1-6 杖の下に回る犬は打てない


 眩しい光が、窓から入ってきている。新しい日の幕開けだ。オレは目を開け──

 目の前に、誰かの寝顔があった。

 それはエマでもアリアでもなく。



 アリアの元へ来ていた長身の家庭教師──確か、グィーテといったか──の、顔だった。



 昨日見た夢の、続きということだろうか。オレは驚きの声をなんとかこらえ、部屋の様子を視線を巡らせ探る。まず目を引いたのは、大きな鹿のような動物の首だった。何の目的で飾られているのだろう、そういう文化なのか、それともこの人の趣味なのか。その動物の光のない目が、オレを睨んでいるような気になった。オレは目を逸らし――五感を確認する。嗅覚視覚触覚聴覚味覚。嗅覚は──と鼻をひくつかせてみる。不思議な香りだ。エマのように爽やかな甘さでも、アリアのように落ち着いた甘さでもない──自然からそのまま持ってきたような、そんな鮮烈な甘さ。視覚はばっちり、まぶたもあった。触覚は──と、ようやく誰かに後ろから抱きつかれていることに気づく。腹が締められている。呼吸をしていないので苦しくはないが、体が歪められていて単純に不快だ。オレは体を揺すってその腕を緩めようと──

 オレは首を回す。グィーテさんの顔が視界から消えたところで、回らなくなる。右に90°、人間の体と同じだけ動く。この人形からだでは、どうやら動くことができるようだった。オレはなんとか抱き締められている胴を動かして、回した顔の正面と、体の正面を合わせる。そして再び、右に90°首を回す──オレを抱き締めていたのは、三歳くらいの男の子だった。そしてその奥に、女性がいる。

 オレはグィーテさんの言葉を思い出した。、と。つまり、彼の息子と、奥さんなのだろう。オレは目が覚めた時の向きに戻り、グィーテさんの顔に手を伸ばして、揺らしてみた。彼は薄目を開け、「んん……グィンハ」と、オレの腕を掴んだ。その感触に異変を感じたのか、彼はぱっちり目を開く。目がしっかり合った。



「……おはよーございます」



 オレは朝の挨拶をしておく。グィーテさんは、

「…………」

 とりあえず体を起こし、ベッドから降りる。んーっ、と大きな体で伸びをして、再びオレを見た。オレは少し首を回し、立った彼と目を合わせる。彼は──



 ──息子の腕からオレをもぎ取り、床に叩きつけた。



「──ッ、痛ぅううー!? 今回は普通に痛い、無事だけど痛い!」

 頭から床にめり込んで、オレは無様な叫び声を上げる。奥さんと息子が、目を覚ます。「グィー? どうしたの」奥さんが目を擦りながら訊くと、グィーテさんは、

「『ザンダン』が──喋って動いた」

 とヤバいものを見る目でオレを見下ろす。奥さんは、「?」と首を傾げるが──息子は、すぐ床の上のオレの元に来て、オレを持ち上げる。

「喋って、喋って!」

 純粋な目で、オレを見て言った。

「……やっほー」

 オレは右手を挙げて言ってみた。

 ──オレの顔が、何かで潰される。きゅうー、なんて可愛らしい音が鳴るが、オレとしては痛すぎてたまったものではない。

 オレはなんとかオレの顔面を潰す棒状のものを見る。グィーテさんがどこからか持ってきて、オレに突き刺しているそれは──まさしく、、だった。丁寧に言えば、身長よりは短いため──杖術である。両端に金具がついていて、いやらしいことに等間隔に小さな突起が並んでいる。それがちくちくと頬に刺さって、しかもぐりぐり押しつけてくるためそろそろ目に入りそうだ。



「は、は、話を聞いて下さい!」



 オレはそう言う──今度は口に、杖を突っ込まれ。

 その状態で、持ち上げられた。この人形の口腔はどこに繋がっている訳でもないようなので、気持ち悪くは感じないが、とにかく痛い。というか高い。この部屋はグィーテさんの身長に合わせて設計されているのか、天井がどこまでもあった。

