氷の夜想曲
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氷の夜想曲
冬は日が落ちるのが早い。
あたりはすでに真っ暗で、月明かりだけが頼りだった。
そんな暗い森の奥に、一つの湖があった。
本来ならば、その表面はとても美しく、まるで鏡のように周りの景色を移していたことだろう。
しかし、今は違った。
だが折からの寒気と風によって、水面には氷が張っていた。
一面を覆う厚い氷だ。
そして、その上には、霜が作り上げたような小さな花々が咲き乱れていた。
そこはまるで、白い草原のようであった。
とても幻想的な光景であった。
そんな湖の前に、一人の少年がいた。
身長は高い方ではないが、背筋はまっすぐに伸び、自然と優雅な立ち姿を演出している。
髪は黒く、風になびく度に光を反射し、まるで星空を彷彿とさせる。肌は健康的で、日光を浴びたように明るい輝きを放っている。
彼の一番の特徴は、その眼差しだろう。
眼は魂の鏡と言われるように、少年の眼はどこか遠くを見つめているかのようでありながら、同時に未来を見つめようとする意志の強さを感じさせた。
容貌は端正で、瞳は深く澄んでおり、顔には優しさと純真さが宿っている。年齢とともに失われる幼い頃の純粋な心が残っているようだった。
名前を
服装は、アルパインライトパンツ にダウンジャケット。
靴はスノーブーツを履いている。
ベースレイヤー、ミドルレイヤーには保温性の高い機能性インナーウェアを着用している。
防寒対策バッチリな格好。
湖の傍にテントが設営されている。
テントはドーム型タイプで一人用だ。
近くには、焚き火台やローテーブル、調理器具などもある。
直人はアウトドアチェアに腰掛けて、コーヒーを飲んでいた。
火傷をしそうな程、熱くしたノンカフェインコーヒーをブラックのまま口に含む。
熱い液体が食道を通り抜け胃の中へと落ちていく感覚がある。
その瞬間、身体の内側からじんわりとした暖かさを感じることができた。
今日一日の疲れが取れるような気がする。
ふぅーっと息を吹きかけながらカップを口に当てる。まだ少しだけ冷めた熱いコーヒーが舌を刺激する。
思わず顔をしかめるが、それも一瞬のこと。
再び、ゆっくりと味わうように飲む。
苦みが舌の端に響く。
むしろ、まろやかな甘ささえ感じる。
それはコーヒー豆本来の持つ味わいだった。
子供の頃は、ミルクと砂糖がなければ飲めなかったコーヒーもブラックで飲めるようになったし、苦味を美味しいと思うようになった。直人は少し、大人な気持ちになる。
香りも鼻腔を刺激し、気持ちが落ち着く。
今この瞬間だけは、煩わしい日常を忘れることができた。
自然と一体になる感覚。
自分が自分でなくなるような不思議な心地よさだ。
このまま時間が止まればいいのに……。
そう思うほどに居心地が良い。
直人の趣味はソロキャンプだった。
人間が嫌いという訳ではないが、孤独というものは悪くないと思う。
誰かと一緒にいることは確かに楽しい。
でも、一人でいる時間もまた必要なのだ。
例えば音楽鑑賞や読書などがそうだ。
何かに集中している時こそ人は無防備になりやすい。
そして、自分の世界に没頭できる時間は貴重である。
それが他人にとって。価値のあるものでなくてもいいではないか。人それぞれ価値観が違うものだ。
それを押し付けるのは間違っている。
だから、自分なりの楽しみ方を見つけ出すしかない。
その答えの一つがソロキャンプだ。
これはあくまで一例に過ぎない。
趣味とはそういうものなのだ。
直人はアウトドアチェアに身を預けると、夜空を見上げた。
雲一つなく澄んだ空気の中で星々が瞬いている。
都会では見ることのできない絶景が広がっていた。
そして、何より綺麗なのは月だ。
まるで満月に吸い寄せられるように視線を移す。
青白く輝く大きな円。
クレーターがはっきりと見えていた。
本当に美しい。
こんな景色を独り占めしているなんて贅沢すぎる。
笑みが溢れた。
そのことが嬉しくて仕方がなかった。
それから焚き火台に目を移す。
近年、環境保全や火事の危険性を考慮して、多くのキャンプ場が地面で焚き火を行う、直火での焚き火を禁止している。
欧米で広まった考え方だが、野外活動をおこなうとき、できるだけ自然環境に影響を与えないにする事をローインパクトという。火は地面から離すことで、地中の生態系を傷つけないという目的だ。
そのため、焚き火を楽しむ際には焚き火台が必須なのだ。
