たのみごと五景

霞(@tera1012)

第1話

美和みわ、……別れてくれ」


 波打ちぎわに並んで夕日を見ながら、健司けんじさんが言った。

 そんなことだろうと思った。目の前の真っ赤な空が、急にどす黒くなる。


「……分かった」


 隣で健司さんの肩が、かすかに強張る。なんなんだろう、自分で言いだしておいて、この傷ついたようなそぶりは。

 ばかだなあ。一度口から出した言葉は、もう二度と、おなかの中には戻せないんだよ。


 私は健司さんの横顔に向き直る。


「でも、最後に、チャンスをちょうだい」


 赤く染まった彼の横顔。眉がきゅっと寄ったのが分かった。





「お願いです。僕は施設に入ります。真由まゆから、妹からだけは、親を奪わないでやってください」


 ファミレスの窓からは、うすぼんやりとした夕日が見えた。

 テーブルの上には、手つかずのオレンジジュースと、なかみが半分減ったコーヒーカップ。

 目の前で下げられた坊主頭。学ランからのぞいている華奢な首筋。つむじの位置が、あの人とおんなじだ。


 ずいぶん見くびられたもんだ。そんなところも、さすが親子、そっくりだなあ。


「……大丈夫だよ、あお君」


 目の前の男の子は、弾かれたように顔を上げた。私が、名前を知っているとは思わなかったのだろう。


「自分のお父さん、信じてあげて。どちらかを選ばなくちゃいけないとしたら、あの人は絶対、あなたたちを選ぶよ。私が何をしても、何を言っても」

「……」


 碧君の目に、みるみる涙が盛り上がる。

 まったく、あの人は。お母さんを亡くしたばっかりの中学1年生の子に、こんな思いをさせるなんて。


「でもさ、私も、何にもせずに諦める気はないの」

 碧君の目が見開く。


「とりあえず一回、4人で一緒に暮らしてみようよ。ダメそうなら私が出て行くからさ」

 碧君の目が揺れている。


「一つだけ、約束して。おはようと、ただいまと、ありがとうは、必ず言うこと」

「……はい」

 澄んだきれいな彼の目から、とうとう涙がひとつぶ、ポロリと落ちた。





「結婚してくれないか」


 夕暮れの公園で、ふいに健司さんが言う。

 目の前の鉄棒では、碧君が真由ちゃんに一生懸命、逆上がりを教えていた。

 

「……真由ちゃんが、逆上がり、出来たらね」


 なるべく軽く聞こえるようにそう言うと、健司さんが黙り込む。


「あ」


 くるん。目の前で、真由ちゃんのスカートがきれいな弧を描いた。

 ……うそでしょう。

 健司さんの左手が、私の右手をぎゅっと握った。


「おかあさーん、さかあがり、できたー!」

「よかったねえ」


 私はその手を握り返しながら、精一杯声をはる。





「お願い、赤ちゃん、あきらめないで」


 ふいに投げられた言葉に、息が止まりそうになった。

 つばを飲み込み、何とか洗濯ものを畳み続けようとするけど、手が震えてしまって無理だった。


「私、絶対に、赤ちゃんいじめたりしないよ。お金が足りないなら、もっとバイトして家にお金入れるから。明日からお弁当も作ってくれなくていいし、高校卒業したら、ちゃんと働くからさあ」

「馬鹿、言わないで」


 ぐぐう、と喉が熱くなって、それだけ言うのが精いっぱいだった。うつむいた私を、ふわりとぬくもりが包み込む。

 真由の体は、いつでも柔らかくてあたたかい。でも、いつも腕の中にあったはずのそのちいさなぬくもりは、いつの間にか、私を包むほどに大きくなっていた。


「ねえ、私をおねえちゃんにして」

「……分かった、分かったから。……ありがと。でも、それなら公立大にストレートで入ってね。バイト増やしてる暇ないよ」

「うえ……うん!!」


 にじんだ視界の先では、折り重なった洗濯物の上に、夕日が斜めにまだら模様を描いていた。





「いや。絶対に、いや!!」


 どうしてこんなことになるのだ。

 目の前には、眉を下げた3人組。真由の手には、白いふわふわのドレスが握られている。


「おねがい、お母さん。一生のお願い」

「いや!!」

 今まで何回、真由の“一生のお願い”を聞いてきたと思っているのだ。


「もうキャンセルできないんだよ。いいじゃん、犬にかまれたと思ってさ……」

 おい、あお。どういう言い草なんだ、それ。


「おかあさん、きれいきれいしないの……?」

 うるうると、さくらが私を見上げてくる。

 ……卑怯だ。


 私は目の前に迫って来る子供3人から顔を背け、助けを求めて隣の健司さんを見た。

 こんなおばさんのウエディングドレス姿と、公衆の面前で並んで撮影なんて、常識人で恥ずかしがり屋の健司さんなら、断固拒否してくれるはず。


「……」

 健司さんはそっと目を逸らしている。

 ……グルだな、こりゃ。


 シーサイドレストランで今日、夕日をバックに撮影されるのは、真由の就職祝いの記念写真だったはずだ。

 なんで私が、こんな目に。



「おかあさん、おひめさま……」

 さくら……。あんただけだよ、そんなこと言ってくれるの。


「似合ってる」

 やめて、健司さん。


 目の前のみんなの笑顔が、キラキラとにじむ。


 純白のドレスをほの赤く染める、あの日と同じ海に沈みゆく夕日は、神様のいやがらせのように、とにかく異様に、美しかった。

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