金崎 愛【暁】.3
少し眠っていたみたいだ。
失神していたという方が正しいかもしれない。
あまりの寒さと体中の痛さで目を覚ました。
周りを見渡して、自分がかつて「唯の部屋」だった場所にいるのだと再確認する。
唯のいない、唯の部屋。
びしょ濡れで息を吸うのも辛い程病む体。寒い、辛い、怖い。悪夢のほうがずっと良かった。
……唯は天国で見ているだろうか。こんな姿じゃがっかりさせるかな。
唯も政行のように私のことを恨んでいる? それとも悲しんでいる?
どちらにせよ、こんな両親から生まれてきたことに心底絶望しているだろう。
ごめんね、唯。
私も政行も、唯の事を愛していたのは本当なのに。こんなはずじゃなかった。いや、こんなもんか。元々、私の人生なんて、あってないようなものなのだったのだから。
身体に纏わりつく服と髪が冷たく濡れたままどんどん体の熱を奪って、皮膚がアイスのように冷えている。
鴻上珈琲店の夢を見ていた気がする。
政行から逃げたい一心で始めた喫茶店での仕事が楽しかった事。
オーナーが優しくてスタッフも皆明るくて、センスの良い穏やかな音楽、気にかけてくれる常連さん、珈琲の湯気、ガトーショコラやスコーンの甘い匂い。
それから、雄二くんとの事。
雄二くんには申し訳無い事をしたと思っている。裏切りたかった訳じゃない、最後までわがままで困らせただろう。
元はと言えば、私の馬鹿な期待が始まりだ。でも、雄二くんの事だから本当の事を話せていたら、助けてくれたのかもしれない……なんて都合の良い事を夢想する。
本当の事を話して現実に帰されるのが怖かった。
私を私として存在させてくれる雄二くんを失いたくなくて、言い出せなかった。何も言わなくても抱き締めてくれる雄二くんが救いだった。それだけで良かった。巻き込みたくないと思った。
結局、ただ怖くて仕方がなかったのだ。雄二くんを失う事も、政行にその後何を言われ何をされるのか考える事も。
それでもほんの少しの間、私は幸せな夢を見た気分だった。
出会えて良かった、なんて自分勝手過ぎるけれど、出会えて良かったな。こんな事を話したら、雄二くんは怒るだろうか。今更知る術もないけれど。
このままどこかで人生がプツリと途絶えていくのだろうと、ぼんやり思う。
あまり頭が働かない。身体中が痛くて痛くて、寒くて、どうしようもない。
死ねないのであればせめて着替えたいけれど、この部屋から動けばもっと暴力を振るわれるであろう事は明白だ。朝が来るまで待とう、政行が家を出るまではじっとしていよう。
それから九日経った。地獄だった。
びしょ濡れの私を唯の部屋へ押し込んだ後も、政行は毎日キッチリと仕事へ出かけた。
そして毎晩酒を飲んで帰り、酔いの回るまま、まるで日課のように家で暴れた。政行の中で何か箍が外れたように、それまでの何倍もねちねちと嬲ってきた。
「視界に入ると鬱陶しい」とか「痣だらけで顔が醜い」だとか、散々適当な罵倒をし手を上げて、もはや私を殴って蹴って突き飛ばせればその理由なんて何だって良いのだろう。
今まで溜めていたものを噴出させるように、時間の許す限りいたぶった。
三日過ぎた頃からは、私が食事をとらないのを察して「俺にまで人殺しになれって言うのか」と無理矢理に私の口へパンを押し込んだ。味のしない食事は、スポンジを噛むようでただひたすらに気持ちが悪いのに、飲み込むまで許して貰えなかった。
私は「家に居ろ」と言われるだけで、いつでも逃げる事は出来たのに、そうしなかった。
できなかった。家の外へ出る勇気が無かったのだ。
毎日増えていく傷や痣が痛くて、鏡やガラスに映るボロボロの自分が惨めで、動く気になれなかった。
それに、この姿をどこかで誰かに見られて保護されたとして、あの会の人間たちは政行を守る行動に出る。どうせ最後にはここへ連れ戻させるだろう。戻されれば今よりキツい生活だろうと思うとそれも恐ろしかった。
親も頼れないし、友達だっていない。
唯が産まれた時からずっと、いやもっと前からずっと、私には頼れる味方なんて居なかった。
どうせ絶望するならもう希望は見出したくない。
単純な恐怖で、動けない。
自分の手で玄関のドアを開ける、たったそれだけの事が、私には出来なかった。
何より、政行の暴力の原因は自分にある。
私が「人殺し」だからここに居なければならないのだと感じていた。私が逃げて良い訳がない、と。
唯も、雄二くんだってそうだ。愛した人を次々に傷付けてきた私は政行の言う通りの悪人で、政行の言う事全てに反論出来なかった。
思考停止は防衛策だ。
今朝も政行の出かける準備をする音を、部屋の隅で聞いている。
仕事から帰ってくると殴られるのは当然として、出勤前の素面の状態なら出来るだけ存在を消していればスルーしてもらえる日がある。
可能な限り思考をやめる事とギリギリまで息を潜めて過ごす事は、痛みを逃がす数少ない方法だ。
じっとタオルにくるまっていると、リビングの壁を蹴る音が響いてビクンと心臓が跳ねた。冷や汗が出て、身体に力が入る。誰かと電話をしているようだった。
神経を集中させて、ドアの向こうの政行の声に耳を傾ける。
「……だから、何回も言ってるんですよ。妻はもうそちらへは行けませんって、クビにして下さい。……ええ、携帯電話は落としてしまったみたいで……いえ、代われませんよ、妻は外出中なので……引っ越す事になったので、もう行けないんです。ただそれだけですよ……お世話になりました、はい、はい……そうですか、でも妻はもう二度と顔出せませんので……」
