第115話 憧れから変わる関係

 凪の髪を乾かし終えても、まだ博之と桃花は戻って来ない。

 手持ち無沙汰ぶさたになったので、ドライヤー等の片付けを終えてソファに座る。


「それで、渚は何か話したい事があるんだよね?」


 先程言いたそうにしていた渚へと問いかければ、彼女の顔が神妙な面持ちになった。


「えっと、その、お兄様達は家でもあんな感じなのでしょうか?」

「まあ、そうだね。最近はお世話係っていう立場も曖昧になってきたから、お互いにやりたい事をやってるよ」


 お世話係としての立場では凪の隣に立つ事は出来ない。

 だからこそ清二の話を待っている段階だが、そこまで話す必要もないだろう。

 凪をお世話する海斗を渚が慕っているのなら、申し訳なく思う。

 けれども決して悪い事ではないのだと胸を張れば、渚が小さく首を横に振った。


「すみません、責めている訳ではないんです。むしろ良い事だと思いますので。ただ、意外と普通なんだなって」

「あ」


 西園寺家に来てから、渚の前で凪が海斗に甘える姿はあまり見せなかった。

 強いて言うのならゲームのご褒美の時くらいだが、渚はご褒美だからこそ特に気にしなかったのだろう。

 しかし、憧れの人が普段からごく普通の少女のような態度を取っていたら、イメージが壊れるかもしれない。

 失敗を悟って背中に冷や汗が流れ、何とか渚の中での凪のイメージを良くしようと思考する。

 しかし海斗が言葉を発する前に、凪が口を開いてしまった。


「私も海斗も特別な事なんてしてない。海斗に甘える事が多いけど、海斗を甘えさせもする。それだけ」

「そう、ですか……」


 渚が顔を俯けた事で、表情が黒髪に隠れて見えなくなる。

 空気が変わったのを感じたようで、凪が海斗の服の裾を引っ張った。


「もしかして、私が何かやっちゃった?」

「うーん。凪さんのせいではないんですが、その……」


 この件に関しては誰も悪くない。凪は別に隠そうとしていなかったし、渚は彼女を尊敬していただけだ。

 けれど、姉妹の間に溝が出来る可能性がある。

 どうしたものかと考え込んでいると、凪がソファから立ち上がって渚の前に移動した。

 しゃがみ込んだ事で、姉妹の視線が合う。


「私は凄い人なんかじゃないよ。ゲームで渚とはしゃいだり、晩御飯の時だって渚と変わらなかったでしょ?」

「は、はい。……私に合わせてるのかと思ってましたけど」

「そんな事ない。だから、渚にとっての理想のお姉ちゃんじゃないかも。ごめんね」

「お姉様が謝る必要なんかありません! 私が勝手にお姉様を特別だと思い込んでいただけです!」


 自分の中で作られたイメージが変わった事を、すぐに受け入れるのは難しい。

 しかし渚はあっさりと受け入れて、勢いよく頭を下げた。

 尊敬に値する姿に目を細めつつも、姉妹の間で喧嘩にはならないのが分かってホッと胸を撫で下ろす。

 その後、頭を上げた渚は口に出した事できちんと心の整理が出来たのか、柔らかく目を細めた。


「むしろ、その、お姉様が近くなったみたいで、嬉しいです」

「本当に?」

「はい。なので改めてよろしくお願いします、お姉様」

「もちろん、私の方こそよろしくね」


 西園寺家に着いてから流れでゲームをしたり一緒に晩飯を摂っていたが、よくよく考えると凪と渚が腹を割って話すのはこれが初めてだ。

 完全に溝が無くなった姉妹が仲良く微笑み合う光景は、写真に撮っておきたい程に素晴らしい。

 ひっそりと頬を緩めていると、以前よりも心の距離が近付いたからか、渚の瞳に羨望の色が宿るのが見えた。


「と言う事は、お姉様は相当お兄様に甘やかされているんですよね?」

「うん。最近はよく膝枕してもらってる」

「ひ、膝枕!?」

「寝る時も海斗が腕枕してくれる時が多いし」

「腕枕されながら一緒に寝てるんですか!?」


 凪の口から次から次へと普段の海斗達の生活が暴露されていく。

 何か言う度に渚が驚いているので、彼女の中で僅かに残った凪の天才のイメージが粉々にされていっているのだろう。

 とはいえ渚の表情は軽蔑というより羨んでいるものだ。

 これならば問題ないと、口を挟まずに見守る。


「髪を乾かしてもらうのもそうですが、お姉様は狡いです!」


 どうやら渚に限界が来たようで、ついに凪への遠慮のない言葉が口から出た。

 凪は一瞬だけ目を見開いたものの、ゲームの時とは違って一瞬だけ嬉しそうに微笑み、優越感たっぷりに唇の端を釣り上げる。


「そんな事ない。これは当然の権利だし、乾かしてもらうのは渚もやってもらったでしょ?」

「だからこそ、ですよ! 毎日あんな風にお兄様に甘えられるなんて贅沢です!」

「贅沢も何も、これが当たり前。ねー、海斗?」

「……まあ、そうですね」


 凪と渚、どちらも大切ではあるが、やはり天秤は凪の方に傾いてしまう。

 誤魔化す事が出来ずに頷けば、渚の小さな唇が尖った。


「私もお兄様に甘えたいですー! お兄様が出来たらいいなってずっと思っていたので!」

「え?」


 どうやら渚の中で海斗の好感度が妙に高いのは、兄という存在に憧れていたからのようだ。

 海斗が期待に応えられるか怪しいが、今のところは大丈夫なのだろう。

 嫌われなくて良かったと安堵の溜息をつくのと、凪が首を傾げるのは同時だった。


「甘えるのは多少なら構わないけど、あれ、私は?」

「お姉様のイメージは崩れました。今は普通のお姉様です」

「……さっきまでそれで良いと思ってたけど、何かむかつく」


 あっさりと掌を返され、アイスブルーの瞳が細まる。

 以前までなら凪に不機嫌そうな態度を取られていたら萎縮いしゅくしていただろう渚は、呆れたような目を凪に向けた。


「何がですか。髪を乾かしてるのを見てる限り、お兄様にべったべたに甘えているくせに」

「それの何が悪いの? 自分が毎日やってもらえないからって逆恨みし過ぎ」

「そ、そうですけど! お姉様は意外と意地悪ですね!」


 凪がムキになった事で、風向きが変わった気がする。

 何となく不穏な空気を察してソファから立ち上がるが、二人共海斗を見ていない。


「そうだよ。海斗に甘える一番は私なんだから、渚には渡さない」

「独占するのは狡いです! お兄様はお兄様なんですから、私にも甘えさせてください」

「べったりはダメ」

「うー!」


 もはや言い合いは止まらず、姉妹喧嘩に発展してしまった。

 とはいえ、ゲームというある意味で自らに関係のない話題の時と同じく、二人の顔には相手を拒絶する意思は見えない。

 おそらく、本来の凪と渚の関係はこういうものなのだろう。

 遠巻きに姉妹喧嘩を眺めていると、博之と桃花が風呂から帰ってきた。

 リビングの光景を眺め、目を見開いて固まってしまう。


「……えっと、これはどうなっているんだい?」

「姉妹で仲良く話し合い、ですかね?」

「二人がこんな風に言い合う日が来るとは思わなかったわぁ」

「確かに、そうだね。ありがとう、海斗くん」

「お礼を言われましても……」


 何故か海斗の取り合いになっているだけで、特に何かした覚えはない。

 引き攣った笑顔を浮かべ、嬉しそうに笑う博之や桃花と姉妹喧嘩を眺めるのだった。

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