落日

@offonline

高遠城の戦い

 遠くまで見渡せるほど高い土地。という意味を持った山間の平野を高遠という。

 とはいえ、遠くを見渡せばぐるりと山がそびえているばかりである。

 その高遠にある城のことを、なんの捻りもなく高遠城と呼んだ。



***



 城へ続く道は徐々に狭くなり、外堀に使われているほどの渓谷が行く手を阻んでいる。これは橋を渡る以外では入渓してよじ登る以外には山を迂回しなければならなかった。

 太郎がはじめて城に続く道筋を眺めたのは六つの頃合いで、その光景は幼心に酷く恐ろしいものに感じていた。

 吸い込まれていくかのように上っていく茶色の道には、小石すらもないほどによく手入れがなされ、渓谷は存外に深かった。

 蛇のように這い進む中で望んだ門は口を開けていた。太郎にはその口がなんだか怖かったのだ。

 高島の城は良く拝んでいた。何せ太郎は諏訪の出であって、湖面に浮かぶ高島城を存じているのは当然のことだった。領民らとともに浮城と呼んでもいた。

 高遠城は外観だけとはいえ、慣れ親しんだ高島城とは違った出で立ちであった。

 慣れぬ新天地へ単身六つの頃合い。不安に駆られるのも無理ない。

 幼少の頃はやんちゃだった。体の至る所に傷を作った。とりわけ肘や膝にはいまだに黒く変色した皮が肉の上に覆い被さっている。

 それゆえに、周囲の大人は太郎めが無茶を押し通して遠くに行かぬよう言って聞かせた。

 森には天狗が出る、湖には神様が居る、おいそれといたずらをしてはならない。災いはお前だけに降りかかるわけではない。周りに迷惑をかけてしまう。

 漁師と船を出し、農夫たちと田畑を耕し、馬を養い、冬に備えるため山の恵みを捕りに出掛ける。太郎に親はいない。村の皆が家族であった。だからこそ、家族の誰かが傷つくのは嫌だった。

 それ以来、自分は良い行いをしてきたつもりであった。大人たちの言いつけを守り、元気いっぱいでやんちゃだと自覚しながらも幼少の頃合いは本当に、清く生きた。遠出はせず、よそ者を見つけては大人に知らせ、時に百姓の戦の手伝いに駆り出された。

