全部忘れて、元の世界に戻って

菜花

第1話 怪物と少女

 その顔の無い怪物の唯一の娯楽は、両親に愛されてぬくぬくと過ごしているような人間を見つけ次第、異世界に引きずり込んで絶望に叩き落とすことだった。

 今まで何千何万ともいえる人間を不幸にしてきた怪物の次のターゲットは、小学生の少女、葵だった。


 少女がひと気のない道に入ったところで、猛スピードで走り寄る。自分でも原理は説明できないが、自分が通り過ぎた瞬間に人間は異世界に落ちるのだ。



 少女、葵はいつもように、いつもの帰り道を歩いていた。ただいつもと違ったのは、その日が葵の誕生日で帰ったら父と母、そして叔父が祝ってくれる特別な日だということ。

 ウキウキしていたから、後ろから迫りくる人影には気づかなかった。


 一陣の突風が真横を掠めた。


 そう思った瞬間、葵の立っていた地面が消えて葵は異世界への道に飲み込まれた。最後に見えた光景は、突風とともに通り過ぎたらしい人影がこちらをうかがっているような姿だった。



 葵が目を覚ますと、見知らぬ場所で倒れていた。月が大きすぎて日本どころか地球でもなさそうだということははっきり分かった。異常な光景にただただ絶句する。


 そんな葵を木の上から見ている存在がいた。異世界に引きずりこんだ、あの怪物だ。

 他人の不幸が主食のようなその怪物は、葵が怒ったり泣き出したりして取り乱すのを今か今かと待っていた。

 しかし怪物の見ていた葵は、突然何かに気づいたように辺りを探し回り始めた。

「誰かいませんか!? いたら返事してください! 出来ない状況だったら物音を立ててください!」

 人がいないかを確認している、にしては下のほうばかり探しているのが不思議だ。気が動転しておかしなことをしているのだろうと見当をつけたが、次に聞こえた言葉でそうではなかったと知る。

「おかしいな……。最後に人影が見えたから、あの人も落ちてきたのかもと思ったけど。あの人は大丈夫だったのかな?」


 それを聞いた瞬間、怪物は激しく動揺した。

 何万人異世界に落としたか、もう覚えていないけれど、その全員が異世界に落ちるとひたすら自分のことばかりだった。まあ当然だろうけど。日常が絶たれて今日からホームレスとか頭が真っ白になるだろうし。すれ違った怪物のことを思い出す人間もいるにはいた。けれど全員、怪物がここに連れてきた原因なのだと悟って思いつく限りの罵倒をしていたものだ。ただの事実だから反論するつもりもないけど。


 けれど、その少女は違った。怪物が原因とも思わず一緒に来ていたら大変だと心配してくれている。気遣ってくれている。危険な動植物も判断できないだろうに、ひたすら辺りの茂みを軽装備で探している。そんな感情を向けられたのは、生まれて初めてだった。


 考えるより先に動いていた。


 人間を見下していた怪物だが、そのままの姿で少女、葵と会うのはやはり憚られた。やむなく少女受けの良さそう容姿に変化して葵に近づく。


「あ、あの……」

「あ! 無事だったんですね!」


 後ろから声が聞こえて振り向いた葵だが、そこにいた人物の容姿に驚かされた。 

 金髪碧眼という絵本に出てくるような王子様そのものだった。年齢は葵より5歳くらい上だろうか? 16、17ほどに見える。少年と大人の中間くらいの絶妙な美に少しの間見惚れてしまう。


「あの……?」

「はわ! すみません! ええと、どこか怪我はありませんか? 痛いところは?」

「大丈夫、です」

「そうなんですね、よかったあ……。あ、私も怪我はないです。それにしても困りましたよね。ここ、どこなんでしょう?」


 コミュ強なのか気さくに話しかける葵とは反対に、怪物は額に脂汗が浮かんでいた。


 どうしよう。何となく話しかけちゃったけど、俺、人と話すの初めてじゃん。

 何万年も生きていた。人間と一方的とはいえ関わってきた。だから言葉を話すのは出来る。だが会話となると、ずっとぼっちだった存在には厳しい。

 突然あ、とかう、とか口ごもる怪物を前に葵は察した。


 やっぱり来る時にどこか痛めたのかも。男の人って女の人相手に見得を張ること多いし。ここは心身ともに健康な自分が誘導するべきだ。


「突然こんな環境で平気でいられませんよね、私もです。とりあえずどこか休めるところ探しましょう。あ、暗いから足元気をつけて」

 ごく自然に葵は怪物の手を握った。もちろん人間と会話も初めてな怪物は接触も初めてで、小さくて柔らかくて温かい手の感触に形容しがたい感情が怪物の中で暴れる。どういう訳が初めての感情なのに、ちっとも不快ではなかった。


