第169話 凪の悩み

「凪さん、起きてください」


 聞き慣れた低い声と優しい揺さぶられ方に、意識が覚醒していく。

 重い瞼を開ければ、愛しい婚約者が凪の顔を覗き込んでいた。


「ん……。おはよぅ、かいと」

「おはようございます」


 海斗の温もりを感じながらの目覚めは、最高に心地良い。

 心地良過ぎて二度寝しそうになる程だが、冬休み明け初日に駄々を捏ねたら珍しく強引に起こされたので、流石に迷惑だったのだろう。 

 なので落ちそうになる瞼を頑張って開けながら、日課となっている行為を強請ねだる。


「ちゅー」

「分かってますよ。……凪さん」


 頬に骨ばった手が触れるのには慣れたものの、その感触にぞくりと背筋が震えるのは変わらない。

 とはいえ決して悪い感覚ではないし、ずっと触れて欲しいとすら思っている。

 ゆっくりと近付く優しい顔つきに見惚れつつも目を閉じれば、すぐに二人の唇が重なった。


「ん……」

「ふ……」


 柔らかい感触が、海斗と触れ合っているという実感を凪に与える。

 男の人の唇が柔らかいと知った時は意外に思ったが、固いよりかは柔らかい方が良い。

 とはいえ、クラスメイト曰く男の人の唇は殆どの場合かさついているらしいので、どうやら海斗が珍しい部類のようだが。

 このままずっとキスしていたいくらいなのに、海斗はすぐに唇を離した。


「それじゃあ、きちんと着替えを済ませてくださいね」

「はぁい」


 朝の時間は貴重だし、海斗は凪の分まで朝食を作るのだ。

 もっとキスをしたいと我儘を言って困らせたくはない。

 不満ではあるものの素直に従い、部屋着を脱いで制服に着替える。

 その最中、下着姿になった体で姿見の前に立った。


「うーん……」


 容姿に関して実感はなかったが、どうやら綺麗らしい。

 とはいえ身長は平均より下で小柄だし、体つきも豊満とは言えない。むしろ、世間ではスレンダーに属するだろう。

 随分前に海斗に興味本位で理想の体型を聞いた際は、とある場所の大小は気にしないと言っていたが、明確な発言もしていなかった。

 海斗にも欲はあるようなのでそういう対象として見られているのは分かっている。

 しかしキス以上の事を求めない海斗が、最近の凪を悩ませていた。


「……取り敢えず、着替え」


 ここで悩んでいても答えは出ないが、正直に聞くのも恥ずかしくて出来ない。

 そもそも、時間を掛けていると海斗が心配してしまう。

 仕方がないと思考を打ち切り、制服に着替える凪だった。





 冬休み明けはクラスメイトの女子達が海斗との進展を聞いてきたが、二月に入ってからは収まっている。

 そのお陰で、凪はこれまで通り一人で居られるようになった。

 とはいえ修学旅行で仲を深めたクラスメイトと偶に話す事もあり、今も彼女達の言葉に耳を傾けている。

 凪の机に集まっているのは、放っておくと一人で過ごすからだろう。

 彼女達ならば構わないと特に気にしていないし、むしろ輪に入れてくれて感謝すらしていた。


「――で、クリスマスにキスしちゃった」

「あんた、そんな面白い話もっと早くにしなさいよ。もう二月に入ったわよ」

「えー? そういう遥香はるかだって私達にキス以上の事をしたの黙ってるでしょー?」

「は、はい!? ななな何を言ってるのかな!?」

「おー、かまを掛けたけど、大成功だった」

「このっ……!」


 休憩時間という事で周囲がざわついているからか、かなり大胆な会話をしている。

 最初は凪も驚いたが、女子の話とはこういうものらしい。

 勿論毎回ではないし、世間話をする事もある。

 今回は言い合いになっているが、お互いに彼氏との詳細を全て話すのは恥ずかしいと分かっているのか、じゃれ合っている範疇はんちゅうだ。