 馬に乗って駆け、落とされた。川で魚を突いた。湖で泳ぎ貝を採った。傷は絶えなかったが、誰しもが自分を見て笑ってくれていたと思う。

 太郎はなんだか胸が苦しくなっていた。それは、決して不快というものではなく、むしろ嬉しいことだった。

 思えば自分の仕える主は、このいたずらっ子らしい古傷がお気に召すようだった。



***



 小姓としては、傷があることはよろしくないと同輩から聞き及んでいた。

 主とその妻は、太郎の生み出した傷に目を細め、小言を放ちながらも嬉しそうに笑った。


「変わったお人だろう。あの方の小姓は皆、武士みたいになってしまう。お前も気をつけろ、とは無粋な言葉か。もはや、その容姿では花形であったら立派な武士よな」


 そういったのは殿様の小姓であり、太郎にとって同輩かつ良き友となる弥助だった。

 女子のような容姿に似合う甲高い声で弥助は平気に笑った。

 太郎にとって主の性格は優しいもので、むしろ有難い。また、あえて口にした弥助の気さくな物言いは気持ちが良かった。

 仲良くなるのに時は掛らず、弥助は苦笑を浮かべて類は友を呼ぶと漏らしたのである。

 太郎とて、小姓の所作など放り出しては、ひたすらに興味のある物事へと首を突っ込んだ。そして笑いと顰蹙、叱咤や歓声をその身に浴びた。

 太郎もまた、変わった人だった。

 主は寛容に太郎の無礼を罰し、あるいは許した。

 分別を弁える大人の背中を望み太郎は成長したのである。

 奇しくも弥助の言葉は正鵠を射た。武士を手本に、武士たる素養を持った小僧が歳を食ったのだから、当然の帰結とも言えた。

 また主の妻は太郎を大変に可愛がった。

 子供のいない理由をついぞ太郎は知ろうとはしなかった。

 その代わりに、太郎は存分に甘えた。生まれて初めて明確に母を意識した反動だった。

 主は太郎の純粋な家族としての献身に心を打たれ、遂には養子に迎え入れたのである。

 今では花形と言われる小姓としての全盛期を迎えている。

 槍や刀、弓に馬術。果ては鉄砲の手ほどきにまで身を投じた太郎は、立派な武士だった。

 鍛錬と称して、教えを請うた。

 何をするにも怪我をした。

 つけた傷の数々が、ひどく懐かしいと感じられた。


 ――今は、どうであろうな。


 太郎は、正座のまま赤黒く濡れた握りこぶしに目を落とす。手甲の布地が纏わりつく。それは汗でもあり、恐らくは血が染み付いたからであった。

 此度もいくつかの傷が増えた。それは、今までつけたことのないものばかりで、とても身体に堪えるものだった。

 嫌なものと断ずることはない。名誉であるとすら思う気概が太郎にはある。そうせねばならない意地もあった。

 彼の膝の先には檜の台が一つ。上に白紙が乗っていた。


(これは、いかん)


 視線を落とせば良く判る。

 彼の身体は今、泥や血に塗れている。

 汗で身に着けている何もかもが重く乗りかかってくる。

 これは汚れてはいけないと思った。太郎は僅かに座したままであとずさる。手の汚れを腰や腿に擦り付けた。少しでも身ぎれいにしようと足掻き、再び拳を膝に乗せる。

 じっと凝視してみれば、何故だかとても不可思議な思いに苛まれていく。

 これは一体なんだろうと太郎は疑問を浮かべながら、手のひらを握ったり開いたりした。

 そうして、ようやく納得するのである。これは、紛れもなく自分の手であると。

 拭い去れない感覚が、突然に訪れた平穏な場の中で狂ったように身体を惑わしたのだ。

 膝の上で丸くなる己の手のひらには、まだ槍の、刀の、弓の――。

 殺生を行った感覚がこびりついていた。

 生きていくうえで、槍の穂先は魚を突くものだった。刃の数々は獲物の解体に勤しむ必需品で、弓は獣を狩り、伝統を重んじる祭事の練習を重ねてきた道具だった。

 得意なものが、いつのまにか人を殺す最良の手段となっていた。

 何を、とはもはや思わない。後悔などする暇もない。自らの手で人を殺したのだ。夢心地であると言わざるを得なかった。

 覚悟はしていた。しかしそれは思い込みでしかなかったようだ。

 武家に仕えるようになったからには、いつかは人を殺めるものだ。漠然ながらに考えていたものだった。実際には、こんなにもあっさりと人を傷つけ、殺めることができる。その行動を行えた自分に対する困惑のみが残った。


(夢、であるならば)


 太郎はぼんやりと視線を真正面に戻す。

 過去を思い出した。今の現実から逃避したいという想いからだった。ただ、それでも目をそらし続けることはしなかった。

 太郎は深く、息を吸った。双肩の動きに、身に着けた鎧がか細く啼いた。

 目の前で黒い髪が乱れている。白装束は泥や血でべっとりと染め込まれている。戦場で作られただんだら模様の染物を着こなすのは、太郎の眼前に居る一人の女性。

 仕える主の伴侶が座していた。

 名を『花』という。

 べっとりと血糊がついた薙刀が、花のその白皙たる右腕の届く畳の上へと置かれていた。

 白い吐息が荒く漂い消えていく。


(運命などと……)