「どこか、小屋とかないかな……」

 怪物の手を引きながらそう呟く葵を見て、怪物はそっと魔法を発動させた。

「……あそこ」

「あ! あんなところに山小屋っぽいのがある!」

 怪物が即席で作ったとも知らず、葵は小屋を見つけて大喜びだった。


 小屋にはテーブルも椅子もあった。暖炉は煌々と燃えているし、食べるものもまるで今から誰か来るのが分かっていたかのように用意されている。それなのに小屋の中には誰もいないし、生活感は一切無い。


 葵は不思議だなと思いつつ、でも地球の常識で判断しようとするのも変な話だと思い、とりあえず目の前の少年を気遣う。

「ちょっと確認させてくださいね」

 そう言うと葵は怪物の全身をぺたぺたと触る。怪物は少女に良いようにされている自分が不思議と嫌ではなかった。むしろ何故か興奮していた。

「うーん、外傷は本当にどこにもないんですね……あ! ごめんなさい勝手に触っちゃって。私、左半身が不自由な叔父がいて、よく叔父の世話をしているから癖で……」

 怪物はそれを聞いて何故かホッとした。妙に異性の扱いに慣れているような気がしたが、そういうことだったのか。


「あとは身体の中に問題がある場合とかだけど、今の私にはどうにも出来ない……」


 しょぼんとする葵を見て慌てて慰める。


「ど、どこも痛くないから。ちょっと、異世界来たショックで、普段通りでいられなくて……」

「あ、やっぱりここ、異世界なんですね。……私達、どうして異世界に来ちゃったんでしょう?」

 自分が原因だ、と怪物は言えなくて固く口を閉じた。何故か居たたまれなくてそわそわしていると、急に鼻がムズムズしてくしゃみが出た。……人間の身体を取るとこれだから……。素の状態なら無敵同然なのに、人間になると途端に強度も耐久性も人間並みになる。不満だが、葵の前で素の姿に戻りたくはなかった。


「寒いですか? どこかに毛布はないかな」

 怪物はそこまで気が回らずにいたから、小屋の中に毛布まで作っていなかった。やむなく葵は自分の上着を脱いで怪物に与えた。

「え、これは君の……」

「私は寒くないから平気です。元の世界に帰るためにも、体調は万全にしておきましょう? 貴方の両親も待ってますよ、きっと」


 それを聞いた怪物の表情が目に見えて不機嫌になった。


「俺に家族なんて……いない」

「え」

「生まれた時からいなかった。ずっと一人で育った。世の中親のいるやつが大多数なのに、不公平だ」

 親さえいれば、一人じゃなかったら、自分だって人の不幸を楽しむような性格にならなかった。そう怪物は思っていた。

 やさぐれる怪物を前に、葵は何を思ったのか、怪物を優しく抱きしめ、ぽんぽんと背を叩いた。


「よしよし、よしよし」

「あの……一体なにを……?」

「私、この間の宿泊学習でもこれやったんです。ホームシックで泣いた子がいたので。知ってますか? 人はハグすると安心するんですよ」

「いや、俺は……」

「よしよし、よしよし。もう大丈夫ですよ、私がついてますから」


 葵は一晩中怪物をあやしていた。

 あやされていた怪物は気づいてしまった。


 葵はもしや俺の母になるかもしれない少女では?



 一夜明けて、まだ眠そうに目をこする葵を前に、忠犬のように傍に控える怪物。

「ふわああ……ちょっと眠いです。あの……あ! ごめんなさい、私自己紹介もしてませんでした!」

 こちらを呼ぼうとして名前を知らないことに気づいたのだろう。それなのにまるで自分が粗相をしたのかのように言う。

「私、大沢葵といいます。11歳です。あ、アオイが名前で、オオサワが名字です。お兄さんの名前は?」


 怪物に名はない。その事実に耐えられなかった怪物は、一世一代の演技を始めた。


「うっ頭が……!」

「え!?」

「すみません、実は異世界に来たショックで記憶が所々抜け落ちていて……自分の名前も思い出せないんです……!」

「そんな! 気づかなかった……」

「ただ自分のいたところがろくでもない場所だったのは覚えてる……。そんなところでつけられた名前なんて惜しくない。だから葵が名前をつけてくれませんか?」

「え」


 葵は動揺した。何故なら自分のネーミングセンスが壊滅的だからだ。

 以前、友人と子猫を拾ったことがあった。母が猫アレルギーなので葵のところでは飼えず、子猫は友人のところで引き取られることになった。

『葵ちゃんも一緒に拾ったんだもの。名前は葵ちゃんがつけて』

『わー、いいの? えーと、じゃあね……あ、この子オスなんだね。じゃあ』

『決まった?』

『チンチン! 響きが可愛くない?』

 その時の友人の絶望した表情は忘れられない。子猫は結局ポコになった。


 動物の名前でも許されなかったのに人の名前……だと?

