金崎 愛【暁】.2
──唯。六年前に亡くなった、政行と私の娘だ。
あれは私が幼稚園へ入る頃だったか、両親は何かに転がされるように揃って怪しげな新興宗教に入信した。
家族の一員である小さな私には当然決定権もなく名前を連ねてられていたけれど、みるみるうちに日常が呑み込まれていった事だけはぼんやりと覚えていて、私は幼いながらにその会が好きではなかった。
生活のすべてが会の為に存在するようになった我が家では、毎朝祈らないと学校へ行けなかったし、祈らないと怒鳴られて食事が当たらないから、私は必死で祈ったふりをした。
会は、会員同士の結婚を決まりとしていて、未成年会員には一切の恋愛や異性との接触を認めず、年に一度、会の規則をクリアした成人会員同士を一斉に結婚させて、その日から毎日子作りをさせる。
男の子を「神の使い」として大切にする男尊女卑の思想が強い会だから、ここで女の子が産まれた家庭は加護の無い家として酷い扱いを受けていた。
女の子が産まれた夫婦は、またすぐに男の子を産む為に必死でセックスをした。
怒られたくない一心で親や会の大人の言うことを全て吞み込む癖がついたまま成人した私にも、そのうち結婚の順番が巡って来た。
それまでと同じように、周囲に言われるがまま、話したこともない男と結婚をすることになった。知らない誰かの意思での結婚だった。
金崎政行は、代々この会を信仰してきた家庭で産まれ、それこそ子宮にうずまっている時から会に入っている宗教三世だ。
性別が男であった為に、産まれた瞬間から「神の使い」として祝福されて育ってきた政行を、新たに会員の子供を増やすために結婚をさせるという事は、信仰の強い政行の家族にとって大切な役目だったらしく、親たちはひどく嬉しそうだった。
私は目の前にいる政行に対して何の感情も持てなかったけれど、それまで全て周りに合わせて、自分の事を自分で決める事をしてこなかったから、これが当然なのだと自分に言い聞かせて、籍を入れた。
両親は自分たちが男の子を産めなかった代わりに、娘の私を「神の使い」である政行に捧げることが出来たと、とろけた目で言った。
「絶対に男を産みな、そうじゃなきゃ愛が生きている価値はどこにも無いんだからね」と、母は嬉しそうに泣きながら私の手を握り、何度も何度も「神様の加護を」と繰り返した。
私は政行と子供を作った。
それが普通の恋愛や結婚では無いことは分かっていたけれど、誰かに愛されて幸せなセックスをするなんて現実世界には存在しない。
学生時代に流行った漫画の中でのような恋愛も、キスも、セックスも、少なくとも私の現実には存在しない事は随分昔に理解していた。
処女は一瞬で失ったのに、大切なものならとっくの昔に失くしていた気がして、何も辛くはなかった。何も感じなかった。
段々大きくなる腹にすら何の感情も湧かず、ただただ「男の子を産め」と、しつこく腹を撫でる両親や会の人間の掌が不快だと感じることだけがリアルで、つわりじゃない吐き気には出来るだけ気付かないように、自分を人形だと思いこむように過ごしてきた。
長い冬の終わり、産まれてきたのは元気な女の子だった。
汗だくになり猛烈な痛みに堪えて、聞こえてきたのは産声と、母親の絶望の噎び泣きと義両親からの大ブーイング。
助産師から小さな生き物を渡されて、両親から人生で一番の罵声を浴びた時、初めて自分の中で感情が溢れる気がした。
生まれたての娘を抱いた瞬間に、体裁なんてどうだって良いと思えるほど嬉しくて動揺した。
小さい、可愛い、愛おしい。
息をしている、生きている。
私は人生で初めて、心から愛しいと思える事に混乱して泣いていた。
政行は、娘に「唯」と名付けた。
私は唯を産むと同時に、二度と妊娠出来ない体になっていた。
唯の命と引き換えにして子宮を失った。しかし私にとっては何の痛手でもなかった。
むしろ、今腕の中にいる唯を守れたことが誇らしいと思った。