 思わずに頭を垂らし、力を込めて眼を閉じた。双眸は闇を持って、邪な考えに喝を入れる。

 大きく息を吐き出した。

 気に病む素振りを見せないよう気を配ったが、否応にも目線は動く。動揺を悟られたくはなかった。

 もはや子ではない。大人であって、兵士だとする自負が、男としての意地をくすぐった。

 花の様子に変化はなかった。

 揺らめく長い長い黒髪の隙間から、額を縛る白い襷が見えてくる。

 この期に及び、太郎は花の美しさに気圧されてしまった。

 傾慕の魔力が太郎の身を焼いた。

 居心地をわずかに正す。

 左右には同じように薙刀を右手においた女中たちが一様にうつむいている。唇をかみ締めている者からは、血が垂れていた。

 気概はすでに男と相違はない。この場において、戦うことを善しとした武人であることはもはや疑うまでもなく、太郎にとってはこの場に最後まで残った四人は姉のような者たちであって、ただただ、尊敬と無念ばかりがこみ上げてきた。

 四人の女を太郎は良く存じていたのは、女中同士それなりに長い年月を同じ主の元でともに過ごしてきていたからであって、太郎からしてもただの女中ではない。親密な関係を持った存在で、いわば子供の居ない花にとっての息子が太郎ならば、四人は立派に育った娘たちであった。

 人なんて、斬らせたくなかったのだ。

 太郎も、女中の面々も。

 それだけではない。座を外し、戸を挟んだ表に立ち、戦場の空気をひしひしと感じながら警護に回ってくれた兵たちも皆――。

 花に斬って欲しくはなかった。

 けれども個の心情を慮るほど、戦は善意で出来てはいない。ましてや元が勝ちのない戦だった。いや、もっと言えばこれは単なる悪あがきである。

 殿が決めたのだ。高遠の城主様が、意地と誇りという偽りない想いを滾らせて、一泡吹かせてみせようぞと、のたまったのである。そして、太郎の仕える主は殿とともに逝くことを選んだ。

 誰もが、その意気や好しと沸いた。わずかに二十六の齢であったにも拘らず、仁科五郎盛信はその双肩に武田の意地を背負ってみせたのである。



***



「出来ぬと解っておりながら、高遠に暮らす者として言わせていただきたい」


 降って欲しい。


 高遠の僧侶であった。自らが願い出たことで、その目的は言葉の通りである。

 まったくもって馬鹿なものだと歴々の将らは笑ったという。

 叶わぬことは解っていただろうに、言わなければ気がすまなかったのだろうな、などと弥助が憂いを隠す麗人違わぬ魔風を持った笑みを浮かべて、しっとりとそのやり取りを聞かせてくれたことを思い出す。

 もちろんながら降伏はしなかった。

 太郎の元にも、その覚悟が届き、迷うことなく名を連ね、血を流した。

 高遠に篭る一同の直筆血判となった返書とともに、僧侶を送り返した。

 早々に攻めてくる。堅城とはいえ、要所攻略では高遠が本命ではない。既に棟梁は上原城を発った。

 早晩、四面楚歌から逃れる術はなしとは武田の問題であって、攻める織田方はいかに功名を得るかに苦心するばかりである。遅参などしたとあらば此度の戦に参加する者が歴々たる織田方らから不名誉を賜るだけだ。それはまさに望む望まぬ、両陣営のせめぎ合いは気勢の白熱を意味した。

 頭の先から指先に至るまで誰もが焦れた。熱気にうなされることもなく、春の到来を予見させるほどに気持ちは高ぶっていた。

 戦を待ち望む双方、三万三千余の人間が群れをなし、わずかな間合いをとって対峙する。

 夜だというのに不思議と眠気は降りてこず、誰も彼もが騒ぐこともなければ、淡々とその双眸をこらして今宵に煌々と浮かぶ灯火に魅入られた。願わくば同じくに輝き朽ちて行きたいものだ。口に出さずとも死に行く者らが抱いた夢想である。



