犬の家・猫の家

mojo

犬の家・猫の家

 ある晩、深夜料金のタクシーで帰宅した私が玄関の扉を開けると、たたきの隅に、愛媛蜜柑、のロゴが入ったダンボールの箱が置かれていた。音をたてぬよう扉を閉め、箱を覗きこむと、白い仔犬が私の着古したセーターに包まれて眠っている。私は仔犬を抱きとり、居間には寄らずにそのまま階段を上がり自室に戻った。ジャージに着替え、ベッドのふちに座り、仔犬を膝の上にのせてみる。目を覚ました仔犬は不安げな様子で私を見上げている。

「おい、よくきたな」

 そう話しかけると、仔犬は私の鼻のあたまをぺろりと舐めた。

 三重の健雄号。

 厚い和紙の血統書には仰々しい筆書きでそう記されていた。私たち家族はその紀州犬の仔犬をケン坊と呼んだ。ケン坊はやんちゃな仔犬だった。庭先で干してある洗濯物に飛びつき、首を振って破いてしまう。散歩に連れだすと、電線にとまっている鴉を見上げ、ぱくんぱくんと口を鳴らしながら威嚇する。

 純血種の日本犬は成犬に育てば丈夫だが、それまでは細心の注意をはらって飼育しなければならない。ケン坊は家族全員からの寵愛を受け、我侭いっぱいに育っていった。

 生後一年がたち、犬のスケールからいえば思春期を過ぎる頃になっても、ケン坊は散歩の途中で飽きると道端に座り込んでしまう。リードを引っ張り、歩くよう促してもてこでも動かない。

「この我侭犬め」

 しかたなく、私は体重三十キロ余りのケン坊を抱いて帰ったものだ。そんな様子を近所の人々は笑って眺めたが、ケン坊はあくまで日本犬に特有の、威厳のある顔つきで私に抱かれているのだった。

 ケン坊は成犬になると、ブリーダーからドッグショーにだすことを薦められるような、とても姿の良い犬になった。その気になった私は、ある大会にケン坊を連れていった。しかし甘やかされて育ったケン坊は、にわか仕込みの作法を発揮することができず、凡庸な結果しか得られなかった。


 ケン坊が来るまえから、我家には雉虎の雄猫がいた。その猫を父は「渡辺」と呼び、弟は「ユウゾウ」と呼んだ。「渡辺」は父が勤める会社の、あまり有能とはいえない部下の姓であるらしかった。「ユウゾウ」は弟が傾倒するインディーズバンドのボーカリストの愛称だった。しかし母はその猫を「ミー」と呼んだ。「渡辺」にも「ユウゾウ」にもその猫は尻尾を立てる反応しか示さなかったが、母が「ミー」と呼べば鳴いて応えるのだった。

 ミーは臆病な猫だった。塀に鴉がとまると、庭の茂みから捕獲の態勢をとるが、鴉がそれに気づきガーと鳴いて飛びたてば、驚いて駐車場のクルマの下へ逃げ隠れてしまう。繁殖期には、雌の争奪戦で耳が千切れそうになるほどの怪我を負って帰ってくる。時おり鼠や雀を捕まえてきては母のところへ持って行き、ぽとりと落して自慢気に鳴いたが、母からは怒られるばかりだった。

 しかしミーはケン坊から慕われた。社会的な群れで生きる狼の系譜であるケン坊にとってミーはこの家の先輩であった。

 ケン坊は、散歩の途中でミーを見かけると、私や他の家族にするように尾を振りながら寄っていった。しかし社会的序列という概念の枠外にいる猫族のミーにとって、大きな犬の荒々しいスキンシップなど迷惑な話だった。ケン坊は塀の上に避難してしまうミーを、いつも不思議そうな顔つきで見上げていた。

 しかし、あるときからミーが奇妙な行動をとるようになったのである。ケン坊を散歩に連れだすと、ミーがいつの間に近くに来ていて、私とケン坊を先導するのだ。ミーは私たちから二十メートルほどの間隔をあけ、辺りを注意深く見渡してから振り向いて鳴いた。

