第117話 可愛らしい嫉妬
「お姉様、お兄様、起きてますか?」
少しくぐもった幼げな声で、意識がゆっくりと浮上する。
瞼を開けて扉を向こうとしたのだが、身動きが取れなかった。
いつもの事なので呆れと嬉しさを混ぜた笑みを零しつつ、視線を下げる。
そこには、海斗にぴったりと抱き着いて気持ち良さそうな顔で寝ている凪が居た。
「……どうするかな」
時刻を確認すれば、非常に健康的な生活を送れる時間だ。
しかし、海斗と凪は最近怠惰な生活を送っており、動き出すのが昼前になっている。
だからこそ、凪は起きる気配がないのだろう。
出来る事なら寝かせておきたいが、渚への返事で起こしてしまうかもしれない。
どうしたものかと悩んでいると、カチャリとドアノブが回される音がした。
「失礼します。朝御飯は要るかとお母様が言ってるのですが、どうで――」
首だけで扉を向く海斗と、部屋を覗き込んだ渚の視線がバッチリと合ってしまう。
そして彼女の視線は、明らかに一人ではない布団の膨らみへと向けられた。
ベッドが一つなので一緒に寝ているのは分かるが、凪が抱き着いている事は分からないはずだ。
しかし渚は完全に理解したようで、不満そうにぷくりと頬を膨らませる。
「……お姉様だけ狡いです」
「いや、その、ごめん?」
「お兄様のせいではないので、謝らないで下さい。単に私の我儘ですので」
扉越しではないので、凪を起こさない程度の音量で会話出来るのは有り難い。
とはいえ、羨望の込められた声は聴くだけで胸が締め付けられたのだが。
割り切りを付けたようで透明な微笑を渚が浮かべるが、何かしてあげたいと思ってしまった。
「渚さえ良ければ、一緒に寝る?」
「是非お願いしま――いえ、今日は遠慮しておきます。お母様から様子を見てくるように言われただけなので」
凪以外の女性と一緒に寝るのは駄目だと思うが、渚は小学生だし凪の妹なので、多少凪から嫉妬されるかもしれないが許してくれるだろう。
一瞬だけ目を輝かせた渚だが、すぐに年齢に合わない大人びた笑顔を浮かべる。
はしばみ色の瞳には未練が残っているものの、一度断られたのだから何度も誘う訳にはいかない。
「分かった。桃花さんには要らないって言っておいて」
「了解です」
凪を無理矢理起こすのは忍びないし、ぴったりと密着されているこの状況だと抜け出すのも不可能だ。
諦めて渚に伝言を頼めば、彼女がくるりと背を向ける。
しかし扉の前で立ち止まり、ちらりと海斗へ振り返った。
「…………今日じゃなくて、機会があったら、いいですか?」
不安と期待が込められた声に、請うような表情。
元々受け入れるつもりだったが、こんな態度でお願いされれば、断るという選択肢は完全に消え失せてしまう。
「勿論。凪さんを一緒に説得する必要はあるけどね」
「絶対に説得してみせます」
渚が小さな握り拳を作り、決意を露わにする。
可愛らしい仕草に頬を緩めていると「それでは」と言葉を残して今度こそ部屋を出て行った。
分かってはいたが、甘えたがりな所も姉妹だなと思いつつ、気持ち良さそうに寝息を立てている凪へと視線を戻す。
「ホント、気持ち良さそうに寝てるなぁ」
無垢な寝顔に笑みを零し、銀色の髪へと手を伸ばした。
やんわりと撫でれば、小さな唇が弧を描く。
「ん……。かい、と……」
凪と一緒に寝るようになってから、こうして先に起きて彼女の頭を撫でるのが当たり前になってしまった。
そして凪の方はというと、海斗に撫でられるのに慣れたのか、多少頭を触られる程度では起きなくなっている。
それでもなるべく睡眠の邪魔をしたくないので、出来る限り優しく撫でているのだが。
しかし、今日は凪が目を瞑りながら顔を僅かに顰めた。
「だめ……。なぎさよりも、わたしを、なでる……」
「夢の中でも渚に嫉妬してるのか……」
海斗の撫で方が悪かったのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
妹相手だからだろうが、露骨に嫉妬する凪に呆れと嬉しさが混ざった苦笑を落とす。
もしかすると、渚と一緒に寝るのは難しいかもしれない。
「ま、なるようになるか。……ちゃんと凪さんを優先しますから、落ち着いてください」
「やったぁ……」
寝ている状態でも凪が反応し、安堵の表情を浮かべて海斗の胸に頬ずりする。