***



 戦いは明け方に始まり、昼を過ぎて勝敗ははっきりと帰趨した。

 高遠城は三方を崖と川に囲まれた城で、城の背面は小さな尾根が続きとなっていた。

 川は幾本かが谷間を縫い、その勢いは強い。道も隘路のためにすこぶる攻めにくい天然の要塞となっていた。しかし、川下には渡航が容易にできる浅瀬があることを、先導によって知り得た敵方は、早速に川を渡り、高遠城を攻め立てたのであった。

 自落したものが織田方で保身に走ることへの憤りは薄かった。恨めこそ、その行いは決して間違いではなく、むしろ正しいのではないかと哀愁を抱くだけだった。

 三千余という寡兵でありながら、城方は大手門から突撃を仕掛け、雑兵などには目もくれずに大将である信忠の首を狙った。

 この思わぬ攻勢に織田方の混乱を生み、卯の刻(六時)に始まった戦いが、辰の刻(八時)になっても未だ木戸一つ破られることのない善戦をもたらしたほどであった。

 城攻めは守りが強いとは誰もが知っている話ではあるが、よもや守勢だろうと高を括った織田方へ向けて猛然と攻めかかり、気炎を叩きつけてくるとは思ってもみなかったのだ。

 混乱は混沌となり、前線は一気に崩れたものの押し切るには程遠かった。

 織田方はただの歩兵では押し負けると判っていたかのように、兵を逃がす巧みさが光った。そこから城方の勢いを殺ぐために自慢の鉄砲隊を存分に使い、前線に立ち皆を統率していた盛信を撃った。

 図らずも両軍の狙いは互いに大将と定まっていたのだ。

 城方は大将首をとってようやく五分になり、織田方は先の戦を見据えていた。損害を減らし、かつ迅速な終戦を望んでいたことから大将首を欲した。

 織田方がその争いに勝ったというだけである。

 そもそもに有利不利は明白だった。

 これにより盛信は足に弾を受ける。必殺とはいかなかった。当人も無事であることに違いはない。だが、終わったのだ。軍としては十二分に致命傷となった。

 軽くはない傷を負った盛信が苦悶を見せ、近習によって半ば強引に後退となって本丸へ戻ると、いよいよ狙い通りとばかりに、今度は織田の総大将であった信忠が前線で果敢にも指揮を取った。これにより、優勢は圧倒的となって織田に傾き、途端に前線は織田方に押し込まれると、間もなくして城門は破られてしまった。

 いくら堅城と謳われ三方を崖と川に囲まれた高遠城だろうとも、三万余というその兵力差を覆すことはできなかった。



***



 その渦中、まるで夢でも見ているかのような戦場の中。

 太郎は頭が真っ白になった。初陣だという言い訳すら浮かぶ余裕はなかった。この時、太郎は主の姿を見失うほどに必死だった。

 考えるよりも先に、死なないためには何でもした。

 敵方を無我夢中になって、ただただ殺した。弓を射ることで、何人も倒れた。筒が空になってしまえば、誰かの槍を持ち、存分に突いた。

 いよいよに間合いが狭まってしまえば、混戦となって、両軍入り乱れての殺し合いとなった。

 刀は一刀のもとで曲がってしまい、織田方の刀を奪って使う始末であった。

 殺到する敵方の腰に組み付き、相手の首を折り、足を斬っては使い捨ての盾にした。砂を握っては相手の目に目掛けて振りまいて、突き飛ばしては蹴ったくり、庭の石で顔を潰した。