専用のキャンプギアは必要になるが、焚き火台を使えば焚き火だけでなく料理も快適に作ることができたり、後片付けが手軽になったりとさまざまなメリットがある。
直人は立ち上る火を漠然と眺める。
火というものは不思議だ。
人の心を惹きつける。
揺らめく炎は時に優しく時に激しく感情に訴えかけてくる。
それに見つめ続けていると心の奥底にあるものが浮かび上がってきそうになる。
だが、それは決して嫌なものではない。
むしろ心地よいものだった。
揺らめく炎は人の心を癒す「1/fのゆらぎの効果」を持っているらしい。
人間の持つリズムと同じ周波数で共鳴し、リラックス効果を生み出すと言われている。
科学で証明できない現象はたくさんある。
それはきっと目に見えない力が働いているからだ。
神秘的で素晴らしいことだ。
神様がいるなら感謝したいと思った。
「神様。こんな素敵な世界に生まれさせてくれて、ありがとうございます」
誰もいない事を知っていて、直人は素直な気持ちで言葉を吐く。
直人は何も考えず自然の揺り籠に身を置き、しばらくボーッとしていた。
すると突然のことだった。
胃が握り潰されるような痛みに襲われた。
圧搾音。
腹の虫が鳴った。
お腹が空いのだ。
腕時計を見れば19時50分を指していて、もうすぐ20時になろうとしているところだった。
夕食はまだだった。
忘れていた訳ではない。
この時を待っていたのだ。
空腹こそが最高のスパイス。
我慢の限界まで耐えるつもりだった。
しかし、一度意識してしまうと、それは無視することができないくらいに大きくなっていった。
直人は喜々として準備を始める。
焚き火台にグリル台を置くとコッヘルに湯を沸かし、味噌汁を作る。
具は玉ネギとワカメとだけだ。
シンプルであるが故に奥深い味になっていた。
具材にはしっかりと出汁が出ている。
口の中に唾液が溜まり始めた。
そこに冷凍うどんを投入にて解凍すれば、味噌汁うどんの完成だ。
うどんが一番おいしいのはゆでたての状態。この時の水分量は外側が80%程度、中心付近が50%程度になっている。外はもちもちで中は歯ごたえがある、この最適なバランスを“急速冷凍”によって閉じ込めているのが冷凍うどんなのだ。
冷凍うどんは美味しい。
コシがあってモチモチとした食感の麺がたまらない。
噛めば噛むほど旨味が染み出てくる。
さらに追い打ちをかけるように、七味唐辛子を振りかけた。
ピリ辛さが食欲を刺激し、より一層箸が進む。
味噌汁も含めて、気づけばあっという間に完食していた。
空腹になった直人の胃袋を嘗めてはいけない。こんなものは、小腹を満たす前菜でしかない。
彼はすぐに第二陣の準備に取り掛かった。
第2ラウンドはトマト缶を使ったトマトカレーだ。
まず、フライパンにオリーブオイルをひく。
ニンニクを炒め香りが出てきたら、玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ、牛肉の順に加えて炒っていく。
野菜がしんなりしてきたところで、トマト缶を加える。
水を加え蓋をして煮込んでいく。
沸騰直前でカレールゥを入れる。
すぐにカレー独特の良い匂いが漂ってきた。
その途端、直人の口から思わずため息が出る。
この時、直人は、湖の方から音を聞いた。
メキメキ
ミシミシ
ペキペキ
パキパキ
という氷の割れるような音だ。
音が大きくなるということは、亀裂が岸に向かってきているのだろう。
だが、氷の上にテントを張っている訳ではない。陸に居る直人には、今はそんなことはどうでもよかった。
目の前に広がる料理の方が重要だ。
空腹感がピークに達していた。
早く食べたい。
その一心で料理に集中した。
ご飯の方は、アルファ化米で同時並行に作ってある。
アルファ化米とは、炊飯後に乾燥させて作った加工米のことで、炊かなくてもお湯や水を注ぐだけで、ご飯になる。言わばインスタントご飯で、災害時の非常食としても活躍する米だ。
飯ごう炊きも良いが、失敗もしやすい事を考えれば、やはり手軽に作れる方が良いだろう。
そして、ついに完成した。
これだ。
これが食べたかった。
期待が高まるなか、カレーをゆっくりとかき混ぜる。
見た目は完璧だ。
後は食べるだけ。
そう思った時だった。
背後に気配を感じた。
振り向くと、そこには少女が立っていた。
白衣に緋袴姿を見て、巫女だと思った。
見た目は直人より下の、中学生くらいだろうか。
