超自傷行為

そうざ

The Super Self Harm

 人体は結構、頑丈に出来ている。

 その日、私は理工学部研究棟の屋上から飛び降りた。五階建ての研究棟は大学内で最も高層な建物で、キャンパス中央の広場に面しているからよく目立つ。

 コンクリート敷きの地面に落ちた私は一息突いた後、口や鼻や耳から鮮血を滴らせながら自力で立ち上がり、再び研究棟の屋上へと向かった。

 階段を上る途中、擦れ違った学生達が私を見て顔を引き攣らせていたので、ご機嫌よう、と適当な愛想を振り撒いておいた。

 私はつい先日、失恋をした。そして今、私は別れた男に見せ付けようと、奴の通う大学で〔超自傷行為〕の真っ最中である。


               ◇


 私は、幼い頃から自分の体に並々ならぬ関心を持ち続けて来た。

 それは、一般の人々が体に抱くような――健康だの、運動能力だの、性感帯だのとは全く次元の違う指向で、私自身を様々な奇行へと誘って行った。

 記憶に残る最も古い奇行は、物心が付く前に始まったと思う。きっかけは忘れてしまったが、ある日突然、私は全身の黒子の位置と数を把握したいという猛烈な衝動に囚われた。

 鏡を巧みに使い、背中は勿論、臀部や陰部に至るまで確認して数え上げ、その位置と大きさを克明にノートに記録して行った。毎日のように記録を取っていたが、計算を間違えたか見落としがあったかで数が合わなかったり、今迄はなかった所に新たな黒子を発見したりと、全く飽きる事を知らなかった。

 他にも、彼方此方に痣や染みを見付ける度、それをベージュ色のクレヨンで塗り潰したり、髪の毛や爪や耳垢を日付入りの壜に保存したりと、体に関する病的な愛着を持ち続けた。今にして思えば、この頃が私と私の体にとって最も幸せな蜜月だったかも知れない。

 やがて第二次性徴期を向かえた私は、はっきりとした体の叛乱に直面し、当惑した。腋や陰部の見苦しい発毛、異性に阿るような体型の変質、そして悪性の疾病を彷彿とさせる初潮を目の当たりにした私は、生まれて初めて絶望の感覚を知った。飽く迄も奴隷に過ぎないと考えていた体が、主である私の意思とは無関係に独立独歩の火の手を高らかに上げたのだ。

 これまでは、日常的に起きる生体現象は体に内包された誤差のようなもので、所詮は私の支配下に納まっているのだと深い考えもなしに高を括って受け入れていた。しかし、一定の周期に従って訪れる月経に至っては、私自身とは全く別様の大いなる意志によって計画された現象としか思えず、決して素直に協調出来る筈もなかった。

 その上も、相手は物理的にも精神的にも、不快を強いて来るのだから――。

 やがて私の中に、体に対する憎悪が芽生え始める。

 嘗ては体と親和的だった奇行が、加速的に真逆の自傷行為となって収斂して行った。リストカットの虜となり、手首に、腿に、乳房に、全身に刃を滑らせた。道具もカッターナイフから柳葉包丁、糸鋸、千枚通しまで用いるようになった。

 自傷の刃は、外皮への悪逆だけに留まらず、拒食、過食を繰り返しつつ売春にも手を染め、体の内側からも傷付け抜いた。

 因みに、タトゥーやピアッシングを一切試みなかったのは、それがファッションという肯定的イメージを喚起させるものだからで、薬物に手を出さなかったのは、それが体以上に精神――つまり主である私自身へと如実に影響を及ぼすものだからだった。

 もしかしたら、こんな自傷の日々が皮肉にも私の体を超耐性体質に変質させたのかも知れない。今の私は、体に対する信念とも言えるような嫌悪に完全に支配されている。


               ◇


 全身複雑骨折の為、文字通り階段を上るのに骨が折れた。

 屋上に辿り着くと、やけに視界がぼやけている事に気付いた。額から流れる血液が目に入ったようだ。否、逆に目底の方から吹き出しているのかも知れない。どちらであろうとも視界が真っ赤に染まったりはしないのだな、と妙な発見に笑いが込み上げて来た。

