第三十話 ハーラルトの決意、フェイエリズの決意

 ヴィエネンシスの王太子が西殿さいでんに滞在しているという話を俺が耳にしたのは、昼時のことだ。東殿の食堂で一緒に食事を摂っていた、ディーケ王太女殿下付きの秘書官の一人が教えてくれたのだ。


 リズの秘書官は俺一人なので、こうして王太女殿下の秘書官と情報交換できる昼時は、俺にとって貴重な時間だ。

 ヴィエネンシスの王太子、セレスタンがリズの縁談相手だったことは、当然、嫌な記憶として俺の中に残っている。

 俺は動揺を表に出さないように必死になりながら、教えてくれた秘書官に尋ねる。


「一体、どのような理由でマレにいらっしゃったのでしょうね」


「マレとヴィエネンシス、両国の友好のため、という推測も可能ですが……問題は友好を築く方法です」


 俺はザリザリとしたものを心に感じながら、確認する。


「……とおっしゃいますと?」


 秘書官は失言を悔いるような顔をした。


「……フェイエリズ王女殿下の恋人でいらっしゃるあなたには言いにくいことですが……」


 俺は間髪をいれずに言った。


「フェイエリズ王女殿下とのご結婚を、ヴィエネンシスの王太子殿下が考えていらっしゃるということですか?」


「いえ……カトライン殿下とのご結婚をお考えの可能性もあるかと……」


 カトライン殿下はまだ十三歳だ。マレの独身の王女がカトライン殿下ただ一人ではない以上、普通なら十六歳のリズとの縁談を、と考えるだろう。


 リズを誰にも渡したくない。

 腹の底からそう思った。


 長く想いを打ち明けられずに、彼女のことを見守っていた俺がそう思うなんて、自分でも信じられないくらいだった。

 だけど、俺はリズの恋人だ。唇を重ねた「光溢祭こういつさい」の日から、その自覚がさらに強くなった。


 リズをヴィエネンシスの王太子なんかに渡してたまるか。


 彼女はこの情報をもう知っているだろうか。たとえ今は知らなくても、耳に入るのは時間の問題だろう。

 俺は自分に何ができるのか考える。

 俺の立場ではできることは限られているのかもしれない。それでも、彼女を安心させてあげることくらいはできるはずだ。


「有益な情報をいただき、ありがとうございました。では、わたしはこれで」


 俺は急いで食事を終えると、秘書官に礼を言って、席を立った。リズに会うために。


   *


 わたしは奥の間で一人、ぼうっとしていた。

 気が進まなかっただろうに、セレスタン王太子殿下に関する情報を教えてくれたリシエラは、所用があるからと席を外している。今は他の女官が控えの間で待機していた。

 いつも冷静沈着なリシエラに似合わず、彼女は明らかに動揺していた。無理に話させてしまって、本当に悪いことをしたと思う。


 そう思いつつも、わたしは緩やかに伸びていた自分の行く先が急に断崖絶壁に変わってしまったかのような錯覚に囚われてしまい、何も考えられずにいた。考えれば考えるほど、悪い予感ばかりが迫ってくるからだ。


「わたし、どうすればいいんだろう……」


 お父さまに詳細を確認すべきか──それとも、ハーラルトに相談する……?

 今、彼に会うのは怖い。でも、ハーラルトが「大丈夫だよ。きっとなんとかなる」と言ってくれたらどんなに嬉しいか。

 わたしはこの国の王女で、国と民、それに家族に対する責任があるのに?