髪はロングで、後ろで一本に結っている。
目はパッチリしていて、唇はぷっくりとして柔らかそうだ。
肌は透き通るように白く、顔立ちはとても整っている。
美少女と呼ぶに相応しい容姿をしていた。
そんな少女がヨダレを垂らしながら、直人を見下ろしている。
直人は動揺した。
まさかキャンプに来て、見知らぬ女の子に遭遇するなんて思ってもいなかったからだ。
「だ、誰!?」
直人の声を聞いて、少女はハッと我に返ったようだ。
慌てて取り繕う。
「あー、これは失礼しました。私、近くにある狐ノ宮神社の巫女をしています、
咲夜は深々と頭を下げて自己紹介をした。
どうやら敵意はないらしい。
「僕は一条直人。高校生です」
直人も名乗る。
だが、なぜ咲夜が、ここに居るのかは分からない。
スマホでこの周辺の地図を見た時に、湖の向かい側。少し小高い所に神社の名前があったとは思うが、かなり離れているはずだ。
歩いてくるにしても、かなりの距離がある。
しかも、ここは道路からは外れていて、ほとんど人の通りがない場所だ。湖を遠回りして来たのだろう。
直人は突然の訪問者に少し警戒しながらも、質問をする。
「あの。何か御用ですか?」
すると、咲夜の答えは意外なものだった。
「いえ。その、美味しそうな匂いがするな……って思って。ついフラっと来てしまいました」
咲夜は恥ずかしそうにしている。
よっぽど、お腹が減っていたのかもしれない。
確かにカレーの匂いはかなり強烈だった。
鼻の良い人なら、焚き火を目印に、ここまで辿り着くのは難しくないだろう。
とはいえ、普通は
直人は不思議に思いながらも話を続ける。
「もし良かったら食べていきませんか? まだたくさんありますから」
直人の言葉を聞いた瞬間、咲夜の顔がパッと明るくなった。
「本当ですか! 是非お願いします!」
咲夜は、まるで子供のように目を輝かせながら言う。
直人は苦笑しつつも、底の浅いコッヘルにご飯とカレーを装い、咲夜に渡す。
白いご飯に褐色のルーがよく合う。
スプーンを使い、咲夜はカレーを一口食べた。
咀しゃくすると、甘さと辛さのバランスが良く、舌の上で絶妙に混ざり合い、なんとも言えない幸福感に包まれる。
そして、トマトの甘味と酸味が遅れてやってくる。
これはまさに至福。
咲夜は、自然と笑みが溢れてきた。
咀噛して飲み込むまでが、一瞬の出来事である。
咲夜は目を大きく見開いた。
そして、無言のまま、二口、三口と食べ進めていく。
一心不乱という言葉がピッタリだ。
その姿は、さっきまでの落ち着いた雰囲気の少女とは別人に見えた。
あまりの食いっぷりの良さに、直人は唖然としてしまう。
結局、あっという間に完食してしまった。
空になったコッヘルを見て、咲夜は満足げに微笑む。
幸せそうだ。
それを見る直人もまた、幸せな気持ちになっていた。
「こんな美味しいものを食べたのは久しぶりです。ありがとうございます」
咲夜は丁寧にお辞儀をしてお礼を言う。
そして、咲夜の視線は直人の傍らにあるザックに注がれる。まるで獲物を狙う獣のように鋭い眼光を放っている。
「食べ物って、まだあるんですよね……」
咲夜の問いに、直人は首を縦に振って、
「ええ」
と、答える。
咲夜は、ニコリと笑った。
その笑顔には邪気が感じられない。
しかし、直人は背筋が凍るような感覚を覚えた。
――何かマズイ事を言ってしまったのではないか。
直感的にそう思った。
咲夜は続けて言う。
「へえ」
その声は妙に艶っぽく聞こえる。
それは耳元で囁かれているような錯覚さえ覚えるほどだ。
彼女の瞳の奥に怪しい光が宿る。
そして、ゆっくりと近づいてきた。
直人は後ずさりする。
本能的な恐怖を感じたのだ。
「あ。いえ、ウソです。もう何にもありません」
直人はウソを取り繕ったが、もう遅かった。
視線を避けるが、逃げ場を失った。
咲夜はジワジワと距離を詰めてくる。
「隠し立ては良くないですよ。正直に言ってください」
直人は冷や汗を流す。
咲夜は何かを思いついたのか、明るく表情を変える。
「そう言えば、直人さんは先程、神様に感謝していましたよね。ありがとうって」
咲夜の言葉で、直人は思い出す。
確かに言った。
言ったが、いつの話だ。
料理を二品目も作る前の話にも関わらず、咲夜がどうして知っているんだ。
それに感謝していた事と、この状況とどんな関係があると言うのだろう。
直人が困惑していると、咲夜は嬉々として語る。
その目は爛々と輝き、頬は紅潮しており、興奮状態になっているようだ。