 いつも通りといえばいつも通りの光景を眺めていると、恋人が居ないクラスメイトが顔を羨望に彩らせながら口を開く。


「今更なんだけど、そういうのって良いものなの?」

「まあ、良いものだよ。結構幸せ」

「だね。西園寺さんは? 後輩くんとそういう事もしたの?」

「キスはした」


 彼女達には冬休み明け初日に海斗と付き合った事を話したので、キスをした事を隠す必要もない。

 とはいえ詳細を話すのは恥ずかしいし、海斗との思い出を独り占めしたいのもあって、簡潔に伝えたのだが。

 それだけでも彼女達は目を見開き「おぉー」と感嘆の声を漏らした。


「あの西園寺さんが、まさかそこまで行くとはねぇ」

「私、ちょっと感動しちゃった」

「……何か馬鹿にされてる気がする。別にいいけど」


 恋心に無自覚だった頃に彼女達を頼ったので、微笑ましいものを見るような目や発言に怒るつもりはない。

 それでも僅かに唇を尖らせると、少しばつがわるそうな顔をされた。


「にしても、西園寺さんは滅茶苦茶後輩くんと上手くいってるよね」

「そうそう。いっつも仲良さそうだし、喧嘩した事もなさそう」

「喧嘩はした事ないし、まあ、上手くいってる方だと思う」


 海斗との生活に不満や文句はない。

 だが、決して悩みがない訳ではないのだ。

 ちょうど今回は割と大胆な話をしているので、凪も多少大胆な発言をしても許されるだろう。


「でも、キスの先を海斗が求めて来ない」

「西園寺さんの口からそういう話が出るなんて……」

「そりゃあ女子高生なんだし、西園寺さんも興味があるでしょうに」

「わ、私だけ除け者にされてる感じがするぅ……。でもすっごく聞きたい……」


 ちらりと彼女達の顔色を窺えば、意外に思いつつも嫌そうな顔はしていなかった。

 これならばアドバイスをもらえるかもしれないと、意を決して口を開く。


「海斗にそういう事をしてもらうには、どうしたらいい?」

「え、えっと、まず大前提だけど、西園寺さんは嫌じゃないんだよね?」

「勿論。海斗になら、私の全部をあげられる」


 元々全部あげているようなものなので、覚悟というよりは単に事実を述べただけ。

 しかし彼女達は目を見開き、尊敬するような眼差しで凪を見つめる。


「そう言える西園寺さんが凄いのか、言わせる程に後輩くんが凄いのか……」

「多分どっちもでしょ。それで、西園寺さん的にはおっけーだけど、後輩くんが手を出してくれないと」

「うん。多分、私を気遣ってくれてるんだと思う」


 流石にこの期におよんで手を出す資格が無いとは言わないだろうが、気を遣いがちなのが海斗だ。

 このまま一緒に過ごしていても、決して手を出さないだろう。

 謙虚なのは美点なものの、もう少し欲望に素直になって良いと思う。


「だから、何か切っ掛けが欲しい。そういうの、ない?」

「切っ掛けかぁ。何かあったかなぁ……」

「あるじゃない。とっておきのが」

「とっておき? そんなのあったっけ?」


 どうやらクラスメイトの一人には案があるらしく、彼女がニヤリと唇の端を釣り上げた。


「二月の中盤にあるイベントは? というか、私と遥香は他人事じゃないんだけど」

「イベント? ……ああ、そっか!」

「なるほどねぇ。私には鬱陶うっとうしいイベントだけど、確かに良いかも」

「う、うん?」


 彼女達は納得がいったようで、うんうんと頷きあっている。

 訳が分からず首を傾げれば、全員が決意を秘めた目で凪を見つめた。


「つまりね――」


 彼女達は、次から次へと凪へアドバイスを授けてくれる。

 それは今の凪にとって貴重なものであり、必ず実行しようと決意するのだった。

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