 味方のことなど考えにも及ばず、誰かに助けられた気もした。助けを請う声を耳が拾ったように思った。

 敵方など、もっと危うい。顔すら思い出せない。まるで亡者を相手取っている気分になった。

 相手は化け物なのだ、命を奪う化け物で、身を守るには殺すしかない。

 殺すには数が多く、忙しい。汗を拭い、息を整えることも困難で、それはとても苦しく途方もない時を浪費してなお、終わりが見えない凶事にほかならなかった。

 己が身一つ守ることで精一杯だった。

 けれども不思議なもので、主の声はすっと、阿鼻叫喚の中で響く鈴の音ほどに清涼としたもので、良く聞き取れた。


「太郎。花の元へ行け! お前が守ってやるのだぞ。そら、行け。太郎よ、行け!!」


 見回せば乱戦の中で主は笑っていたのである。あまりにも場違いならば、しかし、それこそが実に良く似合っていたのだ。

 血に濡れ、泥に塗れながら、その趣がまた野良仕事に参加していたのではないかと思わせる魔力を宿していた。

 太郎は呆気にとられ、迫った槍を巧くいなせず、傷を負ったほどだった。

 その姿こそが、最後である。

 太郎は忠実に、敵方をいなすとその場を後にした。すでに主の姿はなかった。

 なぜかは判らない。

 命令だからという安易な納得に当てはめてはならない。ただ、身体が悲鳴を挙げながらも動いた。

 頭が驚いたほどに不可思議な行動だった。

 いつもならば、共に行くのだ。太郎とはそういう人物であって、興味のあることに対して今まで背を向けたことはない。

 戸惑いが駆け巡った。

 気がつけば顔は濡れていた。心は震え、声を挙げて叫んでいた。狂騒に隠れて、存分に泣いた。


 ――嗚呼、死んだのだ。


 誇り、意地、名誉。様々な感情を男という人の形に押し留め、太郎の主たる諏訪勝右衛門頼清は討死にしたのだ。

 槍の勝右衛門の異名を持ち、槍弾正から手解きを受けた豪傑が、ここに至り覚悟を決め、敵中に突撃を敢行。何度か敵を押し戻したものの、三万の中で露と消えた。

 太郎に何も告げず、花の元へ行けと叫び、返事も聞かずに逝ったのだ。

 声を思い出す。

 快活なもので、戦場ではなくどこか遠乗りでも行くかのような気軽さがあった。

 太郎は幻視すら駆け巡った。高原に向かう様を、何度となく眺めてきた。勝手にまた出て行ってはいけませんという諫言に哄笑を持ってやり過ごして姿を消す。

 その思い出が残酷なまでに死を薄めてしまった。残ったものは一に後悔。二に覚悟であって、比べるまでもなく未練もあった。

 あの時と似ている。このときもそうだった。連なる情景は輝いていて無性に眠くなった。

 自分は隠し事が下手であったが、主は格段に巧かったのだと、今になってようやく気づいた。

 漣のうねりを心に浴びせかけながら、太郎はひとしきり泣いて、花の元へ向かう前には立ち直った。

 愛する妻を残して、太郎の主は死んだのである。

 これ以上、汚れた姿を見せるわけにはいかないと使命が湧いた。

 男として無性に悔が浮かび、自嘲を生んだ。なればこそに覚悟を持った。

 二の丸の屋敷に赴き、頭を垂らした。その先で、薙刀一本こさえ白装束に身を包む花に顛末を語った。


「諏訪勝右衛門頼清。討ち死に」


 平坦な物言いだった。太郎は我ながら、なんと他人行儀な言葉を打ったかと驚いたほどだった。

 花は、座して沈黙を貫いた。ただ瞑想するかのように静かであった。

 幾ばくかの間が空いた。隔絶されたように戦場の音色が遠ざかった。と幻聴に苛まれるほどに誰もが固唾を呑んだ。


「なれば、意地を通しましょう」


 ぽつりと花は言った。全てが動き出す。機先を制したのはやはり、花であって、太郎も負け時と動き出す。すでに背中を追うほどに先を越されてしまっていたものだから、躍起になって横に並んだ。