 ヴィエネンシス国王リュシアンは恐ろしい人物だという。もし、二度に渡ってセレスタン殿下との縁談を拒否すれば、実力行使も辞さないのではないだろうか。

 そんな危険な場所に、まだ十三歳のカトラインを嫁がせるわけにはいかない。

 わたし一人がハーラルトとの恋を諦め、ヴィエネンシスに嫁ぐことで万事丸くおさまるのなら、安いものだ。


 わたしは、ちゃんと恋をすることができたのだから。


 お父さまはそうはお思いにならないだろう。

 数か月前には分からなかったお父さまのお気持ちが、今は分かる。それが余計に辛かった。お父さまのわたしに対する愛情が、結果的にわたしの大切な人たちを苦しめたらと思うと、胸がえぐられるようだった。


 静かな部屋にノックの音が響いた。顔を上げる。現れたのは、ハーラルトだった。

 ハーラルトはこちらを安心させるようにほほえむと、近づいてきて、傍に置かれた椅子に座った。


「リズ、暗い顔をしてるね」


「……そうかしら……自分では分からないわ」


 わたしの嘘は失敗したようだ。

 ハーラルトがじっと顔を覗き込んでくる。


「君も『あの話』を聞いたんだね」


 わたしは息を呑む。

 ハーラルトは「やっぱり」と呟くように言ったあとで問いかけた。


「国王陛下から聞いたの?」


「違うわ……リシエラが情報を集めてくれたの」


「それじゃ、俺が聞いた話と同じように、あくまで推測の域を出ないと思う。リズ、国王陛下とお会いして、ちゃんと事情を聞いた上で話し合うんだ。俺も一緒に行くから」


「でも、カトラインを嫁がせるわけには……」


「リズ」


 ハーラルトの声音が諭すようなものに変わる。


「確かに、両国の王室が婚姻によって結ばれるという形が、手っ取り早い友好の方法ではあるよ。でも、きっと国王陛下は君たちを犠牲にすることを望んでいらっしゃらない。俺の父だってそうだろう」


 わたしは思わず泣きそうな声を上げていた。


「暗殺や戦争が起きたらどうするの!? お父さまやお姉さまが命を狙われるようなことになったら……わたし、耐えられない……」


「君は悲劇の王女になりたいの? それとも……俺と一緒にいたい?」


 ハーラルトの言葉は真実をついているのに、どこまでも優しく聞こえた。

 わたしはうつむいた。


 かくれんぼをすると、決まってハーラルトが見つけてくれたこと。

 幼い頃にハーラルトと結婚の約束をしたこと。

 成長してゆくにつれ、一緒に遊ばなくなり、あまり話さなくなっても、会うと必ずハーラルトが気にかけてくれたこと。

 毎年、誕生日プレゼントを贈ってくれたこと。


 そして、告白されて付き合うことになり、ともに過ごした様々な思い出が「光溢祭」で見た光のように次々と蘇る。


 一分近くもたっただろうか。わたしは顔を上げ、ハーラルトの若草色の瞳を見つめる。彼に嘘はつきたくなかった。


「……わたし……ハーラルトと一緒にいたい」


 ハーラルトは優しく微笑しながら頷いた。


「なら、俺も堂々と君に力を貸せるよ。本当はね、君が首を縦に振ってくれなかったら、無理やりにでも連れ去ってしまおうかと思ったんだけど」


 それはなんだか、ハーラルトらしくないわ。

 わたしは思わず笑ってしまった。

 ハーラルトはきょとんとしている。


「……俺、何か変なこと言った?」


「ううん、なんでもないわ」


 ハーラルトは少し納得いかないような顔をしていたけれど、すぐに真顔になった。


「じゃあ、俺は国王陛下に謁見するための許可を取ってくるよ」


 わたしが、ええ、と答えようとしたその時、扉をノックする音がした。


「リシエラでございます」


「あら、リシエラが戻ってきたのね」


 ハーラルトがいてくれる限り、わたしはもう大丈夫。さっきリシエラを不安にさせてしまったことを謝罪しなくちゃ。

 そう思いながら、扉が開くのを待つ。リシエラが入室してきた。


 けれど、彼女に続いて部屋に入ってきた人物を目にした瞬間、わたしは呆気に取られた。

 背の高い、長い黄金色の髪の男性。


「──ラリサ伯」


 大法官、ラリサ伯レシエム・エタイン・メーヴェ・グライフはむっつりとした顔のまま、こちらに一礼をよこした。

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