 どうしよう、自分で考えてもらうっていうのは……いやでも記憶失っている人には無理だろうから……。何か、何かないか。元の世界で良さげな名前。ここに来る前に何を見ていたっけ。あ。


「オリオン、なんてどうかな?」

「……もしかして、冬の星座?」

「うん。私の一番好きな星座なの」

「素敵ですね。じゃあ俺は今日からオリオンですね!」


 喜んでくれたらしい。ホッとする。さてこれからどうするか。


「この世界、他に人いるんですかね? 小屋にいてもしばらくは持つだろうけど、ご飯も食べたら無くなっちゃうし、何よりここにいても帰る方法は分からないし……」


 怪物ことオリオンならどちらも何とかなるのだが、それを言ったらどうしてそんな力を持っている? となりそうで言えなかった。


「そもそも家にこもりっきりは良くないです! さあ探検しましょう!」

 葵がぎゅっとオリオンの手を握って先導する。オリオンは最初は冷めた目で見ていた。


 ふん。初めての体験に昨夜は血迷ったことを考えてしまったが、この神にも等しい自分が少女に言い様にされるなどありえない! 絶対に少女に屈しない!

「異世界も冬なのかな。ちょっと寒いですね。私、持ってた水筒にホットジュース作って入れてきたんですよ。オリオンさん先にどうぞ。ふーふー、はい」

「ば、ばぶぅ……」

「え?」

「いや何でもない。いただきます」


 オリオンは葵にふーふーしてもらったジュースを飲む。飲みながら考える。

 数多くの人間を不幸にしてきた自分なのに、どうしてこの少女にはこうまで心動かされるのか。来る前の友人との会話だけで判断してしまったが、この子の家庭環境ってどうなってるんだろうか? 魔法を使って記憶を覗く。


 葵が叔父らしき男の手を引いて歩いている様子が見えた。ああ、例の半身麻痺の叔父か。

『叔父さん、映画楽しかったね!』

『うん。作画も良かったし動きも迫力があった。この迫力は映画館で見てこそだからな。楽しかったよ。でも……』

『なあに?』

『お父さんお母さんの頼みだからって、無職の叔父と二人で映画なんて君が大変だろう。聞こえなかった? ああいうのをヤングケアラーって言うんだねって言われてるの』

『知らない人の言うことなんかどうでもいいよ』

『よくないよ。評判は大事なんだから。次は友達と見に来なさい』

『どうして? 私は叔父さんと映画を観るのが楽しくて、叔父さんも楽しいって言ってくれて、とっても嬉しかったのに。ダメなの? ダメなの?』


 その夜、この叔父――浩二と葵の父親、一也がこの件で言い争っていたのを葵は聞いていた。


『兄貴……俺の身体に責任を感じているのは知っているよ。自殺未遂の原因はあんたにも一因があるんだもんな』

『両親は長男さえいればあとはどうでもいいって考えで、俺も子供の頃はおかしいと思わなくて、いつも薄汚れた服を着て生ごみを漁っているお前の姿は全部俺への嫌がらせでやっていると思ってたんだ。汚い消えろって暴言も一回二回じゃなかったな。お前が陸橋から落ちるまで言っていた……』

『両親もいない今、もうこの問題は兄貴と俺だけの問題だ。姪まで巻き込むなよ何考えてるんだよ!』

『俺も妻も仕事が忙しくてお前に構ってやれない。お前は外に出たがらない。だからせめて無邪気な子供と遊んでくれたらと』

『ああ、あの子は良い子だよ。良い子すぎて怖いくらいだ。なあ中学からは全寮制の女子高に行かせてやれよ。そのほうがあの子のためだ』

『それは……目の前から消えろってくらいあの子が不愉快ってことか?』

『そうじゃない、そうじゃないけど……』

『葵はお前を見て将来看護師さんになりたいって言ってるんだ。偉いだろう? 嫌ではないなら付き合ってやってくれよ。どうせ暇なんだろ?』


 叔父は離れの部屋に戻っていった。夜食を差し入れに行った葵は叔父の独り言を聞いた。


『年上趣味で近親地雷の俺さえ信者になりたいって思わせるんだぞ、将来どうなるか分かったもんじゃねえよ……』


 見終わったオリオンは納得した。なるほど、葵には魔性の女の素質があるのか。だが何万年も生きた自分にそんなものが効くはずがない。慣れさえすればどうということはない!

「オリオンさん、ぼーっとしてちゃ危険ですよ。ここ道がデコボコしてるから。私が引っ張ってってあげますね」

 くっこの俺が少女なんかに、少女なんかに……やだ、背徳感が快感……。


 かくして葵とオリオンは北にある街まで楽しく歩いた。

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