 前を行く必要こそ、無粋である。唐突にそんな予感を持って肩を並べた。


「ありがとう、太郎」


 優しい声色に、太郎の心はみるみる内に蕩けてしまって、身体は茹だって力が沸騰した。

 そして今しがた、花は人を斬った。

 敵方の雑兵らを相手取り、その侵入を許した城郭に躍り出た。男らに混じり、その白皙たる容貌は、天に昇る太陽を持ってして眩しさを際立たせる。最中、一心不乱に迫った敵兵のうち三人を見事に殺し、六人の兵に手傷を負わせた。

 その勢いに味方は奮起させ、敵の雑兵は兢々とさせた。

 敵方の部将は、見事なり、と口上述べて名を問うならば、花は毅然と声を張り上げたのち、しっかりとした足取りで屋敷に舞い戻ってきたのであった。


「槍の勝右衛門たるや諏訪勝右衛門頼清が妻、花である」


 歓喜は伝播し、勢いは僅かに戻る。誰もが進んで死に走った。

 その喧騒は今も続く。

 持ちはせずと知りながらも、誰もが人を殺すために得物を振り回す世界がもうそこまで迫ってきていた。そのくせに、この一間は異様なほどに静かなものだった。

 すでに三の丸まで押し入られている。虎口が一つゆえに凌いでいるようなものだった。

 死の臭いが鼻をつんざく。銃声が雷鳴となり、晴天を惑わす。

 ここは死に場所。三千人が選んだ、たった一つの死に場所だった。

 太郎は静かに、ため息を吐く。

 何故、自分なのか。と考えてから、やっぱり自分で良かったんだろう、という思いに至る。けれども、何か一つだけでも良いと思った。気の聞いた言葉でも出せないものか、と。それでいて、口はそれを拒む。何も考え付かない。思いつくのは楽しかった思い出ばかりだ。

 太郎は置いて行かれた。なにせ、ともに戦うことすら願わず、それこそが主の命であったからだ。恨みも募る。が、理解もできる。そして、喜びもまた太郎の胸中にあって、それはとても異彩を放ち太郎を苦しめた。

 主は妻の最後を看取って欲しかったのではないか。と、太郎は推論する。

 おこがましい、と思う反面、そうであって欲しいという期待。かくして太郎の思惑通りの光景が広がりを見せている。嬉しいことではないものの、幸いと考えてみたところで罰はあたるまい。

 全てを見届け、そのあとに死ねば良い。

 太郎は諦めて、左腰に挿してある小太刀を抜き取った。猶予はもはやないだろう。死の歓談よろしく戦渦は着実に歩みを見せている。

 本当にこれで良いのだろうか。この期に及び、女々しくも自問してしまう。

 揺れる瞳が小太刀を眺め、続いて花を映し出す。

 自分の小太刀は主から賜ったものである。

 絞るように、ゆったりと小太刀を抜いた。

 今が野戦で、勝ち戦ならば首切りに使うこともあっただろうに。あいにくと、血肉を断ってきた自分の手のひらに握られる黒の鞘に納まった小太刀は、人を知らぬ花心な白刃だった。


「太郎」


 その声を心地良い、と太郎は思った。

 吸い込まれてしまいそうな瞳に顔が火照る。


「ありがとう」

「何を申されますか」


 胸が苦しい。

 顔を顰めるなどという軟弱な行為は許せなかった。


「貴方に看取られて逝けるのです。恥辱を受ける生よりも、よほど価値がありましょう」


 そうなる前に、死ななければならない歯痒さに思わず顔が強張ってしまう。


「奥方様の意地は武田の意地。見事でございました。私も意地を見せ付けてみせます故、どうかご安心を。主様に仕えた身として恥じない活躍をしてみせます」


 おのずと発した言葉は堅かった。


「本当に、立派な武士になりましたね。太郎」


 そよ風にゆらぐ新緑の木々に勝るとも劣らぬ清涼さを持った声音。


「感謝の極みで、ございます」


 老いてなお、彼女は美しい。どのような茶器にすら勝る陶器は、彼女の素肌においてありえないとさえ思うほどだとに感じ入るのは、果たして太郎が男だからであろうか。

 