 慣れた動作で柵を越えると、既に血で汚れた落下予定地点に遠巻きの人集りが見える。ダイブを開始した頃に比べれば、人の数は徐々に減っているようだった。

 私は、血液の目隠しを擦りながら野次馬を見回した。その中に元彼の姿はない。未だ騒ぎを聞き付けていないのか、とばっちりを怖れてさっさと逃亡したのかも知れない。

 その約一秒後、鈍い音と共に私は再び地面に横たわった。

 私の歪んだ視界に、何やらメモを取って観察している教授共、携帯電話で撮影し捲くる学生共、血飛沫が飛んだらしく、やぁんも~、と跳んで除ける女子学生も居た。

 程なく、私が低血圧の人間の寝起き宜しく緩慢な動作で置き上がろうとすると、地面に出来た血溜まりが微妙に凝固し始めていたようで、貼り付いていた髪がベリベリと音を立てて抜け剥がれた。

 私はまた研究棟の出入り口に向かった。今頃になって学生生活課の職員らしき連中が駆け付け、目の前に立ちはだかった。だが、どう対処して良いのかが解らないようで、直ぐ後退ってしまった。

 もう何度も通っている研究棟の廊下や階段は、血液やリンパ液、その他諸々の体液に塗られ、どす黒い赤絨毯を敷いたようになっていた。着衣のセーターやジーンズもすっかり同色に染まっていたので、私の姿も床に同化して見え辛くなっているかも知れない。

 さっきから世界が斜め四十五度に傾いたままなのは、脳にダメージを負ったのか、それともいつの間にか片方の眼球を落としてしまった所為だと思っていたが、どうやら首が折れ曲がっているからのようだ。歩を進める度にカクン、カクンと虚ろな音が骨伝導で聞こえて来るのは、顎の関節が外れ掛かってブラブラになっている為だ。こんな状態になっても冷静に体の損傷を把握しようとする自分が可笑しくて堪らない。

 屋上の風が、ぱっくり開いた後頭部の亀裂から私の脳を優しく撫でるのが判った。否、脳自体には触感がないらしいから、気の所為だろう。


               ◇


 屋上の縁に立つと、地上の野次馬は更に減っていた。

 私が一回目のダイブをした時、目撃者達は間違いなく私を『自殺者』や『事故の被害者』だと直感しただろう。しかし、私が何事もなかったように立ち上がって研究棟の中に消えたので、彼等は困惑しつつもその認識を『自殺未遂中の自殺志願者』へと変更せざるを得なかっただろう。やがて、私が一回目と全く同じ状況でダイブしてまた再び立ち上がるのを見て、一挙にパニックに陥った事だろう。

 更にその後、私が止め処なくダイブを繰り返している状況に対し、彼等は各人各様の解釈を試みたに違いない――アクション映画の撮影か、難解なパフォーミングアートか、新手の宗教的儀式か。次第に崩壊しながらも、それでいて一向に死に至らずに奇怪な暴挙を繰り返すこの人物が生身の存在とは到底考えられない。作り物か、幻覚か、そもそも人間ではないのか――と。

 そんな混乱も、早々に潮が引いたようだ。眼前の出来事が一体何を意味するのかという結論を棚上げしたまま、決して自分達の日常生活に多大な影響を及ぼすような非常事態の類ではないと判断したのだ。人々が対岸の火事と見限ったお蔭で、警察や救急車を呼ばれなかったのは、私にとって幸いな事だった。


               ◇


 その時、背後に人の気配を感じた。気配を察知するといった繊細な感覚が未だ自分に残っているのは不思議だった。

 振り返ると、私を元彼が青い顔で立っていた。

 ある種、感動の一場面かも知れない状況に置かれているのも拘らず、私の中に何の感情の動きもなかった。かと言って、嘗ての恋人にこんな無様な姿を見られて恥ずかしいといった気持ちも起きない。

 この男と交際を始めたのは、奴が自称サディストと豪語している事を知ったからだった。この男を私の自傷装置の一つとして恒常的に確保したい――それだけの理由で私は奴を誘惑した。