もはや、まともな会話ができるとは思えない。
「直人さんは、誰の許可を取って、ここでキャンプをしているんですか。ここは狐ノ宮神社の敷地なんですよ」
咲夜の言葉に、直人は驚く。
日本の土地は私有地と共有地に分かれており、管理者や所有者が異なる。
国や自治体が管理している共有地であれば、野営地として利用できるが、管理している自治体などが独自に条例で野営、焚火などを禁止していることも少なくないため、事前確認が必要となる。
直人はソロキャンプを楽しみたくて、人気のない共有地を選んだつもりだったが、まさかここが狐ノ宮神社の土地だったとは思わなかったからだ。
そう考えると、自分がしてきた事が急に恐ろしくなってきた。
知らずとはいえ、不法侵入した上に、焚き火の煙が神社の敷地内に流れ込んでいたとしたら、罰当たりな行為である。
それに気づいた途端、一気に血の気が引いた。
顔色が悪くなるのが自分でもわかる。
咲夜は、そんな直人の様子を察して、クスッと笑う。
そして、直人の顔を覗き込みながら言った。
その口調は優しく、諭すように語りかける。
「安心して下さい。悪いようなことはしませんから」
直人は驚いた。
今の流れだと、訴えられるか通報でもされるかと思ったからだが、どう言うことだろうか。
「ここは取引をしましょう」
咲夜の提案に、直人は思わず聞き返す。
一体何を要求されるんだろうか。
だが、次に咲夜から出た言葉は意外なものだった。
咲夜は満面の笑みを浮かべながら言う。
その笑顔は眩しいくらい美しい。
そして、こう続けた。
「私は、直人さんにキャンプをする許可をします。その代わり、私にご飯を作って下さい。さっきのような美味しいものが食べたいんです。それが条件です」
咲夜はそう言うと、両手を胸の前で合わせ、祈るような仕草をした。
直人は唖然とする。
あまりにも突拍子もない提案だったからだ。
だが、そんなことで許して貰えるのなら安いものだ。むしろ、こちらからお願いしたいくらいである。
「分かりました」
直人は快く了承すると、咲夜は喜びの声を上げた。
その声は、まるで鈴の音のように透き通っている。
直人は咲夜に気に入られたのであった。
そこから直人の連続アウトドアクッキングの始まりであった。
直人はコッヘルに水を入れ、コンロにかける。
常に何かが焼かれ、茹でられ、煮込まれていた。
咲夜は、その様子をじっと見つめている。
まるで子供が親の仕事ぶりを観察するかのように、真剣に直人の動きを追っていた。
直人は、咲夜の視線を感じつつも、手際よく調理を進めていく。
柿ピーの炊き込みご飯を作り、ウインナーの入ったラーメンを作り、焼鳥のニンニク炒めを作り、キノコのスープパスタを作り、トマトのホットサンドを作り、デザートに焼きバナナを作った。
あっという間に六品もの料理が出来上がった。
咲夜は目を輝かせ、感嘆のため息をつく。
そして、おもむろに料理に手を伸ばし、口に運ぶ。
その動きは、洗練された舞踊のように滑らかで、優雅ささえ感じられた。直人は、自分の作ったものをおいしそうに食べる咲夜を見て嬉しくなった。
誰かのために作って喜ばれるなんて、いつ以来だろう。
直人は、咲夜の食べっぷりを肴に、ゆっくりと食事をする。
感じた。
食事が空腹を満たす時よりも、美味しかった。
空腹は最大のスパイスなのは知っていた。
しかし、直人には分からなかった。
どうして、こんなにも美味しいのだろうかと。
誰かと一緒だから。
そう思った。
咲夜は、直人が作った料理を完食し、満足そうにしている。
直人は、咲夜の幸せそうな表情を見ると、心の底から満たされていく感覚を覚えた。
それは、今まで味わったことのない不思議な感情だった。
一人で食べるよりも、誰かと一緒に食べる方が断然美味しい。
そして、こんなに美味しいものを、たった一人だけで独り占めしていた事が、少し申し訳なく思えた。
――咲夜が喜んでくれるのならば、またここに来てもいいかもしれない。
直人はそう思いながらも、そんなことを考えるのは、ソロキャンパーとして自分らしくないなと苦笑いしたのだった。
咲夜は、先程からニコニコしながら直人を見つめている。
直人は気恥ずかしくなり、咲夜から視線を外すと、咲夜が話しかけてきた。
その口調は明るく楽しげだ。
「ぷは。美味しかった。こんな美味しい物を食べるのは初めてです。ありがとございます」
口元を指で拭いながら、咲夜はお礼を言う。
直人は、咲夜の言葉を聞いて驚いた。
初めて?
