのに、要はむしろ、自分だけが、この少女の苦しみを、渇きを、一条夏生という選手の凄まじさを、真の意味で理解してやれるような気がしたのだ。


「あんな風に、ボールを必ず狙ったところに投げられるやつなんて、たぶん世界にお前だけだ。野球やってなくても、それくらい分かる。お前は天才だよ、夏生。いったいどんだけ、練習したんだ。指導者もいない、チームメイトもいない。サボったって誰にも何も言われない。そんな環境で、たった一人で……もう一度言うぞ。お前は天才だよ、夏生」


 夏生の目がまん丸になって、湖のように夜空を映して揺れる。湖面は飽和して、ひとひらの涙が、流れ星のようにはらりと落ちた。


「悔しいだろ。もっといい環境で、ちゃんとした指導者の下で、競争できる仲間の中で、思う存分自分の力を試したいよな。お前の渇きが、俺には分かる。そのありがたさを、誰よりも知ってるから」


 死んだはずだった、要のアスリートとしての心が、夏生に出会って息を吹き返した。そうだ。夏生と別れたとき、感じていた名状しがたい心残りのようなもの。要は、夏生という素晴らしい野球選手が、あんな公園の草試合で引退するのを、「もったいない」と思ったのだ。


「高校でも、絶対やれよ、野球。女だとか関係ねえ。お前を受け入れないチームはクソだ、節穴だ。いいチームを見つけろ。夏生を選手として必要としてくれるチームが絶対にある。そこで思う存分、その才能を磨け。そんで、必ず甲子園に行け。俺は、それが見たい」


 思わず身を乗り出して、熱を入れて夏生に訴えた。こんなところで終わっていい人間じゃない。もし、数年後、甲子園のマウンドに立つ夏生の姿をテレビで見られたなら、要にとってこんなに嬉しいことはない。アスリートとして終わった要は、夏生に、身勝手に夢の続きを見たのかもしれない。


「うん……うん……!」次から次へと溢れ出す涙を両手で拭って、夏生は何度もうなずいた。


「……要君。あのさ」


 しばらく、並んで星空を眺めていた。不意に夏生が、星空から目線を要に移し、どういうわけか、体ごと向き直って居住まいを正し、かしこまった。


「……えっと……その…………もし、よければなんだけど」


 そこでうつむき、たっぷり数呼吸置いて、意を決したようにパッと顔を上げる。薄暗闇でも分かるくらいに顔を赤くして、目を潤ませて、真っ直ぐ要の目を見て。


「こ、高校で、ボクの球を受けてくれないかな!」


 あまりに予想外で、要は声も出なかった。


「もし、要君にまだ、スポーツをやろうと思う気があるのなら、だけど。その……ボクと」


 流星群のように、夏生の言葉が夜空から頭へ、降り注いでくる。


「ボクと君で、甲子園に行こう」


 中学最後の夏休み、知り合ったばかりの相手に言われたその台詞を、要はまるで、愛の告白のように感じた。即答するにはあまりに遠大で、重く大切な約束であるように思えた。要は東京で夏生は長野。それ以前に要は素人だ。世界一のレベルと言われる日本の高校野球の世界に、この歳から飛び込む覚悟なんて、すぐに決められない。大人たちにも相談しないといけない。


「――あぁ。絶対に、俺が連れて行ってやる」


 それなのに、なぜ、強いて間も空けずこんな大言壮語で切り返したのか、未だに分からない。ただ、虫と蛙の声に包まれた涼しい長野の夏の夜、満点の星月夜の下――あの時、確かに、あそこは特別な場所で、特別な空間だった。


 運命に選ばされたような瞬間がある。


 人間は、時間をかけて悩めば悩むほど現状維持を選ぶようにできているらしいから、大切な選択の瞬間は、案外と衝動的だったりするのかもしれない。

告白が成就したみたいに、夏生は目に涙をためて喜んだ。それを見て、辛うじてちらついていた様々な不安要素も全部気にならなくなった。


 異種競技で、もう一度、頂へ――我ながら途方もない夢だ。やらなければいけないことが次々浮かぶ。果てしなく険峻な道のりが、途端に目の前に立ちはだかる。ああ、忙しくなる。それが嬉しくて仕方がない。止まっていた、要の時間が動き出す。


 これは彼と彼女が、最高のバッテリーになるまでの物語。

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