バルーン

梅緒連寸

⬜︎

もう歩くのをやめたいと思っているのは、本当はどちらなんだろう。

こどもの私の手を引いて、行き先の知らないバスに乗って、こんなにも寂しい浜辺に連れてきたのは私の母だ。

相手が小さなこどもでも、ずっと手を引きつづけるという行為は疲れる。

私も小さなこどもだから、ずっと歩きつづけていると疲れる。

2人だけの行軍だった。空は水平線の向こうまで重く白んでいて、どこに目を向けてもなんにも面白くない。

私たちの頭上を飛び去りながら、みゃあみゃあと鳥が鳴く。海の鳥は目が怖くて嫌いだ。どうせ同じようにみゃあみゃあ鳴くなら猫に出会いたかった。


まだ夏が来る手前、涼しく心地の良い季節なのに浜辺には人気はぽつりともない。

人気はないが匂いがあった。潮の匂いや、陽に晒された砂の匂いや、干からびた蟹が砕けた匂い。

歩いていく途中、ぱんぱんに膨らんだなにかが波打ち際に転がっているのを見つけた。緑色と黒の斑点。近付いてよく見ようとしたけれど、母は私の手をきつく握りしめたままだった。


「考えなしにあんな事をするから、こんな田舎にも感染者が出るんだわ」


母はゆるやかに髪を撫でる風の中、ボソボソと呟いていた。

ぱんぱんに膨らんだそれは、テレビで見たお相撲さんにちょっと似ているなと思った。


都会ではたくさん病気が流行っている。

そもそも都市というものは、多くの人たちの病気を寄せて集めて出来上がるものなのだと父は言っていた。

病んだ人たちが病んだ都市で暮らしていき、そうやって少しずつ少しずつ大きく育てていくゆりかごなのだと。

健常と呼べる人はあまりに僅かで、むしろ異端的で、だから誰も恥じ入る必要はなく、誰もゆりかごから出る事もなく、此処が墓場になるのだと。


だから、早く逃げようって言ったじゃない。


膨れ上がった父を押入れの中に閉じ込める時、母は震える声でそう返事をしていた。


靴の中に入り込んできた砂が、あっという間に土踏まずが埋まるくらいにたくさんになり、私は立ち止まって靴を脱ぎ、逆さまにして残りの砂を捨てた。

小さく埃が立つ。青くもなければ澄み切ってもいない海面がギラリと反射光の一閃で私の目を眩ませた。

もう、いいのだと思った。


「もういいよ」


遠く背中の後ろに残してきた港町を振り返っていた母は、驚いた表情で私に顔を向けた。


「もういいよ、お母さん」

そういえば、この浜辺を歩き出してからの何時間めかでやっと私は口を開いたのだ。

いや、待てよ。もっと長く喋っていなかった気がする。

いつからだろう。3日前か、1週間か。

何故かは分からないのだけれど、私は今の今までことばを忘れていた。

母の顔が突然クシャリと歪む。笑ったかのように目尻に皺が出来る。

涙は無いけど、泣いているのだと思った。

「そうね。もういいわね」


私たちは手を繋いだまま、太陽を背にして海の正面へと立った。

ぱんぱんに膨らんだ私の手を、母はずっと離さず握りしめていたから、そこだけが火傷でもしたように熱い。

ゆっくりと足を進めた。冷たい海水が私たちのくるぶしを濯ぐ。

母の髪が風にさわぐ。記憶はそこで終わる。

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バルーン 梅緒連寸 @violence_

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