この程度の、おいしい物を食べた事がないと言うのか。
それでは、普段どんな生活をしているんだろう。
直人は疑問を抱くが、神社の巫女なので、もしかすると質素な食事をしているのかも知れないと思い至る。
直人は食器類をまとめると片付けを始める。
「じゃあ。直人さん、私はこれで失礼しますね。どうぞ、ごゆっくりキャンプを楽しんで下さい」
咲夜は、ペコリと頭を下げると暗闇へと消えて行った。
明かりも点けずに。
そう言えば、咲夜が来た時も明かりを持っていなかったことを思い出す。こんな暗い湖のほとりを歩いていて怖くはないのだろうか。
直人は不思議に思うが、差し出がましく送るというのも馴れ馴れしい感じがする。夜目が利くのだろうと思い深く考えるのをやめた。
そんなことより、今は焚き火を楽しむ事にしよう。
直人はキャンプケルトに水を入れると焚き火の炎に薪をくべる。
パチッ!
焚き火の弾ける音が心地いい。
その音を聞きながら、直人は、また湖の氷の割れる音を聞いた。
直人は、何となしに湖の方に目を向ける。
月明かりなので、はっきりとは分からないが、湖面の氷が押し合いへし合いするように動いているように見えた。
まるで、巨大な生き物が水面下で蠢いているように。
そんな光景を見ていると、急に寒気がしてきた。
夜更かしをするつもりだったが、直人は焚き火の始末をすると、早々にテントの中に入ると寝袋に潜り込む。
テントの外では、不思議な音が響いていた。
弦が鳴るような響く音であり、風がバイオリンやチェロなどの弦楽器を震わせ奏でているようだった。
湖から聞こえるということは、氷が奏でる音色なのだろう。
その音に耳を傾けているうちに、直人は深い眠りについたのだった。
翌朝、直人は日の出と共に目覚めた。
まだ、外は薄暗く寒い。
昨夜の湖の件が気になって、湖を見る。
直人は、驚いて言葉が出なかった。
湖には、横断するように、それは長い長い亀裂があった。
ただ亀裂が走っているだけでなく、湖の氷が押し合った結果だろうか。亀裂の箇所が山のように盛り上がって峰になっており、蛇行しながら長い山脈を作り上げている。
まるで、何か大きな生物が歩いた跡のようだ。
直人は、その不思議な風景に圧倒され、しばらくの間見入っていた。
【
数kmに渡り、湖の氷が盛り上げる現象。
メカニズムとしては、湖の表面全体が凍っている時、夜になると気温が下がって氷が縮んで割れ目ができる。
寒いので割れ目部分にもすぐに氷が張る。朝になって気温が上がると氷全体が少し膨らむので。割れ目になった所が狭くなる。
その為、割れ目に後からできた氷が盛り上がる。この氷の峰は高い時には、ゆうに1mを超えることもある。
この自然現象を、御神渡りと呼ぶ。
この現象が起きると、その年の農作業には好影響があるといわれる。
代表的なのは、長野県の諏訪湖で発生する現象。
諏訪大社の上社と下社は、この御神渡りが起こりやすい。両端近くに相対してまつられており、伝説では、御神渡りは上社の男神が下社の女神のもとへ出かけた跡だといわれている。
御神渡りを間近で見た人の体験では、とても神秘的でパリパリ、バリバリと音を立てる様は圧巻。神様の呼吸のようだと。
御神渡りの記録は、1443年から1681年の『当社神幸記』、1682年から1871年の『御渡帳』があり、また現在にまで至る。
一部欠損している年もあるが、570年以上に渡るほぼ連続した気象記録であり、世界的に貴重な資料となっている。
日本国内では、諏訪湖と屈斜路湖のニケ所でのみ確認される非常に珍しい現象となっている。
なお屈斜路湖では、アイヌ語で「カムイ・パイカイ・ノカ(神の歩いた跡)」と呼ばれる。
更科源蔵『歴史と民俗 アイヌ』には、