「話を聞けとは……人形風情が面白いことを言う」彼は、アリアの部屋で見た時と、ぐるっと性格が反転していた。その双眸は、本気だった。

 狩る者の目だった。

「──主導権を握れると思うな。話していいのはこちらの質問に答える時だけだ。まず──貴様は」

「エマの、ところに!」オレは構わずなんとか声を絞り出す。「アリアの、ところに、連れてってくれ!」

 彼はオレの言葉に、顔を顰め、杖をトンッと一瞬上げ、すぐ引く──オレの口から、杖が外れ。

 オレは自由落下し──グィーテさんに、受け止められる。

 顔面を。

「人形風情がアリア様とエマ様の名を呼ぶとは……」指の隙間から見える彼の顔は、なんだか相当怒っているようだった。そうだ、あの二人はこの国の第一王女と第二王女。敬意が足りなかったか──



「うぁあああああえええぇ」



 と、部屋に泣き声が響く。

 グィーテさんの息子が、床に座り込んで、泣きじゃくっている。

 グィーテさんはオレの顔面を掴む手を緩めた──それで、オレは脱出し、床に降り、いや落ち。



 奥さんが、いつの間にかグィーテさんの後ろに回り込んで、その顔面を蹴り上げた。



 オレは床に墜落し、息子の前まで転がっていく。息子がオレを泣きながら抱き上げ、ようやく動向を見ることができた。

 グィーテさんは奥さんの蹴りを完全に防御していて。

 奥さんはそのままの蹴りの形をキープし続けていた。

 グィーテさんの目には、もう敵意はなく。「ごめん、ファイリース。グィンハも、怖がらせてしまったね」そう言って、防御姿勢から、奥さんの脇と膝に手早く腕を回し、いわゆるお姫様抱っこをした。「きゃ」「朝食にしよう。グィンハ、おいで」

 奥さんは満更でもなさそうに隣の部屋に運ばれていき、息子はオレの背中で涙と鼻水を拭くと、立ち上がって、「はーい」とトテトテ父親の後をついていく。オレを引きずりながら。




     ○




 四角いテーブルを、家族三人とオレで囲む。フルーツソースらしきものがかかったオートミールのらしきものと、スライスされ並べられたウリ科植物っぽいものと、牛乳か、豆乳のような白い液体。健康的だ。

 三人はいろいろ話をしながら食べていて、オレはただ椅子に座らせられていただけだった。別にお腹は空いていなかったし、もう痛いのは嫌だったので、オレは大人しく黙って時が過ぎるのを待っていた。



 オレの声は、結局、グィーテさん以外の二人には、届いていたのかどうか。



 エマの人形の中にいた時は、エマ以外の者にはオレの声は聞こえなかった。その後、アリアの人形の中にいた時は、アリアにはオレの声が聞こえていた。そういえば、その時エマに声が聞こえるかどうか、試せていなかった──エマの部屋にアリアと共に移動していたタイミングで、元の世界に戻ったのだ。そしてあの時点で、グィーテさんに声が聞こえていたのかは分からない──ただ、先程の豹変振りを見るに、アリアの部屋であっても、オレが喋っていることに気づけば何かはした筈。特に、不自然な挙動はなかった。

 暫定的結論。

 オレの声は、その時入っていた人形の持ち主にのみ、聞こえる。ただし、別の人形に移ってもそれまでの人形の持ち主には引き続き聞こえるかどうかは、要検証。



 三人は朝食を終える。息子はすぐに鞄を持ってきて、がちゃがちゃ何やら詰める。奥さんも用意を始めた。グィーテさんが奥さんにハンドバッグを渡す。「ありがとう」そう言って、奥さんはグィーテさんの頬に接吻キスをした。奥さんは息子の手を引き、「いってきます」と言う。息子も「いってきます」と言い、グィーテさんは手を振り「いってらっしゃい」と返した。

 ドアが閉まり、「さて」と。

 グィーテさんは、オレの正面の椅子に座った。「それで? 話を聞けと言いましたね。言ってみなさい」口調は柔らかかったが、厳しさは残っていた。なぜこの人は、こんなにもぴりぴりしているのか。

