透明なピリオド

天神 みつる

透明なピリオド

 今度結婚する。

 そう言われたあの時、私はどんな反応をしたのか覚えていない。うまく喜べたのだろうか。複雑な内心をそのまま表したような笑みだったかもしれない。

その結婚式のためのヘアメイクを施してもらっている今、鏡の中でされるがままにどんどん髪を結い上げられている自分に現実味が持てないままでいる。あの瞬間から足下や視界がずっとぼやけている。

 あの人と出会ったのは、高校生の時だ。同じクラスで、席が隣というよくある話だ。さらには数日後、同じ美術部に入った。仲良くなるには十分過ぎるありふれた出来事。

「お友達の結婚式ですか?」

 人懐こい笑顔で話しかけられて、ほんの少しだけ我に返る。

「あ…はい…」

「どんなお友達ですか?」

「…高校の…部活仲間で…」

「じゃあ付き合い長くないですか?もう親友ですね。いいですねぇ」

 私の生返事にも、ニコニコ楽しそうに話を続ける美容師さんの言葉が遠ざかる。また鏡の中の私の輪郭がぼやける。

 親友。そう呼ぶにはあの人は特別すぎた。

 有り体に言えば、私の想い人だ。あっちは微塵も気づいていない。いや、気づかせないように細心の注意を払ってきた。想っているからこそ、私のいない幸せを願っていた。私じゃない素敵な誰かと幸せになってほしいと。それでもなんだかんだと二十八になる今日まで、離れられずにいるのも確かだった。友達のまま、このままで。まるでよくある少女漫画のようだけど、どれも本音だった。

 そうこう考えていると、ヘアメイクは完成したようだった。しかし、まだ美容師さんは癖でうまくまとめられない一束の髪と格闘している。その一束が、まるで往生際の悪い私のようで、笑えた。

 ヘアメイクを終えたものの、頭も足元もふわふわした私は、いつの間にか、結婚式を待つ人と光であふれている式場内のカフェにいた。全面ガラス張りの大きな窓からは、初夏を思わせるまぶしい光を目一杯取り込んでいる。頼んだアイスコーヒーはちっとも減らず、グラスは汗をかいている。

「紫乃、早いね。久しぶり」

 急に私の視界に入ってきたのは高校の時の友達の梨花だった。

「久しぶり。そうでもないよ。梨花がギリギリなんでしょ。でもまぁ振り袖だからしょうがないか」

「うそ。…あ、本当だ。意外とやばかったわ」

 自分のスマートフォンを取り出して時間を確認する振り袖姿の梨花は、今まで見たことないほど華やいで、眩しいくらいだ。

「しかし気合い入ってるね」

「そりゃ初めての大事な友達の結婚式ですから。華として飾ってあげなきゃ」

 そう言って、豪奢な赤い振り袖を、くるくる回って、楽しげに披露する梨花を見て、私は改めて、自分はなんてひどい友達なのかと自嘲した。自分のショックで精一杯で、形だけ整えて、そんな気持ちで準備していなかったのだ。自分のシンプルなサテンワンピースの裾をきゅっと握る。明るい日差しが差し込むカフェで、笑顔で運ばれてきたアイスティーを飲む梨花とは対照的に、私の心は暗く淀む一方だった。あの人を前にして、きちんと祝えるのだろうか。

 きっとひとり、葬式のような雰囲気を纏っていたかもしれない。頭の片隅でそんな心配をしながらも、私はもう大聖堂に流されていた。ぼんやりしていると状況に流されてしまって、時の流れが早い。

 ざわざわしていたのも一変して、シンと張り詰めた空気になる。新郎新婦の入場だ。圧倒的な非日常に、隣に座る梨花も、高校生のようにはしゃぐことも、私にこそこそと話しかけることもなく、口を開けて呆けている。無理もない。その空間は何もかもが美しすぎた。前に並ぶふたりを遠く見つめながら、自分がただの傍観者であることに焦燥のような、悲哀のような気持ちを感じていた。

 いつからあの人が特別になったのか、その境目は分からない。覚えていない。引いた線を指でこすってぼやかしたように曖昧で。穏やかで凪いだ好意だった。はずなのに。今までないほど今は気持ちがざらついている。

 覚えている中で一番古いことは、シャープペンシルだ。

 シャーペン、忘れたから貸して。

 その一言と、貸してあげるという簡単な行為にすら、わずかに心臓がはねていた。こんなことはあの人が初めてじゃない。他のクラスメイトにもしてあげたことはある。けれどあの時は不思議とドキドキした。ありがとうと言って、あっさりノートに戻された瞳にたまらなくなって、またこっちを見てくれないか、頼ってくれないかとしばらく見つめていたことを覚えている。その時はもう気づいてくれることはなかったけれど、後日、紫色のシャーペンを差し出された。私のものではないと首を振ると、違うと言って笑った。借りたシャーペンの使い心地が良くて気に入ったが、自分では見つけられなかったから、これと交換してほしいというのだ。私は、静かにはやる鼓動を押さえて快諾した。ちゃんと新しいシャーペンだから、プレゼントだと思って、と言われた時は嬉しくてそのシャーペンを抱きしめてしまいそうだった。