 初めての夜、一糸纏わぬ私の体を見た奴は、激しく顔を引き攣らせた。至る所に刻印された傷跡の痛々しさ以上に、全身から発せられる妖気にも似た自傷の臭いに面食らったようだった。私は奴を誤解していた。奴の性癖は、単に精神的優位に立ちたいというマッチョイズムの亜流に過ぎなかったのだ。

 私はマゾヒストではない。打擲された体が醸し出す肉体的苦痛は、決して私自身に実存的な快感を与えない。私は、苦痛に平伏す己の体を冷静に客観的に凝視していたいだけなのだ。己の体に純然たる肉体的責め苦を与えて観察したいだけなのだ。実感ではなく、客観に徹したいのである。

 私の望みを貫徹出来る器でないと判った以上、私は奴に何の関心も示せなかった。幻滅した私は、当然の事ながら奴を振った。

 奴は私に取り縋って来た。君はこれまでさぞかし大変な思いをして来たんだね、可哀相に辛かったろう、寂しかったろう、僕は君の力になりたい、僕は君を救いたい、云々――。

 自分の吐いたステレオタイプの甘言に酔い痴れている奴に辟易となった私は、或る計画を立ち上げた。私の望む行為がどういうものであるのかを理解させ、奴がもう二度と私に近づこうと思えなくなる〔超自傷行為〕と名付けたダイブを決行したのだ――否、それはダイブの決行場所の選定理由ではあり得ても、動機の核心を突いてはいない。私は、人智を超える程の高揚感を味わえる斬新な自傷行為をずっと欲していた。奴は〔超自傷行為〕の具現化に当たって偶々そこに存在していた引き金に過ぎなかったのだ。

 私は、ほんの悪戯心で元彼の方へ駆け寄って縋るような仕草を演じてみせた。その拍子にグラグラの下顎が外れ落ち、屋上の床で渇いた音を立てた。奴は奇声を上げ、転がりながら階段を逃げ去った。


               ◇


 眼下には平穏無事な日常が横たわっている。既に両の眼球を紛失した単なる洞の眼窩でも、何故か景色が認識出来た。

 もしかして、私はとっくに死んでいるのだろうか――不意に素朴な疑問が頭を擡げた。

 胸の鼓動は感じられない。体中の血液がほとんど流出してしまい、全身にこびり付いた血液ももうカピカピに凝血している。固まったそれが粉状になってサラサラと風に舞って行く。

 次のダイブでもし首がもげれば、流石の私も死に至るだろうか。

 しかし私には、たとえ脳味噌が弾け散っても死なない確信があった。最早、死という端的な救済は訪れないかも知れない。絶望とも全く違う種類の感慨が去来した。

 私はこれまで自ら命を絶とうと考えた事は一度もない。このダイブは飽くまでも自傷行為なのだ。

 自傷行為なくして私は生きられない。

 自傷行為の為に私は生きている。

 自傷行為こそ最高の生き甲斐。

 死んでしまっては自傷行為を続けられない。

 慣れた仕草で手摺りを越えようとした時、股間から独特の臭いを発する何かが滴り落ち始めた。

 ものだった。

 この期に及んでも体は負けじと自己主張をしているのか。私は堪え切れずに腹の底から笑った。実際には隙間風のようなひゅうひゅうという音が咽喉の奥から微かに発せられただけだったが、その振動で眼窩の内側に溜まっていた血液混じりの涙が零れ落ちた。

 一瞬にして、私の中に悲しみとしか言えない感情が込み上げた。単なる物理現象に堕していた落涙が、驚くべき事に私自身に影響を及ぼしたのだ。体はその原型を失いつつも未だ生きているのだ。途端に体が愛おしくなり、ぶら下っているだけの両腕で精一杯、胴体を抱き締めてやった。

 思えば、私と共に存在してくれているのは、最早この体だけなのだ。この二十余年の間、私は体に近親憎悪にも似た激情をぶつけながらも同時に愛着を抱き続けていた。何の因果か、は終局の見えない闘いに挑み合い続けた挙げ句、同志とも言える唯一無二の間柄になっていたのだ。

 この〔超自傷行為〕の行き着く先に、死ではなく、の完全なる乖離が待っているのだとしたら、その時、私は初めて体に親密さを持って対峙出来るかも知れない。

 私は、祈るような気持ちで通算七回目のダイブを試みた。

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