 あたかも、ここまでは安全だから心配しないでついて来い、と言わんばかりである。

 しかし、散歩コースの途中にある橋の袂までくると、ミーはそこから先には一歩も進めないのだった。

 本来、繁殖期以外は単独で生きる猫族は、個体ごとにテリトリーが決まっていて、他の個体がそこへ侵入すると激しく攻撃される。どうやらその橋の袂が、ミーと他の猫との境界線であるらしかった。

 さっきまで辺りを睥睨しながら威張っていたミーは、橋の欄干に飛び乗り、遠ざかる私とケン坊にむかって哀しげな声色で鳴いた。ケン坊はミーを振りかえりつつ、何かを訴える表情で私を見上げるのだった。

 散歩の度に繰り返されるこの小さなドラマは、私たち家族を和ませた。


 ある年の、暮れもおし迫った十二月二十四日の早朝、母が入院先の集中治療室で死去した。私は手短に葬儀業者への手配をすませ、クルマを飛ばして首都高速を下り自宅に戻った。ケン坊を散歩させ餌と水を与えた。ミーの餌箱に猫缶を盛った。ケン坊はどことなくそわそわした様子だった。ミーは姿を見せなかった。

 病院に戻る首都高速の登り車線は、通勤ラッシュで渋滞していた。私は途中のサービスエリアで仮眠をとるべく駐車したが、渋滞が解消される時刻になっても眠ることはできなかった。

  

 男三人での生活が始まった。掃除や洗濯は、週に二回ホームヘルパーがやって来て片付けた。三人はお互いを労わりながら暮した。しかし半年も過ぎた頃から、次第にぎすぎすしたものを感じるようになっていった。つまらないことが気に入らない。クルマで遠出した者がガソリンを入れずに車庫へ戻すと、次に乗る者が文句を言う。だれかが酒の肴にするつもりでいたカラスミを、他のだれかが食ってしまう。そんな些細なことが澱のように溜まり、いつしか私たちは、酸欠の水槽で泳ぐ魚のようになってしまっていた。

 弟が結婚し家を出た。父が後妻を娶ったのを契機に、私も通勤に便が良い処に引っ越した。

 父は出勤するまえにケン坊を散歩に連れていった。しかし義母は犬を好まない人で、ケン坊には餌と水を与えるだけだった。長年朝夕二回の散歩に慣れたケン坊は、次第にストレスをため込むようになっていった。

 定年退職すると、父の決断は早かった。ケン坊を郊外に住む部下に引き取らせ、家を売りに出した。買い手がつくと、後妻の出身地である西日本の大都会にマンションを買って引っ越していった。

 私は父から訊いた住所にケン坊の様子を見にいった。しかし「渡辺」の表札がかかったその家に、犬が飼われている形跡はなかった。そのことを父に告げると、父は一言「そうか」と呟いた。

 

 数年後のクリスマスイブの日、父が東京に出てきた。怪我をして入院している私を見舞うためだ。私は外出許可を取り、弟の運転するクルマで、私たち三人は母の墓に参じた。

 車中で父が興味深い話をした。

「この間、渡辺の奥さんから電話があってな。あいつは死んだそうだ。大宮の車両操作場で、変死体で見つかったんだとさ。酔っ払って寝過ごすうちに、車両ごと操作場に入っちまったんだな。夜明けに非常ドアを開けて外に出たところを隣の線路を走っていた列車にはねられたらしい」

 霊園に着いた私たちは、御影石の墓に水をかけて花束を供えると、他にすることはなくなってしまった。


 因縁ついでにもうひとつ興味深い事実を語ろう。

 ミーは母が死んだちょうど一年後のクリスマスイブの日に、かかりつけの獣医の診療室で死んだ。私はミーの亡骸を引き取り、ペット葬を取り扱う業者に持ち込み焼いてもらった。

 どこのだれが住んでいるのかは知らないが、ミーの骨壷はいまもあの家の庭の片隅に埋まっているのである。


                         <了>

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