案の定、周りの人間からは酷い言われようだった。
私がもうこれ以上子を持てないと知れると、この先家系から「神の使い」が途絶えてしまう、否定者だ、と男を産めなかった役立たずとして本格的に存在を否定されるようになった。
政行の親族は勿論、私の両親も私を罵倒し続けた。
これまでの経験から、何か一つでも期待をしていたつもりはなかったけれど、ハッキリと親にも見離された私にもうたった一人たりとも味方は居なかった。
政行は、それを見ても何も言わなかった。
彼にとってもこれは会の規則の結婚で、私に愛があるわけではない。神の使いにとって、女は繁殖の機械で、道具や肩書きでしかないのだろう。
妻以前に一人の女、人間としては一切認めていなかった。せいぜい家政婦だ。自分にとって私は、親や会を敵に回してまで守る価値がないからフォローをしない、それだけだ。
しかし、政行は離婚と再婚を勧められても、それをしなかった。
……唯が居たからだ。
私が唯を愛していたように、政行にもほんの僅かには人の心があったようで、彼も自分の一人娘だけは愛していた。
私を愛してはいなかったけれど、唯の事は可愛かったようだった。
親族や身内がどれだけ唯を疎ましく思っていようが、妻である私が暴言を吐かれて虐められようが、政行はひたすらに自分の子である唯を愛していた。
私を助けてくれなくても、唯を悪く言われることだけは許さなかったから、私は政行を信頼できた。
唯を愛しく思う気持ちだけが、私たちを繋いでいた。
唯が一歳になってすぐの頃だった。
政行を仕事へ送り出した後、天気の良い日だったからよちよち歩きを初めたの唯と二人で散歩へ出かけた。
花を見て、公園で遊んで、沢山おひさまを浴びて疲れたのか、唯は帰宅後すぐにうとうととし始めたから、私は窓際に昼寝布団を出して唯を寝かしつけた。
すぐに寝息を立てて眠ってしまった唯が本当に可愛くて、しばらく眺めていた。
自分の人生にこんなに穏やかな日常が訪れるとは思っていなかったから、不思議な感覚だ。でもこの家に産まれてしまった以上、いつか唯も好きでもない男のもとへ嫁がせなくてはならない。
その時が来たら私は、唯に何と言ってあげられるだろう。どうにか唯を逃がしてあげられないだろうか。寝顔を見るたびに、この子の幸せを考えるようになった。
少し開けた窓から入る優しいそよ風に、唯の細く柔らかい髪が揺れる。
唯の昼寝の時間は、家事をするチャンスでもあった。起きている時はめいっぱい遊んで、唯が眠ったら晩御飯の支度を始めるのが日課だった。
すやすやと眠る唯の髪をそっと撫でてキッチンに立ち、喜ぶ顔を想像しながらにんじんを花の型で抜く。
一時間経った頃、部屋にはクリームシチューの良い香りが広がった。
そろそろ唯も起きる頃かな、と小さな寝顔をのぞき込んだ時だった。
……何かが違う。
強烈な違和感を感じて頬に触れて、悲鳴をあげてしまった。
唯の頬が考えられないほど冷たい。鼻や口に手を翳すけれど、息をしていない。名前を読んでもピクリともしない。半狂乱になりながら、慌てて抱きかかえて、震える指で救急車を呼んだ。
助からない事がハッキリ分かるほど、唯は冷たかった。
そこからは記憶があまりない。
悲しむ暇もないほど忙しく走り回った。
訳も分からないまま唯とお別れをして、良く分からないまま葬儀を終えて、気付けば手元には、本当に小さな骨壺だけが残った。
政行は殆ど口を開かなかった。
唯が運ばれた病院の先生から、乳幼児突然死症候群の説明を受けた時に「お母さんのせいじゃない」「原因不明で仕方の無い事だった」「自分を責めないで」と慰められ、同じように子供を失った遺族のコミュニティを紹介され、パンフレットを手渡されていたのを思い出した。
私は唯の居なくなったリビングで項垂れる政行に、パンフレットを渡した。
唯を失った今、政行に寄り添えるのは自分だけだと思ったからだった。