「これも、主様と奥方様のご指導ご鞭撻のお陰であり、身命を賭してご恩に報いる所存ではありましたが、此度のことになり、まこと不甲斐なく」


 十年もの間、太郎は花を見てきた。傍にいた。小姓でありながら、花からは寵愛を受けてきた。それはやはり、やんちゃの過ぎる太郎は、目を離せばどのような無茶をするかわかったものではなかったという大人の考えによるものだったが、花はとりわけ親密だった。


「感謝したいのはこちらなのです」

「奥方様。私は、」

「太郎」

「……はい」

「私たちの子になってくれて、ありがとう」


 嗚呼――。


 やっぱりだ。けれども落胆は表に出さない。それは、とても悲しいことではあるけれど、大事な場を汚すわけにはいかないのだから、太郎にとって仕方のない我慢だった。


 ――いつの頃からだろう。


 太郎は小太刀を白紙の上に置き、台の縁を掴むと目上に掲げた。中腰となってから前に四歩。平伏する形を持ってして、花の目の前に白刃を置く。

 違う、と太郎は大声で叫びだしたかった。


「私は幸せ者です。立派な息子と、娘たちに囲まれながら逝けるのですからね」


 花の安らかな言葉が寄り添ってくる。その優しさが、今の太郎を苦しめた。

 抱きしめたかったのだ。今、この場で死に蝕まれた雑兵のごとき色欲の亡者となって、組み敷いてしまいたかったのだ。

 なのに、どうしても。


「私には過ぎた人生でありました。私は、」


 偽りを述べてしまう。


「奥方様が、私の母上様で……良かった」


恰好つけが、ただただ滑稽であった。 

平伏したままの太郎の顔はぐちゃぐちゃに壊れていた。


「私もですよ」

「はい」

「もちろん、勝右衛門様も同じ気持ちです」

「はい」

「太郎」

「はい」


 嗚呼――。


 打ちひしがれていた。届かないことを知りながらも、どこかで望んでしまっていたことが良く判るゆえに、吐き気がした。

 何もかも、ぶちまけてしまいたい衝動を抑えながらも、視線を動かすことはしない。

 息子としての立場を失うことが怖かった。


「最後に、顔を見せて頂戴」


 太郎の胸中は不気味に静まり返り、何もかもが沈んでいた。

 諦観の坩堝で、現実が死んでいく。目の前の光景とともに、死んでいく。


「はい――母上様」


 ――なんと、美しいのだ。


「太郎、今までありがとう」


 喜色満面が咲き誇る。

 諦めてしまえば、肩の荷が下りたように身体が軽い。

 女中と語り合い最後の別れとなる抱擁を交わす光景は、死地において映える絵であった。その中心で、花は輝き続けていた。

 散り行く刹那の世界で、太郎は人の輝きを思い知る。

 太郎は優しくも、草臥れた装いを持つ笑顔を作り、終わりを眺めた。


「まぁ、」


 花は太郎の笑みを知って声を挙げた。とたんに、太郎は気恥ずかしくなって顔を背けてしまう。


「やっぱり、太郎は笑っている方が似合っていますね」


 姦しい歓談が、死地に生れ落ちていた。



***



 諏訪勝右衛門女房刀を援切て廻無比類働前代未聞之次第又十五六のうつくしき若衆一人弓を持ち臺所之つまりにて餘多射倒し矢数射盡し後には援切而まはり討死


信長公記 巻之下

太田牛一 著

より抜粋。


意訳


 諏訪勝右衛門女房、刀を抜き斬って回る比類なき働き、前代未聞の次第。また十五、六の美しい若衆一人、弓を持ち、台所のつまりにて余多射倒す。矢が尽きると刀を抜き、斬って回り討ち死。

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