死願祭

書物屋

第1話 転落

 参道の五段目を踏み外して体勢が崩れた。

 肩からすり抜けた学生鞄が、夕雨の石段を転げ落ちて行った。


 教科書のぱんぱんに詰まった鞄は転がる転がる。

 転がり跳ねて、転がり跳ねて、中段でぱっと消えた。


「消えた?」


 僕は錆びた手摺に縋りつき、身体が前につんのめるのを堪えた。

 寝不足の目をこすり、消えた鞄を探す。



 廃寺の狭い石段なので、斜面に咲き揃う彼岸花の群生に入り込んでしまったのかと思ったが、細い茎の隙間に目を凝らしても、鞄は見当たらない。


 石段下の歩道まで視線を長く滑らせると、住宅地との境に立つ地蔵と目が合った。

 薄ら寒い山風が止み、供えられている風ぐるまの羽の色が二色に分れた。



 狐につままれたような気分で、僕は周囲をきょろきょろと見回した。

 小高い雑木林には、火事の見張り場だった名残の半鐘以外、何もない。


 心臓が早鐘を打ち、僕は手摺を掴んだまましゃがみ込んだ。



 また健忘だろうか。


 ため息を吐くと、青臭い香りが鼻から抜けた。

 舌の上にぼろぼろとした感触があったので、指先でつまんで見ると、赤い花びらが出てきた。


 なんだこれ? 


 ああ、さっき食べた彼岸花か。


 枯れた手水舎の周りにも、思いがけず満開だったな。

 学校帰りの漠然した空腹で、一輪摘んだ。



 唾液に濡れた花びらの色が、七か月前に手首を切った母の鮮血とふいに重なり、軽い眩暈がした。

 一瞬だけ戻る気配のあった味覚も、吐気の波に流されてしまった。


 慣れない近道なんてするものじゃないな。


 最短距離だろうと駅から廃寺の雑木林を通り抜けてみたけど、やっぱりいつもの家路にしておけばよかった。



 遠くから車輪の音が近づいてきて、雑木林の向こう端から単行列車が流れ出てきた。

 列車は山裾に広がる蕎麦畑と住宅街とを裁断するように走り、温かい光の線となって薄闇の向こうへ吸い込まれていった。


 白い絨毯のような蕎麦の花が、走行風に揺れるのを眺めていると、住宅街の公園から、十七時のオルゴールが流れてきた。


 僕は夢うつつな頭で詩をなぞる。



遠き山に日は落ちて


「帰らなきゃ」


 僕の両足は立ち上がろうとしたが、右手が手摺を放した。

 天と地が反転した。



星は空を 散りばめぬ


今日のわざを なし終えて


 痛みは感じないが、僕の身体は石段を転げ落ちていた。



心軽く 安らえば


風は涼し この夕べ


 さーっと幕が下りるように、意識が暗くなってきた。



いざや 楽しき まどいせん



 そして僕は、この世界から消えた 。

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