今、私だけが政行の家族なのだ、と。
しかし、それが愛情だったのか同情だったのか共感だったのか咀嚼する間もなく、政行はパンフレットを破り、私を初めて、殴った。
「お前が唯を殺した。お前は人殺し」
「お前が母親でなければ唯は死ななかったのに」
「お前が悪い、唯を返せ、お前が唯を殺した」
「お前が死ねば良かったのに。唯を置いてお前が死んでくれたら良かったのに」
政行は私を殴り続けた。
止まらずに「お前が死ねば良かった」「人殺し」と怒鳴り嬲り続けた。
私は唯を殺していない、あの日だって笑って楽しく散歩をして寝かせただけで、いつも通りの昼間だった。
人殺し? 冗談じゃない。そんな訳がない。
なんで、頭の中にその一言が浮かぶ度に打撃の痛みが走る。
怖い。痛い。辛い。
手を上げる政行に対する恐怖と、何故という疑問。そして視界のどこを探しても見当たらない唯の死の痛みが溢れて、泣く事しか出来ない筈なのに泣く暇も無かった。
気の済むまで私を罵倒し疲れたように政行は自室へ戻り、やっと解放される。
壁際へ追いやられた身体の全てが震えて立つ事も出来なかった。
たった今起きた事の一つも分からないまま、切れた口の端にボロボロと落ちた涙が染みるのを感じながら夜を噛み潰した。
その日から政行は毎日のように暴力をふるった。
小さなきっかけでも、唯を思い出してスイッチが入るとしつこかった。
最初こそ抵抗して暴れたり話し合いに持っていこうとしたりもしたが、私がアクションを起こす事は完全に逆効果で、一瞬でも口を開けばいつもの何倍も殴られた。
そのうち私は抵抗をやめた。
痛い事が、辛い事が嫌だった。殴られる回数を最小限で済ませたかった。
殴られて怒鳴られていくうちに段々と「私のミスだった」「私が殺したのだ」と思うようになった。
理不尽に責められるより、自分が悪者である方が気持ちが楽だったからだ。自分のせいだと言われて、それを認めれば、諦めが付いた。
そうやって私が責められる事に慣れてきた時には、政行も私をサンドバッグにする事に慣れ、仕事や全ての日常の鬱憤まで全て「人殺し」の私にぶつけてくるようになっていた。
唯の三回忌が済んだ頃には、政行は家に帰ってきたり帰ってこなかったりの生活になっていた。
帰ってきた所で私は透明人間のように存在を無視されたが、それでも帰って食事の用意が無いとキレて暴れるのがお決まりだったから、私は毎日料理をした。
帰ってこなければ作った食事を捨てた。何度も捨てた。三角コーナーに食わせる為の食事が殆どだった。それにも、慣れた。
そんな生活を数年続けたある日、政行はやたらと機嫌良く朝帰りをしてきたと思えば、珍しく私の方を見て言葉を発した。
「お前さ、毎日家にいて何してんの? 暇なら仕事でもしろよ穀潰し。いつでもそこにいられたら目障りなんだけど」
政行はどこからか華やかなバラの香りを家に持ち込んで、コンビニで買ったであろうパンを囓りながら言った。
その瞬間、政行が汚いものを見るような目付きで私を見ている事も、香りのキツいシャンプーが我が家の備品ではない事も、そんな事はどうだって良くなった。
唖然とする私を一瞥して自分の部屋へ入って行く政行を見送って、昨夜作って手付かずの鍋の中身を三角コーナーに捨てながら、笑いがこみ上げてきた。
気が付かなかった、仕事をすればいいのだ。
仕事をしていれば、家に居なくたって良い。
少しでもここから離れる、それが一日の数時間だとしても、私にとって幸せでしかないじゃないか。そしていつか、ここから逃げれば良い。もう傍に親もいない、私は大人なのだ、自分で選んでいいんだ。
じわじわと心が晴れていくのが分かった。
「あ……そうだ……」
隣の駅近くの喫茶店に貼ってあった求人の張り紙を思い出した私は、衝動のまま鞄を持って家を飛び出していた。
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