萌えよ恋!!

染谷市太郎

前編 

 池田裕司は、クリーンベンチによって形成された無菌空間を凝視していた。

 ガラス窓に張り付けた実験手順を何度も確認しながら、チューブの中で金粉と試薬、そして目的の遺伝子を混ぜ合わさった目的物をピペットマンで吸い取る。

 慎重に、慎重に。息をひそめながら。白くて丸いフォルムの器具にピペットの中身を充填させる。

 蓋を閉め、銃のような形の器具パーティクル・ガンをクリーンベンチの床に静置した。


「ふぅ」

「うまくいった?」

「は、はい!」

 ガタガタッと椅子を暴れさせながら池田裕司の声は裏返る。

「裕司くんでもゆっくりやればちゃんとできるって証明できたじゃない」

「いやぁ、赤井先輩褒めないでくださいよ~」

 えへへ、と裕司はトレードマークであるゴーグルを外しながら頭を掻く。憧れ赤井美知留に褒められれば裕司はいとも簡単に破顔してしまう。

 その様子に赤井は隈のある目を伏せて微笑んだ。

「そうそう、教授が呼んでいたよ」

「え、まじっすか」

「実験中だから、少し待ってもらってたんだ。すぐ行った方がいいんじゃないかな」

「了解っす」

 裕司はクリーンベンチを急いで片付け、パーティクル・ガンは指定の場所へ保管する。射出するためのヘリウムガスはすでに充填させた。これでいつでも先輩方が使えるだろう。

「あ、そうだ。私はGINKYOU使いに行くから、教授に言っといて」

「うっす」

 小さく敬礼して、裕司は教授のデスクに走った。

 埃が立つから走るなと怒られながら。



「失礼します遠藤教授。池田です」

「ああ君かい」

 裕司を呼び出したのは教授本人あるはずだが、教授も忙しいので仕方がないだろう。

 なにせ遠藤教授と言えば、裕司が所属する大学一の変人、もとい天才と呼ばれる方だ。企業や他の大学と共同研究を複数掛け持ち、今も学会のための資料を作成していた。

 そんな教授と、あこがれの赤井先輩の元で学べるなどどれほどの贅沢なのか。裕司はかみしめる。

「この前のレポートなんだけどね」

「はい!」

 前回の実験のレポートのことだ。寝る間を惜しんでかなり頑張ったため自信はある。

 教授は骨ばったしわしわの手で、ヤギのようなひげを撫でた。

「うん、書き直しだね」

「ええ!?」

 がーん、と肩を落とした。

「まあいろいろ言いたいことあるけど、まず字はきれいに書こうね」

「はい……」

「あとは敬語と箇条書きをそろえること」

「はい……」

「それと文章は端的に書くこと」

「はい……」

 裕司はしおしおと枯葉のように縮んでいく。

「まあね、書いてあることは面白いし、きちんと文献を読んだってこともわかる。ただレポートは人に読ませるものだからね。きちんと誰の目に見ても書いてあることが分かるくらいでなきゃスタート地点には立てないよ。これは論文を書く練習でもあるからね」

「はい……」

「確か赤井くんはこういうの得意だったから、指南してもらうのも悪くはないと思うよ」

「うす!」

 裕司はうなだれるのも早いが復活も早い。

 早速レポートを教えてもらおうと立ち上がる。

「あ、でも先輩これから実験か」

「おや?今日は赤井くんは実験の予定はなかったと思うけど」

「え、GINKYOU使いに行くって言ってましたよ?」

「おかしいね。GINKYOUは今日は河合くんが使うはずだけど」

 GINKYOUとは大学が所有するスーパーコンピュータのことだ。この大学は農業関連が専門のため最新鋭と比べると型落ちだが、それでも学生から教授までお世話になっている素晴らしいコンピュータだ。

