焦がれるように愛されたい ~天邪鬼女子と腹黒策士のやんごとなき婚活事情~

宇月朋花

第1話 初空

「え!?いや、お嬢はまだお休みで・・・」


廊下の奥から誰かの大きな声がする。


今日は朝から父親は接待ゴルフに出かけているので、あれは父親付き運転手の友枝の声ではない。


郊外の一等地に大きな屋敷を持つ有栖川家には、常に父親の部下たちが出入りしており、家政婦もいるので無人になることがまずない。


昼夜を問わず来客がやって来る家なので、話し声が途絶えることはほとんどなく、有栖川家で暮らすようになってからどんどん神経が図太くなっていったこずえは多少の話し声では目を覚まさない。


それでも僅かに意識を浮上させたのは、聞こえて来た男の声がよく通る野太いものだったせいだ。


垂水?月見山?それとも最古参の西代だろうかとぼんやり考えているうちにまた眠気が襲ってきて、梢はそれに逆らうことなく意識を手放した。


そして、次に目を覚ましたのは、誰かの手のひらの感触に気づいた時だった。


昨夜は父親の同伴で財界のお偉方との会食だったせいで、帰宅したのは1時過ぎ。


乾杯の後はお酌係に徹していたが、それでも勧められれば断れず、上質な日本酒を数杯飲んだ。


シャワーを浴びて早々にベッドに潜り込んだけれど、3時近くになっていた気がする。


有栖川家に出入りする人間がどれだけいようと、妙齢の娘の部屋に無断で入って来る人間は限られている。


父親と兄弟、そして一度のアラームで起きれた試しのない梢を叩き起こすべくやって来る家政婦と、父親の部下である昔馴染みの乾。


両手に余る人数の面々を頭に思い浮かべながら、この手の持ち主は誰だと寝起きながらに推理する。


まだ重たい瞼は持ち上げられない。


父親の手はもっと分厚くて力任せで、最初に出会った時は頭がもげるのかと思うほどわしゃわしゃにされた。


兄弟たちの手はもう少し遠慮なしに頭を撫でる、ただ一人を覗いて。


家政婦と運転手の乾はまず声を掛けてから肩をゆすって来るので、彼女でもない。


兄弟の誰かが気まぐれでこんな風に撫でているのだろうか。


髪の隙間を縫う指の腹が耳の後ろや項を擽っては遠ざかっていく。


丁寧にブローしたとは言い難い寝ぐせだらけの髪の手触りは絶対によくないはずなのに、飽きもせず繰り返し触れる温もりは、まるで愛おしむよう。


誰に似ているかと言われれば、今はもう儚くなってしまった有栖川の妻だろうか。


それにしたって起こすでもなく人の髪ばっかり撫でて一体何なの・・・


そういえば一人今日の午後から家に顔を出すと言っていた人間がいた。


彼が何かの気まぐれを起こしたのだろうか。


「・・・・・・乾・・・?」


短く父親の部下の名前を呼べば。


「梢」


はっきりと耳元で名前を呼ばれた。


「!?」


途端、弾かれたように肌が粟立って一気に思考が覚醒した。


この部屋で聞こえるはずのない人の声がした。


それも間近で。


タイムラグなしに目を開けた梢は、次の瞬間大急ぎで目を閉じる羽目になった。


なぜなら隙間5センチほどの距離から、彼がこちらを覗き込んでいたからだ。


寝起きとは思えない速度で心臓が早鐘を打ち始める。


妙齢の女性の部屋に、しかも部屋の主が就寝中に、我が物顔で入り込んで堂々と居座って挙句の果てに髪まで撫でた不届き者に向かってかすれ声でクレームを投げた。


「勝手に入って来ないで、颯!」


恐らく少し前に聞こえて来た押し問答の声は、幸徳井颯こうとくいはやての突然の来訪によるものだろう。


来訪の目的は確かめるまでもなく、毎回梢だ。


梢は就寝中だと伝えられて、しばらく来客用の応接で時間を潰した彼が暇を持て余してここまでやって来たのだろうということは、容易に想像が出来た。


梢の部屋には鍵が付いているけれど、兄弟げんかをした時以外、施錠したことは一度もない。


梢が入室を拒むような相手はこの家にはいなかったし、施錠の必要性も感じたことが無かった。


が、それをいま生まれて初めて死ぬほど感じている。


乾が居たら止めてくれただろうが、この家で幸徳井颯にたてつける人間なんて存在しない。


怒っているのは無断入室された梢のほうなのに、その倍は不穏な空気を纏った颯がギラギラと瞳に怒気を纏わせてこちらを射貫くように見つめて来る。


「永季や舞子さんたちはともかく、どうして乾の名前がここで出てくるの?」


「・・・なにを怒ってるの・・・?」


「梢、質問に答えて。乾はこの部屋に入ったことがある?」


梢と乾の付き合いは、颯との付き合いよりもずっと古くて長い。


梢が、有栖川の苗字を手に入れた時からずっと彼女は側に居るので、ある意味もう一人の家族のようなものだ。


父親や兄弟からの信頼も厚く、もちろん梢だって父親の部下の中では一番彼女を頼りにしている。


「・・・あるわね。朝起こして貰うから・・・あ、いつもじゃないわよ、朝早い時とか・・・」


とりあえず答えはちゃんと口にしたのだからそろそろ離れて貰えないだろうかと、目の前のダークグレーのスーツの胸を軽く押してみる。


これでは起き上がることも出来ない。


けれど、颯は微動だにせずこちらを見下ろしたまま言った。


「俺は聞いてないよ」


「どうして言う必要があるの?っていうか、なんで勝手に人の部屋に入ってんのよ」


「乾はよくて俺は駄目なの?」


「駄目に決まってんでしょ。兄さんたちだってさすがに寝てる妹の部屋にずかずか入って来たりしないわよ、永季兄さん以外は」


色々と規格外の長兄は、ひたすら我が道を突っ走っており、現在彼の飼い主でもある颯は誰よりもそれをよく理解しているはずだった。


「・・・俺の何が駄目なの?」


「颯は家族じゃないでしょ?身内にだって寝起き見られるのはちょっと嫌なのに・・・応接で待ってて。着替えるから」


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