鈴の音

森音藍斗

鈴の音

 師走の音がする、教師の足音というのは僕にとっては恐ろしいもので、何故なら劣等生だった学生時代を思い出すから。だんだん早くなる鼓動のように、壊れて錘がずり落ちていくアナログのメトロノームのように、りんりん僕を急き立てる。


 りんりんりん。


 りんとしたあの子に恋をしたのは今年の春のことだった。楽しい一年だったと思い出すと同時に、あの子にとっても楽しい一年だっただろうかと疑ってしまう僕は情けない。あの子は僕よりずっとかっこいいから、僕なんかいなくてもきっと素敵な一年だったに決まっている。あの子はどんどん先に行く。僕はどんどん後れを取る。


 どんどんどん。


 どんどん、と扉を叩く音がして、僕は肩をびくりと震わせた。誰だ、こんな深夜に戸を叩くのは。悪い想像を一瞬して、いや僕は疚しいことなどしていない、と振り払う。狭いボロアパートのインターホンは、そういえば壊れたままだった。しかたない、ドアスコープを覗くために玄関に行くために立ち上がるためにこたつから出なくてはいけない。外の誰かさんもきっと寒がっているだろう。師走の世の中は忙しいのだ。面倒なことはちゃっちゃと済ませてしまおう。


 ちゃちゃちゃ。


 ちゃちゃを入れる手がこたつの中から伸びた。幽霊やお化けの類ではない。せっかく覚悟を決めたのに邪魔をするなよ、とこたつ布団を捲りあげれば、中から真っ白で真ん丸な猫が俺を睨む。お前にまで睨まれてしまったら、いよいよ僕には居場所がないよ。猫より猫背になりながら、僕は猫の喉元をそっと撫で、スウェットに引っ掛けられた爪を、ごめんよと外す。僕もただこたつで丸くなっていればいいのなら、どれだけ幸せなことだろう。しかしお前を食わせていかなければならない。人間は猫背になってはいられない。しゃんとしなければいけないのだ。


 しゃんしゃんしゃんしゃん。


 しゃんしゃんと追い立てられるような僕の気持ちが僕を置いて走り出すから、師走というのは好きじゃない。再びノックの音が鳴る。そんなに急かさなくてもいいじゃないか。年が変わったって、どうせ何も変わらないのだから。大晦日が過ぎて元日が来ることに、日曜が過ぎて月曜になる以上の意味を見出したら負けだ。それなのに焦ってしまうのは、僕が勝手に僕を追いかけ回しているからなのか。まったく馬鹿馬鹿しい、りんりんりんとメトロノームが、どんどんどんとノックの音が、ちゃちゃちゃと逸る手拍子、しゃんしゃんしゃんしゃん走らなければ、今年に置いていかれてしまう、あの子に置いていかれてしまう、りん、ちゃ、どん、しゃん、りん、ちゃ、どん、しゃん、

 ドアスコープの向こうには、寒さのせいでルドルフのように鼻を真っ赤にした、あの子が立っていた。


「インターホン、早く直しなよ」

 扉を開けて一番にむくれるあの子に僕は頭を下げ、部屋に招き入れる。あの子は白い箱をだいじそうに抱えていた。

「おいしそうなケーキが売ってたの」

「ちょっと早すぎるんじゃないか」

 今日はまだ十二月六日、いくらあわてんぼうのサンタクロースだって、限度というものがあるだろう。

「食べたいときに食べるのが一番なの」

 そう言うあの子は、年の瀬なんてどこ吹く風で、こたつから這い出してきた猫に、ねー、と話し掛ける。みゃーと猫が返事をする。それだけで、壊れて加速するメトロノームが、僕を追い立てるノックの音が、積もり積もった面倒ごとが、背筋を伸ばせと叱る声が、ふっと拍子を揃えた気がした。あの子が指揮棒を振りさえすれば、逸るテンポさえ幸せへのカウントダウンに聞こえるのだから、まったく僕というやつは、現金なものである。


「早く食べようよ、早く、早く」


 りんりんりんと鈴の音が、僕の中で響く。

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鈴の音 森音藍斗 @shiori2B

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