話し声が止むとドスドスと床を踏みつける音がこっちに向かってくる。
終わった、と思った。今日は朝から殴られるコースだと確信する。
さっきの電話はきっと、オーナーからの電話だったのだろう。無断欠勤をして一週間以上経っている、携帯も不通だったから迷惑をかけてしまったのだ。政行に連絡が行ってしまったのも仕方が無い。生真面目に緊急連絡先なんて書いてしまったのが悪かった。オーナーは優しい人だから、心配させてしまったのかも知れない。
政行がドアを乱暴に開けて私の方へ歩いてくる。
苛々が形になって目に見えそうだった。私の事で朝から煩わせた罪は重いらしく、しゃがむ私の髪を握って強く引き上げリビングへ連れていかれる。
髪がブチブチと抜けていき、こめかみに激痛が走って鳥肌が立つ。私はリビングの入り口の壁に押しつけられ、政行の怒号を耳元で浴びた。
「お前の所為で唯が死んで、お前の所為で俺の人生が台無しになったのに、お前は呑気に仕事だの男だのって楽しく生きやがって! ふざけるなよ、お前の事なんか誰も待ってねぇんだよ、そもそもお前はとっくに死んでなくちゃいけないクズなんだよ! 早く死ねよ!」
言葉の句切りごとに拳が飛んできて、声を出す事すらままならない。
政行は私を殴っているのに、私と目が合わなかった。
空中を睨んで、夢中になって腕を振り上げていた。何かに取り憑かれているように、私を押さえ付ける左手にぐんぐん力が籠もった。
「お前に楽しく生きる資格なんて一つもないのに、勝手に楽しみやがって。唯を殺したお前が、俺の目を盗んで、あぁ死ねよ、クズ、ゴミ、お前が悪いのに。なあ、全部お前が悪いよなぁ!? 人殺しが!」
怒鳴り声と共に政行の右拳が私の左顔面を捉えて、身体ごと突き飛ばされるようによろけた。
ガゴンッ。
「……は…………」
一瞬何が起きたか理解出来なかった。
殴り飛ばされて、ダイニングテーブルに顔面から突っ込んだ。激突して落下した床から、反射的にむくりと上体だけで起き上がる。息を吸おうとすると、ヒュッと得体のしれない音が漏れた。
頭の中がサーッ、とクリアになっていく感じがする。
目を開けようとすると、強烈な眩暈がしてピントが合わない。いや、右目はやたらと光を拾っていた。嗚呼、今日はとても良く晴れていたんだなぁ、と、どうでも良い事を考えてしまう。天気なんて久しく気にしていなかった。
小さく息を吐いて、もう一度両目を開く。
まだグラグラと揺れている視界の中で、気付いてしまった。
「あれ……はは、あれ、」
左目が見えていない。
右目を試しに閉じてみると、あんなに眩しかった光も一切感じない。
鼻の付け根に今まで感じた事のない違和感を感じると同時につう、と鼻血が床にぽたりぽたりと、赤い水玉を描いた。
背中側で、政行のゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
振り返ると、ぐにゃぐにゃの視界の中で、政行が口を開けて青ざめて固まっている。なんでそんな顔をするんだろう。さっきの続きはもうしないのだろうか、もう殴らなくていいのだろうか。人殺し、なのに。
「……お、おい、お前、目、それ」
立ち上がろうとすると、急に左顔面がどくどくと波打つように痛み出した。
おかしさに気付いた瞬間に、激しい痛みが顔と眼球に襲いかかり、吹き出すような汗が体を燃やした。
痛い、痛い、痛い。
吐き気がするほどの痛みに「助けて」と声にもならないまま、食いしばる歯の隙間から涎が垂れ、ふうふうと呻き声が漏れる。
痛い、痛い。政行は摺り足で一歩、一歩と遠ざかっていく。
「……来るな……! く、来るなよ気持ち悪い! なあ……知らねぇよ、俺じゃない、俺のせいじゃ、ない……!!」
痛みに耐えながら政行に手を伸ばしたけれど、その手は誰にも触れなかった。
私の顔を見て、政行は部屋を飛び出していった。
慌てて廊下を走る足音の後でバタンと玄関のドアの閉じる音がして、家の中から生きている人間の気配が消えた。
顔面の痛みと同時に、心が痛いような気がした。
ああ、もう痛くない場所を探す方が難しい。ともかく痛みをどうにかしようと顔に手をやると、べたりと泥のように血が付いた。
視界の揺れがおさまらないまま、壁をつたって食器棚のガラスの前に立つ。
「……」
左の眼球は真っ赤に染まって腫れ上がり、私の目なのに私の知らない方角を見ていた。
その姿は化け物以外の何物でもない。
政行は目が潰れた血塗れの化け物になった私を見て、怖くなって逃げたのだ。
私が逃げる前に、政行が逃げた。私の周りからは、順番にみんな消えていく。でも、これで、終わった。私は化け物になった。
力が抜けた。
その場に倒れ込んで痛みを逃すように深く息をする。
このまま政行が戻って来なければ、このまま死んでしまうかもしれないと思うほど強烈な痛み。グラグラと歪み続ける視界の中で回る天井が降ってくるような、体ごと天井に落ちてしまうような、気持ち悪さで床に何も入っていない胃の中身を吐く。
もう、何も見えなくたって、いい。
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