そよ風は若葉を届けて

ユキ

調和 【Maple 楓】

 草花は景色を彩り、木々は涼風を作る。市街より少し離れた自然の中に、市民のための交流施設“楓”はあった。小高い丘の上に佇むその場所は自然と人が互いに共存し、思い出や思いやりを日々の営みの中で生み出している。

 そんな場所でちょっとした事件が起きた。今朝、いつものように木製の緩やかなスロープを登って、楓の扉を開けると、先輩の佐々木さんが眉を内側に寄せて、困ったような、怒ったような顔をしているのだ。

 何かあったのだろうか。だが、私にとってはタイムカードを切ることが何よりも優先されることである。こっそりと事務室まで行くことにして、そろりそろりと足を動かした。

「あ、菜月さん、おはよ、ちょっとこっちきて」

 私が扉を開けた、その時から佐々木さんは私に気が付いていたらしく、カウンター越しに話しかけてきた。

 別に面倒くさい先輩というわけではないので、私は普段通りに挨拶を交わす。

「おはようございます 少しだけ待ってください、いまタイムカードを」

「それは大変!すぐ押してきな~」

 先輩も私の生真面目な性格を知っているので、笑いながら答えてくれた。

 私は申し訳のなさを感じて、すぐに事務室に向かった。

事務室へと続く廊下の窓は空いていて、ひんやりとした空気が鼻の先をくすぐる。窓の外では風に揺られて草木が手を振っていたので、私は「おはよう」と返事をした。


 事務室には施設長の立花さんが座っていて、私に「おはよう、今日も元気だね」と話しかけてくれた。年齢を重ねているためか今日も紳士的だ。

 私もそれに答え、タイムカードをゆっくりと押す。

 そして、私はまた佐々木さんがいる一階の交流エリアへと足を向かわせた。楓は円柱型の木造建築であり、特段に広いというわけではないため移動はスムーズに行える。交流エリアにつくと、佐々木さんは待っていましたというように、大手を広げて、私を迎えた。

「おかえり ねえ、ちょっと困ったことになってるんだけどさ」

「ただいま戻りました、何があったんですか?」

「これなんだけどね」

 先輩は悲しそうな表情で一冊の植物図鑑を私に手渡した。この植物図鑑は施設の二階にある図書エリアにて貸し出しをしているものだ。私はその図書エリアの担当をしている。

 先輩は私に語り掛けるような口調で続けた。

「その図鑑の、56ページなんだけど」

「56ページですか? 」

 私はすぐさま先輩が言った頁を開いた。確かにそこだけ綺麗に破られているではないか。私はふっと沸いた感情を抑え、先輩に頭を下げる。

「すみません、図書エリアは私の担当なのに」

「いやいや、菜月さんが謝ることじゃないよ」

「いや、でも……」

 部屋はモダンな椅子や机が並べられた広間のような作りになっているのだが、私と先輩しかいないためか、それともひんやりとした空気が入ってくるためか、少し物悲しい感じがした。いや、それとはたぶん別の理由だろう。

そんな感覚も束の間、先輩の「しつこいよ」という表情言語が頭を下げ続ける私をいつもの調子に戻した。

 私は頭を上げ、そして問う。

「いったい誰がこんなことを、本を破くなんて」

「ね、ひどいよね」

「ひどいなんてもんじゃありませんよ、許せません、絶対許せません」

「菜月さん、本好きだもんね、まあまあ落ち着いて」

 私は一日に十万字以上の活字に触れていると、豪語できるほど本を読み漁ることを趣味としている。文庫から図鑑に辞典まですべての本を愛しているのだ。そんな私が欠けた一頁を見て、冷静でいられるだろうか。答えはもちろん「いいえ」だ。

「落ち着いてなんていられません 私が犯人を見つけて、活字のすばらしさがわかるまでお説教してやります」

 私が息巻いているのが、面白かったのか、佐々木さんはけらけらと笑い声をあげた。少したって、目の前の先の笑いの原因がお説教という私の言葉選びについてだということに気づいて私は恥ずかしくなった。

「先輩からかわないでください」

「ごめんごめん」

 先輩は謝る素振りを見せながらも私をからかうような表情をしている。

 私が言い返そうとすると今度は後ろから立花さんの声が聞こえた。

「こらこら、佐々木さん、その辺にしてあげなさい」

「げ、施設長、おはようございます」

「おはよう、朝からげんきだね」

 立花さんは私たちにはにかみ顔を見せた。彼の笑顔は私の気恥ずかしさや、本を破かれた怒りを少しだけ柔らかく、ふんわりとさせる。

 私は立花さんに自分の意思を表明するように言う。

「私がその人を見つけます! 図書スペースは私の管轄なので!」

「いや……犯人捜しをしたいわけではなくてね」

 施設長は罰が悪そうに言った。私の頬がまた少しだけ熱をおびたような感じがした。

 それをみた佐々木さんに小突かれて、立花さんは自分の返答に後悔したようだ。彼は再度、私の顔を見て、言う。

「じつはもう、その方には見当がついていてね、菜月さんには話をしてきてほしいんだ」

「話ですか?」

 私が聞き返すと、立花さんは,本を破いた容疑者の名前を教えてくれた。その正体に少し驚きつつ、そして容疑者という言葉を連想してしまったことに後悔しつつも、意思表明もかねて、彼の申し出に応えるように言った。


「私に務まるかどうかわかりませんが、やってみます!」

 欠けた調和の葉が腕の中で静かに泣いているような気がした。

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