 特に遠藤教授の研究室は植物の遺伝子にかかわっているため、スーパーコンピュータとは切っても切り離せない。使用率でいえば、情報系の研究室とどっこいどっこいだろう。

「ダブルブッキングってやつですかね?」

「河合くんも急ぎの実験だったはずだし、ちょうどいい池田くんお使いを頼むよ」

「了解っす」

 裕司は赤井先輩を呼び戻すためスパコンまで走りだす。

 白を基調とした研究室を出る。そうすればすぐに裸の木目を見ることができる。

 このキャンパスは全て木でできている。鉄骨どころか釘不使用の木造だ。キャンパス大改築の際の建築科の努力の結晶である。

 使用された木材は全て特殊な防火用の加工がされており、鉄より燃えない、がうたい文句のキャンパスだ。さらに古来よりの建築方法を発展させたこの建物は地震をはじめとする災害でもびくともしない設計である。

 その建造には大学全体の研究室が技術を提供しており、まさに大学の顔と言って差し支えない。

 廊下に等間隔に設置されたモニタからの大学広告を聞き流し、木の香りが漂ってきそうな空間をまっすぐ進む。

 廊下には多種多様な研究室が面している。裕司が所属する分子生物学科、農地などの機械を扱う工学科、AIを活用する情報学科、生物の可能性を研究する畜産学科、植物学科、昆虫学科、微生物学科、などなどその他さまざまな(細分化されすぎとも言われている)学科の研究室がある。皆その分野では最先端を極めている。

 キャンパスは地上2階と地下2階。地下が全て研究室関連の施設だ。関係者以外は立ち入れないそこを、裕司は少し優越感を感じながら踏みしめた。

 裕司はこの大学の1年生。植物の研究者になりたくて、正確には赤井先輩と遠郷教授のもとで研究をしたくて、この大学に入った。遠藤教授の研究室は特に植物の遺伝子を扱っている。

 裕司による入学前からの熱烈なアタックのおかげで、1年生でありながら研究室に出入りし遺伝子組み換えをはじめとする技術を学ばせてもらっているのだ。

 しかし少しおっちょこちょいな面もあり、先輩が実験に使う試薬の配合を誤ることもしばしば。先輩方からすれば迷惑極まりないことだろうが、元の人懐っこい性格と努力家な一面からいつもレポート増量と雑用で許してもらっている。

 トレードマークのゴーグルは、おっちょこちょいな裕司が試薬で怪我をしないために先輩方が贈ったものだ。今では実験中は必ず着けている。

 整然と並んだ研究室を横目に、裕司はようやく温室への入口へたどり着いた。

 これがこのすばらしいキャンパスの短所でもあり長所でもある。目的地まで遠いのだ。

 学生証を機械に読み込ませ、2重の自動ドアをくぐった。

 その先にあるのは、東京ドーム2個分もの面積を誇る巨大温室。気温や湿度を操作するために細かく区画分けされた実験場が広がっていた。そして、中心にそびえるのが大変お世話になっているスパコン、GINKYOUである。設置面積を節約するために塔状に建てられている。

 この巨大温室型キャンパスこそが、この大学のすべてだ。

 巨大な温室を中心に、運動場のトラックのような形で教室と研究室の建物が周囲をぐるりと囲む。構造だけ見るとなにかの巨大なスタジアムにしか見えない。しかし立派な大学施設である。