「えーっと、あなたはアリアの、」

「アリア『様』」

「あー……アリアの」面倒臭い人だ。オレは直々に呼び捨てでいいと言われたというのに。「家庭教師ですよね? その、アリア──様のトコまで、連れてってほしいんですけど」

「……なぜ家庭教師と知っている」

 ええと。言っていいのだろうか──彼はまだ、オレが『ザンダン』の間を移動することを知らない。それを言った結果、彼の印象がどう変わるか──更に危険だと、思われるかも知れない。というか思われるだろう。思われるに違いない。とはいえ何か答えておかなければ、事態が好転することは絶対にない訳で。



「え、えーと……この国で、作られたから?」



 オレが何とも言えない言い訳をすると、グィーテさんは、「ふうん」と。「確かに、貴様はフラン語を話しているし、理屈が壊滅的ということはない……」と呟いた。

 どうやらオレたちが喋っている言語は、フラン語というらしい。日本語ではないことは最初から気づいていたが、なぜ理解できるのか──オレが、この国で、作られたから、と考えられる。

 そもそもオレが日本語を話せて、聞いて理解できるのに、たとえば英語がそうはいかないのは、小さい頃から、日本語話者ばかりの環境で育てられてきたからである。母語定着は大体三歳頃と聞いたことがある。オレの場合、それまで日本にしかいなくて、日本語脳がしっかりできていたのだ。

 対して、今の体は──脳などがどういう仕組みになっているかは分からないが、この国で作られたものなら──この国の言語に、対応していてしかるべきである。

 そしてそれなら今のオレは日本語を話せるのかといえば──多分、片言になる。言語ごとに、使用されている音が違うからだ。アクセントもそうで、いずれも、言語が派生し分岐していく中で独自のものが生まれていった。それで、フラン語とやらに特化したオレは、それを話すための口をしており、他の言語を話すためには訓練が必要だろう。

 ただ、思考は日本語で可能だ。それは、オレが元の世界の記憶を保持しているから。コミュニケーションを取るための部分と、記憶を司る部分、それが異なるということだろう。同様に英語も、文法を思い出し文を紡ぐくらいならできる。

 グィーテさんは納得したようにうんうん頷き、「では次はこちらの質問だ。なぜ貴様は話せて、動ける? 貴様は生き物なのか?」

「質問は交代制だったんですか?」

「早く答えろ」彼は先程の杖をちらつかせる。そういえば、この人形には痛覚が搭載されているのを思い出す。大きさの問題なのだろうか、確かに、厳密なスケールは解らないがエマの『ザンダン』の倍近くはある。

 痛いのは勘弁だがどうにも方便が思いつかない。オレは目下、アリアかエマに会えることを目標として動くべきだ。今日家庭教師の仕事があるのかどうかは解らない、ないなら頼んでも連れていってくれない可能性が高い。オレはきょろきょろ部屋を見回す。昨日、アリアの部屋で確か持っていたのを見た、黒い肩掛けバッグが、壁に掛かっている。さて、どっちだ。これは、本人の失言を待つしかない。痛みは甘んじて受け入れる。



「答えないならとりあえず、梁に縛っておくぞ。私はもう、



 グィーテさんは、そう言った。来た、失言だ。これで何とかすれば、城まで連れていってもらえるだろう。最悪、縛られることを回避できれば逃げ出すこともできるし。

「えーと……銃の話をね、したいがためにこうなったんですよ。そう、──」

 オレは──杖でぶん殴られた。

 オレから見て右から左に。オレは椅子から落ちて床を転がっていく。

「なぜ昨日の授業内容と合致しているかは分かりませんが──」グィーテさんは、壁まで転がって停止したオレの頭を掴んで持ち上げる。「いいでしょう。アリア様の前で、きっちり弾劾することにします」そして、オレを例のバッグに詰めた。

 ……おお?

 回避成功?

「じゃあ、エマにも会わせてほしいんだけど──」

「勝手に喋らない。動かない。それを守れないなら縛って置いていきます。それから、エマ『様』です」

「…………」

 オレはバッグに押し込められ、大人しく揺られていく。側頭部が痛い。なかなか都合よくはいかないようだ。アリアのポーチの中を、少し思い出した。

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