烈しく氷の裂ける音が長い尾を引いて走った。“湖の神が遊んで歩く音だ”と古老が言った。
屈斜路湖畔は零下30度を超すことがひと冬に2,3度はあったという。骨を凍らすような寒さは、“寒さを司る神”によるものだという。こうした寒さで氷が裂け盛り上がったところを、“カムイ パイカイ ノカ(神の歩いた跡)”といった。
とある。
この"音"は、屈斜路周辺に住む方なら誰しもが耳にする氷の共鳴音。自然の音とは思えないほど天高く響き、夜通し聞こえてくる。
ザックに荷物をまとめ、片付けを終えた直人は、湖の向かいにある狐ノ宮神社へと向かっていた。
連泊するつもりであったが、神社の敷地内だと分かったこと。それに咲夜にご馳走したことで、食料が尽きたことで予定よりも早く切り上げることにしたのだ。
少し長い石段を登り終えると鳥居が見えてきた。
直人は、大きく深呼吸する。
冷たい空気が肺を満たしていく。
直人は境内へと足を踏み入れた。
違和感を覚えた。
境内は、それなりに清掃はされているが、社務所は無く本殿も小さな造りになっていた。
しかし、人の気配がない。
直人は、辺りを見回しながら、ゆっくりと歩き出す。
誰もいない。
無人だ。
直人は、不安になりながらも奥へ進んで行く。もしかしたら、裏手に住居でもあるかも知れない。
そう思いながら歩くが、本殿の裏は山林が続いているだけであった。
直人は頭を傾げながら、境内へと戻ると年老いた女性が拝殿前に、竹の皮で包んだおにぎりを置いて参拝している姿があった。
小柄な老女だった。
その老女は、直人の姿を見ると、軽く会釈をする。
直人は慌てて、頭を下げ挨拶をする。
そして、質問をした。
「すみません、ここって神主さんとか巫女さんとかは居ないんですか?」
老女は少し笑う。
「ここは無人ですよ」
直人は不思議に思う。
「……ここの神様って、どんな神様なんですか?」
老女は笑顔で答える。
「何でも叶えて下さる庶民的な神様ですよ。家内安全、無病息災、商売繁盛、恋愛成就、学業成就、交通安全、安産祈願など。
願い事があれば、お賽銭を投げ入れてから、お願い事をすると良いでしょうね。ただし、願い事は一つずつ。一度にたくさんのお願いをすると罰が当たりますからねぇ」
老女は言って思い出し、続ける。
「そうそう。ここの神様は、お供え物が好きで、おにぎりとか、おはぎが好きらしいですから、持って来れば喜ばれるかも知れませんよ」
直人は、その話を少し上の空で聞く。
老女は石段の脇にある手すりを使いながら、ゆっくりと降りて行く。
その姿を見送り、直人は考える。
鳥居の前に戻ると、鳥居にある
扁額とは、鳥居などについている額のことであり、神社の名前か、祀っている神様の名前が書かれている。
狐ノ宮咲夜比売。
と、あった。
比売とは、日本の女神に付けられる『尊称』の一つだ。
それを見た瞬間、直人の顔から笑みが溢れた。
やっと見つけた。
直人は嬉しかった。
ずっと探し求めていたものを見つけたような感覚だ。
直人は、拝殿前に戻ると、二礼二拍手一礼をして、キャンプをさせて貰ったことを感謝した。
登ってきた石段から湖を見る。
低い位置から見ていた時は分からなかったが、御神渡りは二本あった。
二本目の御神渡りは、湖の半ばで穴が生じでいた。
陥没したように。
それを見て直人は笑う。
「食いしん坊」
ぼそっと、言葉を零すと、直人は頭に小さな痛みを覚えた。
見ると、どんぐりが転がっている。
どうやら、誰かが投げつけたようだ。
だが、背後を見るが誰も居ない。
見れば老女が置いた、おにぎりが消えている。
直人は、そのどんぐりを拾い上げポケットに入れると、神社を出て帰路についた。
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