 しかも、この巨大温室型キャンパスがこの大学の大部分を締め、残りの施設は農場、運動場などを除けばちらほらと建つ小さなビルくらいしかない。

 とにかく思う存分、しかも実地に近い形で実験できる場所が欲しい、という研究者の意向を100%以上反映(押し通)されたものが、このキャンパスだった。

 裕司はこれを呆れもするし、尊敬もする。

 しかしただ一ついただけないのが、先述の移動性の悪さだ。

 研究棟から温室への入り口は4つのみ。加えて温室内の移動は徒歩。一部傾斜あり。足元も悪し。

 学生だけでなく、ご年配の教授からも文句が出ているほどだ。

 もっとも、大学側は資金繰りに忙しく未だこの問題に着手できていないが。

 その代わりと言っては何だが、工学系の研究室が勝手にロボタクシーを運用している。実に自由な大学と言えよう。

 ちょうど靴を泥で汚している裕司の元にもロボタクシーが現れた。

『ご乗車になりますか?』

「いやイイっす」

 空車のロボタクシーに誘われたが、なんとロボタクシーは有料だ。なので金欠の裕司は断る。

『どこまで行かれますか?』

「大丈夫っす」

 しかしロボタクシーは日本語が苦手らしい。断りのいい、も了承のいい、も見分けられないようだ。日本語は難しい。

『台東区までですね』

「だから違うって!」

 しかも聞き取りも不十分らしい。危うく台東区まで運ばれそうになった裕司は慌てて断る。

 そもそも、ロボタクシーは農場の収穫物を運ぶための四つ足式運搬ロボのため、かなり乗り心地も悪い。たいがい荷物運びにしか利用されない。

『茅ヶ崎市までですね』

「ノー!!!」

 がしぃっと音声認識の最悪なロボタクシーにつかまれる。

「違うって!俺使わないって!」

 降りようとした瞬間。しかし温室が真っ赤に染まった。

 

 Beep!Beep!Beep!


「なんだ!?」

『緊急避難命令が作動しました。避難モードに移行します』

「へ?」

 ロボタクシーがなにやらつぶやいたかと思えば、荷台に乗せられ、走り出していた。

「うおぉぉうおぉぉっあぅんっっっ」

 傾斜にぬかるみに岩場に砂地。足場の悪さの宝庫を横断しながらロボタクシーは全速力で走っていた。平地でタイヤを回し、段差は四つ足を駆使して上り下りする。

 裕司はもはや手すりに摑まるしかできず、左右前後上下に揺さぶられる。振り落とされないように必死だった。

 シャッターが閉めかけられた温室の出入り口にスライディングで飛び込む。

『到着です。付近の責任者あるいは警備員の指示に従い避難してください』

「うおえぇぇっ」

 三半規管をぐるぐるにシャッフルされ気持ち悪さを吐き出す。

「おい、大丈夫か?」

「うっぷ、すみません」

 ハンカチを渡してきたのは、河合先輩だった。

「あ、河合先輩」

 おしゃれパーマの河合先輩。赤井先輩とは同期である。

「お前、赤井と一緒じゃなかったのか?」

「え?河合先輩こそ」

 裕司はハンカチで口を拭う。

 河合の問いに嫌な予感がした。

「まさか、まだ中に」

 すでに温室の入り口どころか窓までも非常用のシャッターに締め切られ中をうかがうことはできない。

 河合の顔は真っ青だった。

 そのときプツンと警報が止む。緊急事態が解決されたのか終了したのか、少なくとも状況は変わっているらしい。

「先輩、教授に確認しに行きましょうよ」

 警報が止んだということは避難もしなくていいということだ。

 研究室へ向かおうとした裕司。

 だが、廊下のモニタが一斉に切り替わった。

 映し出されたものは、いつもの宣伝広告ではない。

「赤井先輩?!」

「な?!赤井?!」

 見覚えのある隈の女性に裕司たちは驚愕する。

『キャンパス全域に告ぐ』

 画面内の赤井が口を開いた。

『この巨大温室は私、赤井美知留がジャックした。おとなしく私の指示に従わなければ、あらゆる研究結果を破棄する』

 静かな口調で告げられたそれに、二人は、いやこの動画を見ている研究者たちはわなわなと震える。

「そんな……」

 赤井先輩の凶行もさることながら、研究成果を人質に取られているという危機。これは研究者にとっては心臓を握られるよりも恐ろしいことだ。

「池田くん、行こう」

「ど、どこにですか?」

「モニタ室だよ」

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