第100話 子供の我儘
クリスマスパーティーの次の日。海斗は凪の家に来て、リビングで人を待っていた。
これからの海斗と凪の生活が掛かっているからか、彼女の顔が不安に彩られている。
「どうなる、かな……」
「……正直、分かりません」
凪の告白を保留にした後、海斗は清二へと電話を掛けた。
その際に短く事情を伝えると『明日の昼頃、凪ちゃんの家に来てね』と言われたのだ。
喫茶店で話すような事ではないので理解は出来るが、先が全く見えず、どうにも緊張する。
それだけでなく、海斗の勝手で周囲を振り回しているという事実に申し訳なさが沸き上がり、凪を上手く励ませなかった。
悔しさに顔を俯ければ、全く聞いた事のない来客を知らせる音が部屋に鳴り響く。
「来た」
凪が小さく呟いて立ち上がり、玄関へと向かった。
海斗も行くべきかと腰を上げたが、ちらりと振り返った凪が僅かに首を振る。
凪に甘えてリビングで待っていると、柔和な笑みを浮かべた老人が入ってきた。
「やあ海斗くん、こんにちは」
「こんにちは、清二さん。わざわざ来ていただいてすみません」
「僕が提案したんだから、海斗くんが気にする必要はないよ」
海斗の謝罪に清二が肩を竦めつつ、テーブルを挟んで座る。
かなり真面目な話をするというのに、清二の顔から微笑が消えない。
「さてと、それじゃあ改めて聞こうか。凪ちゃん、海斗くんの事をどう思ってるんだい?」
「私は、海斗の事が好きです。勿論、異性として」
何も恥じる事などないと言う風に、凪が胸を張って答えた。
真っ直ぐ過ぎる姿が眩しくて目を細めると、清二が満足そうに頷き、海斗へと視線を移す。
「じゃあ、海斗くんはどうだい?」
「俺は、凪さんの傍に居たいです。お世話係としてではなく別の、もっと近い距離で」
問題が解決してから想いを伝えようと思っているからこそ、昨日は凪へ遠回しに伝えた。
出来る事なら今回もそうしたかったが、凪が隠す事なく想いを口にし、清二に尋ねられたのなら、遠回し過ぎるのは良くない。
清二が絶対に分かるような言い回しをすれば、清二が嬉しそうに目を細める。
「つまり、お世話係を辞めたいという事だね?」
「そうなります。……でも、俺は凪さんとの今の生活を手放したくないんです」
「ふむ。つまり、凪ちゃんとの時間はこれまで通り取りたいと」
「……はい」
バイト代を稼ぐという点で見れば、以前のように喫茶店で働くという手もある。
しかしそうした場合、今までのように凪の家に来れなくなってしまうだろう。
それでは、お世話係を辞める意味が無いのだ。
清二の指摘に眉を下げて頷くと、彼の瞳が冷徹な光を帯びた。
「それは我儘だよ。海斗くんの家庭事情を考えれば、全てを解決する事など出来ない」
「分かっている、つもりです」
「なのに、何とかしたいと」
「…………その通りです」
海斗が駄々を捏ねているだけなのは、胸が痛い程に理解している。
けれど、どうしても譲れないのだと大きく頷けば、清二が細く息を吐き出した。
「別に、今のままでもいいんじゃないかい? 僕からお金をもらって、それで凪ちゃんのお世話をしつつ、恋人として接する。それの何が問題なんだい?」
「俺の意思で凪さんと一緒に居たいのに、他の人からお金をもらうのは間違ってます」
「そうでもしなければ、海斗くんはここに来れないのに?」
「それも、分かっています」
「では、何故?」
清二の言葉から察するに、今までのようにお世話係としてお金をもらっても構わないのだろう。
その提案を蹴ってまでどうして自分を追い詰めるのか、という問いへの答えは既に持っている。
「俺は清二さんに、そして凪さんに、もう十分甘えさせてもらいました。だから、もう甘えたくないんです」
海斗の言葉に清二が僅かに目を見開き、口元を綻ばせた。
それも一瞬だけで、すぐに感情の読めない無表情へと切り替わる。
「しかし、理想論ばかりでは何も解決しない。解決策はあるのかい?」
「…………それは」
「無いのだろう? なら、甘えておくのが一番だと思うよ?」
解決策もないくせに駄々を捏ねるな。
優しい言葉の裏に潜むあまりにも無情な現実に、顔を俯けそうになった。
けれどここで視線を逸らせば何かが終わってしまうと、必死に清二と視線を合わせる。
「凪ちゃんと共に居るという事は、西園寺家に甘える事だって出来るんだ。海斗くんは、それも嫌なんだよね?」
「そう、ですね」
「凪ちゃんを支えれば仕事が
「それは出来ません。俺は、凪さんと対等な関係になりたいんです」
凪のメンタルケアをする事によって、彼女がより仕事の成果を出せるようになる。
確かに西園寺家にとってはメリットかもしれないが、それは凪の力に海斗が依存しているだけだ。
勿論、そういう仕事もあるのだろうが、凪の頭脳目当てに海斗は彼女と共に居たい訳ではない。
きっぱりと断れば、清二が再び重い溜息をついた。
「ハッキリ言わせてもらうと、それは不可能だよ。今の海斗くんの価値は、凪ちゃんを支えられるという一点のみなんだから」
