離岸流と幸せ

色澄そに

 孤独をあまり舐めないでいただきたい。

 私は決して、選ばれなかったから一人でいるのではない。自らの意思で一人を貫いているのだ。強いて言うなら、選ばれなかったのは私と今時を共有していないあなた方の方である。少なくとも私はそう主張する。これは現在進行形で私が語る、私の主観によって構成された世界の話であるのだから。致し方ないだろう? どうあがいたって一人称視点から逃れられないのが我々人間なのだから、思考も主張も独りよがりで、それが「正義」で、異論はないはずである。反論はできないはずである。客観は主観の集合体に過ぎず、個人が想像する他人は「個人が想像できる範囲内で、一方的な主体化によって構成された他人」に過ぎない。「私」と「あなたが想像する私」の差は絶対的で、決して埋まることはないと、少なくとも私の世界では判断している。これが普遍的な世界の真理であると、一種の野心と確信を抱いてしまっている私は、矛盾の塊で傲慢なのだという自覚と共に。

 さて、話を戻そう。私は数ある選択肢の中から、無数に示されたカードの中から「孤独」を引いた、ただそれだけの存在である。それ以上でもそれ以下でもないのだから、他人から侮蔑や憐みの視線を注がれる謂れは、本来ないはずなのだ。だが、しばしば私は批判の対象として、かつてはおめでたい人間からありがたい言葉をいただいていた。

「もっと人と関わった方がいい。一人でいることはいつだってできるだろう」

 声を大にして言いたい。余計なお世話である。私はそう、覚悟とすら呼べる硬い意志をもって孤独でいるのだ。

 邪魔などさせぬ。


 人間は、それぞれが絶対的な固有の世界を持ち、固有な世界に生きる。それは例えば視点の違い、考え方の違い、生き方の違い、歩んできた軌跡の違い。積み重ねてきた「違い」によって、普遍的な物理世界を言わば再構築して、我々はそれを認識しているのだろう。そして、個人の固有なる世界の完璧な共有は断じて叶わない。内なる世界を完全に放出する手段を、我々は持っていないのだから。

 顕著なのは新たな環境での、新たな人間との出会いである。

 あるとき自己紹介を求められた私は、急いで自分を探し出した。導き、紡いだ言葉は元からあったものではなく、そのときになって初めて手でぺちぺちと固めたような、言葉によって固定された自分の形であった。それを、空気を震わせ相手に向けて放出する。「伝える自分」を選ぶことは、「伝えない自分」を選ぶことでもあって、言葉によって切り取られた「自分」が正直に自分を表しているとは、とても思えなかった。

 人と過ごすには会話が不可欠。会話には言語化が不可欠。言語化には自己分析が不可欠。だが、自己分析と言語化の間には確かなギャップが存在して、私にはそれが苦痛であった。急造の、まがい物の言葉で固定されることによって、私の可能性がどんどん狭められていくような気がしてしまって、どうにも私は耐えられなかった。

 言葉でしか、内なる一瞬を保存し永劫の記録として残すことはできない。でもその言葉によって、言の葉から漏れてしまった「私」は永遠に失われてしまうのだろう。

 確かに言葉は事象を分節化しラベリングし「確定」をもたらすが、確定された私は果たして私であるのか。私は納得できるのか。


 先の問いの答えを、私は未だ出せていない。そもそも出せるわけなどない。もう既におわかりであろうが、私は逃げているのである。回答を用意するべく思考する道を逸れ、苦痛から二十年間もの間耳を塞ぎ続けてきたのだ。皆まで言うな。知っている。自覚している。

 私は弱い人間であると。

 片一方では言語化を恐れ、しかし、もう一方では言語化によって得られる安定感にしがみつき、詭弁を盾にして今日を凌ぐ。矛盾の塊である。否定をする人間も周りに置かない。そういう生き方を選んだのである。

 私は己の未熟さを、今日も呪う。


 建付けの悪い扉を開け、部屋を出る。祖父だか曾祖父だか把握していないが、とにかく先代が寂れた田舎町に建てた一軒家。もはや誰一人として親戚は生きておらず、このやたら広い木造建築を私一人で所有するのは聊か荷が重い。平屋でとにかく部屋の多い我が家。居間に置きっぱなしの色褪せた写真には、呆れるほどたくさんの親戚が食卓を囲んで談笑している。私は誰一人として知らない。恐らく、知らない。とにかく、十数人が一堂に会せるほどの大部屋すら二、三室ある無駄にでかい我が家。正直に言うが、敷地内の大部分は荒れ果てている。

 自室としている南端の個室から、南北に長い家の北端に移動する。洗面所と台所に用があるので。

 しかし、呆れるほどに汚い。

 廊下を歩きながら視界に入る部屋は基本的に物で溢れ返り、ゴキブリ一匹の足場すらないであろう。……実際のところこの果てしなく積み重なった荷物たちの下に大帝国が築かれているのは想像に難くないし、見えないのだから、この家唯一の観測者たる私から観測できないのだから、何が起こっていても不思議ではない。小人がはびこっている可能性だって否定はできない。だが、否定はできないが、観測できないのだから「いない」と私は判断することにしている。無限に存在する可能性から、私は私がこの家の中で唯一の思考する生命体である可能性を選んだ。だから、私はこの家では絶対的な存在である。利己的に唯一であると定めたがために相対化され得ずそれ故絶対的であるというだけだが、物で溢れた屋敷の内、私が日常生活で移動する部分だけは、道として綺麗に片付いていた。パックリと。さながら、海を割るモーセのようである。

 台所へと辿り着いた私は、消費期限が一日過ぎた食パンをトースターに放り込み、今日が消味期限なのに丸々二リットル残っている牛乳のパックを開封してコップに注ぐ。こういった食材を買い出しに行くときには、それなりに計算して計画立てて物を買っているのだが、何故か毎回こうなってしまう。私は決まって週に一回しか外出をしない。それも深夜、二十四時間営業スーパーへ買い出しに行くのみで、パーカーのフードまで深くかぶって、必要最低限の日用品を買い出してそそくさと帰宅する。もう二十年も、私はまともに人と会話というものを交わしていない。

 二十年。

 私が道を踏み違えたあの日、もしくは世界が道そのものを間違えたあの日。あれから私は独りである。

 後悔がないと言ったら噓になる。

 むしろ、後悔しかない。

 変わりたい、と願ったまま、私は昨日と同じ今日を積み重ねてきた。

 知りようなどないのだが、きっと私以外の人間は「正しく」歩んでいるのだろう。

 私も私なりに正しく歩んできたのだが。

 最早、今の私では手遅れである。

 己の正しさを否定できずに、正しさとともに歩んだその最先端の今を否定できずに。

 変化など訪れるはずもない。

 それでも、変わるきっかけは、変えるための深謀は昨日までに実行済みである。

 今の私では遅すぎる。手遅れで、しかし、間に合ってもいる。

 絶望は全てが終わってからでいいだろう。

 もう少し、私の世界にお付き合い願おう。


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