とても年上とは思えない寝顔と喜びようだが、これはこれで可愛いので有りだ。
むしろ、この寝顔を見る事が出来る男が海斗だけだと思うと、優越感すら沸き上がる。
「それはそれとして、いつ起きるんだろうか」
渚に伝言を頼んだので、惰眠を貪っても文句は言われないだろう。
仮に起きて欲しいなら、桃花か博之が起こしに来るはずだ。
それまではいつも通りのんびりしようと、凪の頭を撫で続けるのだった。
「本当にもう帰るのかい?」
「もっと居ていいのよ?」
凪が昼前に起き、五人で昼食を摂った昼下がり。
海斗と凪が帰る事を博之達に告げれば、残念そうな顔で引き留められた。
とはいえ、朝起きた段階で凪と意見を合わせており、二人で小さく頭を下げる。
「凄く有難いんですが、遠慮しておきます。その、これ以上は申し訳ないので」
昨日からおもてなしをされる立場だったが、このままあれこれと世話を焼かれてはダメ人間になりそうだ。
何も返せないというのも合わさって、流石にこのままズルズルと居続けるのは良くない。
そして海斗がそう決めたからか、凪も帰ると言い出したのだ。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい。後はあっちに戻ってからゆっくりするね」
「分かったよ。まあ、二人でゆっくりしたいだろうしね」
「あらー。つまり私達はお邪魔虫という訳ねー」
「そういう訳じゃないんですが……」
一瞬だけ悲しそうな表情をした博之達だが、すぐに海斗と凪を
二人の前で凪と触れ合うのが気恥ずかしいのは確かだが、お邪魔虫は失礼過ぎるし考えてすらいない。
むしろ、海斗としては博之達と話すのは楽しいくらいだ。
それでも状況を考えれば否定できないのも確かなので、苦笑を浮かべて言い訳を述べた。
やはりというか、二人の顔を彩っていた揶揄いの色が濃くなる。
「気にしなくていいんだよ。若いんだから、沢山触れ合いたいよね」
「気付かなくてごめんなさいねぇ」
「いや、その、あの……」
口を開けば開く程に状況が悪化しそうで、どうしていいか分からなくなってしまう。
戸惑う海斗を見て満足したのか、博之が「すまないね」と微笑を浮かべて謝罪した。
「何はともあれ、気を付けてね。それと、三が日を過ぎて落ち着いたら初詣に行こうと思うんだけど、凪と海斗くんはどうだい?」
正月から数日は神社が込むし、海斗も凪もそんな場所に行きたくないので、博之の提案は有り難い。
しかし、三が日を過ぎてから海斗には試練が待っている。
「すみません、四日は予定が入ってます。それ以降なら問題ないんですが、どうでしょうか?」
「ふむ。なら少し余裕を持って六日にでもしようか。詳しい事は直前に決めて連絡するよ」
「ありがとうございます」
初詣に行った事はないが、西園寺家の人達となら楽しいだろう。
都合を合わせてくれた事に頭を下げ、凪と共に玄関へと向かう。
「それじゃあお邪魔しました」
「いってきます」
「また来てね」
「今度はもっとゆっくりしてちょうだいね」
「また今度です、お姉様、お兄様」
玄関まで見送りに来てくれた博之や桃花、そして渚に挨拶して外に出る。
昼過ぎではあるが肌寒い空気が頬を撫で、ぶるりと体が震えた。
「それじゃあ帰りましょうか。……凪さんからすれば、変な感じでしょうけど」
実家である西園寺家も、凪が今住んでいる家も、どちらも彼女にとっては「帰る」という言葉が当てはまってしまう。
なんだかおかしくて苦笑すれば、銀色の髪が横に揺れた。
「そんな事ない。どっちも大切な家だし、海斗にも出来たらそう思って欲しい」
「そう、ですね。あのボロアパートなんかとは比べ物にならないくらい、どちらも大切な家ですよ」
凪の住んでいるマンションもそうだが、西園寺家も温かくて良い家だ。
今回は客人として
胸の温かさに促されるように微笑みながら告げれば、端正な顔が嬉しそうに綻んだ。
「なら良かった。じゃあ帰ろう、私達の家に」
「ですね。ついでに晩飯の材料も買いましょうか」
「うん。今日は何にしようかな……」
他愛のない話をしつつ、マンション近くのスーパーへとゆっくり歩く。
たった一日泊まっただけだが、家族の温かさを知れて良かったと改めて思うのだった。
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