「……やっぱり、そうですよね」
どこまでも情けない男だと、テーブルの下で拳を握り込む。
結局清二の言う通り、海斗が口にしたのは絶対に叶わない絵物語なのだ。
やるせなさに清二の顔を見ていられず、遂に顔を俯ける。
込み上げる感情を抑え込んでいると、海斗と清二の話を静かに聞いていた凪が「あれ?」と不思議そうな声を漏らした。
「今の海斗、ですか?」
「…………ふ」
堪えきれなくなったという風な笑みが、海斗の耳に届く。
ゆっくりと顔を上げれば、先程までのガラス細工のような無表情ではなく、いつも通りの優しい笑みを清二が浮かべていた。
「本当はもっと引っ張るつもりだったけど、あっさり気付かれちゃったね」
「という事は、海斗の問題を解決する手があるんですか?」
「そうだよ。
「解決出来るのに、不幸?」
丸く収まるのならそれでいいはずなのに、清二の言葉が引っ掛かって素直に喜べない。
凪も同じ気持ちのようで、海斗の疑問をそのまま口にしてくれた。
二人からの視線を受け、清二が人差し指を立てる。
「順を追って話そう。海斗くんにはお金がなく、僕らに甘えたくもない」
「は、はい」
「しかし、今の海斗くんは、凪ちゃんのお世話以外に胸を張れるものもない。ここまではいいね?」
「改めて言われると、中々酷いですね」
子供の我儘にしても、無茶苦茶過ぎる。
下手をすると怒られて当たり前だと肩を竦めれば、凪が大きく首を振った。
「そんな事ない。気にしちゃ駄目」
「そうだよ。これは海斗くんが悪いというよりは、どうしようもない家庭環境が悪いんだから」
「……ありがとう、ございます」
凪と清二からの励ましに、少しだけ心が軽くなる。
続きを促せば、清二が掌からパンと乾いた音を響かせた。
「つまり、海斗くんの家庭環境を変えればいいんだ。それも西園寺家が絡まないようにして、ね」
「いやまあ、それはそうですが、そんなの無理でしょう」
言葉にすれば簡単だが、これほど実行が難しい事はない。
海斗の我儘以上に解決策の見えない清二の言葉に、頷く事が出来なかった。
しかし、彼は自信たっぷりの笑みを浮かべる。
「それが、出来るんだよ」
「な、何でですか!?」
「その理由は、君の知らない君の事が関係している」
「俺の知らない、俺の事……?」
清二の言葉が全く理解出来ず、怪訝な顔で首を捻った。
海斗は記憶喪失などではないし、物心ついた時からあの母親との生活だったのだ。
今更知らない事があると言われても、いまいちピンと来ない。
「そうだ。……けれど、これは海斗くんが知らなくとも良かった事だし、海斗くんとしては受け入れ難い事でもある。それどころか、知れば君は苦しむだろう」
しわがれた頬には、海斗への純粋な心配が浮かんでいる。
清二がここまで言うからには、余程の事に違いない。
重苦しい空気がリビングを満たし、背筋に嫌な感覚が這い上がる。
「更に言うなら、この逆転の一手は海斗くんに別の付加価値を付けるだけだ。身も蓋もない事を言うと、誰かに甘えるという状況は変わらない」
「そう、ですか……」
結局、海斗は自分の力だけでは何も変えられない。
何がどうなって西園寺家以外の人に甘えるのかは分からないが、やはり都合良くはいかないらしい。
自らの情けなさに、テーブルの下で拳を強く握り込む。
「それでも海斗くんの望みを叶えるには、これしかない。全てを知って、傷付いて、受け入れたくない事を受け入れて、なお前に進む覚悟はあるかい?」
「俺は――」
解決策など無いと諦めていた所に伸ばされた、希望の糸。
それを掴んで海斗が得られるのは、幸福だけではない。
何を言われるか分からないし、恐怖もある。結局誰かに甘えてしまうのだという、無力感もある。
だが、最早海斗に道は残されていないのだ。子供の我儘を通すのならば、傷付く事を許容しなければならない。
覚悟を決め、真っ直ぐに清二を見つめる。
「俺は、それでも進みたいです。凪さんの隣に居る為に」
「海斗……」
不安に揺れるアイスブルーの瞳に、心配は要らないと微笑みを向けた。
海斗が前に進んだからか、清二が今日一番の嬉しそうな笑みを見せる。
「その言葉を待っていたよ。それじゃあ、
「清二さんが話すんじゃないんですか?」
「いや、これは
「は、はぁ……」
どうやら清二は何らかの手を使って、海斗に隠された事情を知ったらしい。
気にはなったがどうせ西園寺家の力だろうし、尋ねても答えてくれないはずだ。
諦めの気持ちで苦笑すれば、清二が柔らかく笑む。
「頑張って話してくれてありがとう、海斗くん」
「いえ。俺の方こそ、本当にありがとうございました」
海斗がこうして気持ちをぶつけなれば、清二は解決法を提案すらしなかっただろう。
感謝してもしきれないが、少しでも気持ちを表す為にテーブルへ頭を付けるのだった。
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