 その、あの人が、シャーペンなんかよりもずっと高価で、ずっと思いがつまったものを、私じゃない人と、今まさに、交換している。脳裏にある思い出と目の前の出来事が混ざって、胸をかきむしりたくなった。苦しい。あの人はあんな出来事、覚えてすらいないだろう。私には、時折思い出しては幸せになれることだというのに。こんなにも違うと分かっているのに、私の心は諦められていない。私と結ばれてほしい訳ではない。好きだから、幸せになってほしい。でも私以外の人と歩んでいく姿を平気で見ていられるほど達観できてもいない。

 ……私は一体、あの人にどうしてほしいのだろう。

 結婚披露宴は、私がまるで知らない「あの人の人生」ばかりだった。

友人として、梨花や高校時代の他の友達と最前卓につかせてもらっていた。懐かしさやあの頃と同じ楽しさを感じたのも束の間、私はあの人にとっては切り取られた一部分でしかないことを思い知らされた。私にとってのあの人も、人生の一部分でしかないのに。

 流れる新郎新婦のなれそめや紹介アナウンスやムービーには、私との共通項である思い出なんて、一ミリだってない。当たり前のこと。そんなことに今更傷つく私はなんなのか。ほとほと呆れて、笑えてくる。

 運ばれてくる豪華な料理も、ろくに手をつけないまま下げてもらっている。失礼極まりないだろうが、胃がまるで意思を持ったように拒否している。心と体は本当に連動しているのだなぁと、幸せそうな笑顔に囲まれて、幸せそうに笑うあの人を見ながら、思っていた。

 最後に運ばれてきたデザートは、フルーツたっぷりのショートケーキだった。定番だけれど、フルーツ好きのあの人らしい。

 美術部のデッサンのために時々、好きなものを持ち込んでいた。あの人はフルーツばかり持ってきて、さらっと描き終えては食べていた。

 紫乃も食べる?

 帰り道、そう言ってリンゴを差し出された時は面食らった。いつの間にかリンゴを囓りながら歩いていたのだ。夕陽に照らされて、一層赤くなったリンゴを受け取った私は、あの時どうしたっけ。赤いあの人の笑顔も、リンゴも、伸びる影も覚えているのに、そのリンゴはその場で食べたのか、持って帰ったのか覚えていない。

 自然とフォークはケーキに突き立てられていて、柔らかく崩れた。

「最後になるまで待つ?」

 不意に梨花にそう聞かれ、間抜けな声で答えてしまった。

「いやだから、お見送りしてくれてるからさ、最後の方が少しはゆっくり喋れるじゃない?紫乃も一緒にお祝い言いに行こうよ」

 披露宴では、一言交わすことすらできないほど、新郎新婦は引っ張りだこで、私は少しほっとしていた。しかし、この梨花の強引な誘いによって、私の足元はまたふらついてしまった。何を言えばいいのだろう。いや、深く考えず、友達として「おめでとう」と言えばいいのだ。ただそれだけ。ただそれだけなのに、どんどん人が減っていく会場内と反比例して私の心拍数は上がっていった。

 何度も立った席に忘れ物がないか確認して時間を稼いでいると、ついには梨花に引きずられながら、会場を後にした。会場から出てすぐ。すぐそこに新郎新婦と、両家の両親がいた。私は立ち止まってしまう。梨花は構わず、かけていく。今日の日差しより、梨花より、ケーキより、眩しくて、華やかな、あの人がいる。

「華菜子おめでとう!すっごいきれいだったよー!今着てるのも華菜子っぽくてすごくいい!」

「梨花ー!来てくれてありがとう!でしょでしょ!悩んだけど、やっぱりこれにして正解だったよ」

 きゃいきゃいと、まるで高校生のままのようにはしゃぐふたりに私は距離を感じた。薄い膜で隔てられたように、景色も、音もぼやけていた。

「紫乃?なんでそんなに泣いてるの?」

 気づくと私の顎を、涙がぼたぼたと伝っている。

 華菜子。好き。

 そんな言葉は喉の奥に詰まって霧散した。いや、霧散させた。

「いい式で感動したの」

 これが私のちっぽけな矜恃。今まで見た中で彼女は一番きれいだった。一番幸せそうだった。一番、好きだった。

「感動しすぎて、涙出て、仕方なくって」

 息継ぎをする代わりに嘘を重ねた。そして今分かった。私があなたにしてほしいこと。

「もー泣きすぎでしょ!でも本当ありがとう!最高の親友だよ!」

 そう言って、彼女は私の失恋のトドメをさした。最高で最低な言葉で。

 彼女の瞳からも、一粒涙がこぼれ落ちた。

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