生贄の少女と森の狼様

歪牙龍尾

生贄の少女と森の狼様

「やはりこの子を生贄にするしかない」

 森に隣接したとある小さな村で、一人の少女を取り囲んだ村人達が誰からともなくそう言った。

「悪いなロウェア。これは必要なことなんだ」

「どうして、わたしなんですか?」

 ロウェアと呼ばれた少女は村人達に手足を縛られながら、悲しみの混じったか細い声で問いかける。頬に涙を流すロウェアの姿に村人は顔を背けた。

「お前のその不気味な目はきっと呪われているに違いないからだ。最近、森に人を襲う危険な魔物が増えてきた。加えてこの前出て行った商人が行方不明だ。森の狼様に生贄が必要なんだよ」

「悪いこと、してないのに……」

 ロウェアがボソリと呟く。しかし村人達はそれ以上話を聞こうともせず、ロウェアを担ぎ上げるて森の深くにある祭壇まで運んだ。


「さむい……。もう、夜なのかな」

 祭壇に寝かされたままのロウェアが目を開く。ロウェアの目には白い部分はなく、夜空のような黒とその中で無数に輝く星のような光で埋められていた。

 その目は世界を映さない。ロウェアが認識できるのは、目の表面と同じ闇と無数に輝く光だけだ。

 それでもロウェアが目を開いたのは、閉じたままの視界ではその輝く光さえもない暗闇だったから。森深くという寂しさに、少しでも光という希望が欲しかった。

「いま、何か聞こえた……?」

 目で世界を認識できないロウェアにとって、音こそが周囲の輪郭を探る唯一の手段だった。

 そんなロウェアの耳に茂みが何かと擦れたような音が微かに届く。けれどその一瞬では、輪郭を捉え切ることはできなかった。

「誰かそこにいるの?」

「この闇で、わかるのか」

「わっ……!」

 音で探ろうとするよりも先に低い男性の声が返ってきてロウェアは驚きに声を漏らす。見えもしないままロウェアは恐る恐る辺りを見回した。

「誰?」

「それは私の質問でもあるんだが……。私はルピナスだ。君は?」

「わたしはロウェア」

「そうか。ロウェア、君はこんなところで何を?」

 ルピナスが近くまで寄ってくるのを音で感じて、ロウェアはそちらに顔を向ける。一人でなくなったことにロウェアは少し安心していた。

「わたし、生贄にされたんです」

「生贄だと? ……はぁ、そういうことか」

 ルピナスは深く溜め息を吐き出す。そしてごそごそとロウェアを縛りつけていた縄を解いた。

「これで自由だが……。生贄にされたというなら帰ることもできないか。どうして君は生贄に?」

「この目が不気味だからって」

「目だと? ……これは驚いた。そうか、その人達はその目の価値を知らなかったようだな」

 ルピナスが近くに寄る気配を感じてロウェアは少し身を竦める。するとルピナスは「驚かせたか」と温かな手でロウェアの頭を優しく撫でた。

「その……目の価値って何ですか?」

 少し怖がりながらもロウェアは手の温もりに少しだけ気を許して問いかける。するとルピナスは考えるように少しの間小さな唸り声を響かせた。

「君は魔法を知ってるか?」

「ええっと、火とか水を出したり……奇跡みたいなことを起こせる力ですよね?」

「まぁ、それでいいか。では、魔眼は?」

 ルピナスの言葉に一瞬だけロウェアは空を見上げるように顔を傾ける。そうして少し魔眼という言葉の語感を頭の中で噛み砕いてから、ロウェアは小さく首を横に振った。

「知らないと思います。たぶん」

 少し不安そうにロウェアの声が震える。唯一の希望であるルピナスから失望されるのが、ロウェアは怖かった。

「そうか。魔眼は、魔法の力が宿った目のことだ。見た物を石に変える石化の魔眼などが有名だな」

「石に……! それは、怖いですね」

「確かに恐ろしいかもしれないな。だが魔眼など理論上の存在でしかない。御伽噺でしか聞かない伝説のような物だ」

「物語の中だけの物ってことですか?」

「本来ならな」

 ルピナスはそこで一度言葉を切ると、ロウェアの頬をそっと手で撫でる。その指先は目の下をなぞっていた。

「ここまで話せば何となく察せるかもしれないが、君の目は魔眼のようだ。それも魔宝の魔眼と呼ばれる特別な目だな」

「まほうの魔眼」

 初めて聞いた言葉をロウェアはたどたどしく繰り返す。その発音を聞いてルピナスは小さく笑い声を漏らした。

「魔の宝と書いて魔宝だ。純粋な魔素が目に集まっただけの魔眼。その目は手にした者の願いを叶え、そして綺麗な宝石になるらしい」

「宝石に……! それって、わたしの目はどうなっちゃうんですか?」

「どう、なるんだろうな。魔眼の伝説で知るのはそこまでだ。宝石としての伝説もあった気がするが、そちらではその目は既に……」

 ルピナスはそこで誤魔化すように軽く咳払いをする。けれど、言われずともロウェアはその先に続く言葉がわかってしまった。

「取られた後、なんですね」

「悪いな、怖がらせるつもりはなかったんだが」

 ルピナスが困ったように息を漏らすのが聞こえてロウェアは小さく首を横に振った。

「大丈夫です。……ルピナスさんからは優しい音が聞こえますから」

 ロウェアはルピナスの胸の辺りに顔を寄せて小さく微笑む。トクトクとゆっくり命を刻むルピナスの雄大な心音は、ロウェアにとって聞き心地のいい物だった。

「優しい音……。もしや君は魔眼のせいで目が見えないのか?」

「その魔眼が理由かは知りませんが、村の人達のようには見えてはいないみたいです」

「そうか、だから……」

 何かに気がついたようにルピナスが息を呑む。そして小さく息を吐き出すと、ルピナスはロウェアの頭を撫でた。

「辛かったろう。その状態で生贄にまでされるとはな」

「悲しいとは、思います。ずっと呪われるてるとか、拾わなければよかったとか言われてきましたから。けれど、川辺で拾っただけの赤ん坊をここまで面倒を見てくれたことに感謝もしてるんです」

「恨んではいないのか?」

「そう、ですね。酷い目にあって欲しいとは思えません。追い出されても、あそこはわたしの故郷ですから」

「君はいい子だな」

 温かい手がそっとロウェアの頭を撫で続ける。親という存在も知らずに疎まれながら村で育ってきたロウェアにとって、その温かさは初めての物だった。

「これから、わたしはどうなるんでしょうか」

 ぽつりと、ロウェアの不安が口から漏れる。帰る場所を失ってしまったロウェアは、この先の未来を欠片も思い描けなかった。

「不安になることはない。私はここで君を放り出すほど無責任ではないからな」

「それなら、ルピナスさんがわたしをもらってくれるんですか?」

 小さく首を傾げてロウェアは星空のような瞳でルピナスを見上げる。

 瞳を埋める闇に吸いこまれそうな心地がしてルピナスは一瞬目を逸らすと、少し困ったように息を漏らした。

「もらう……。その表現は少し誤解を招きそうだが、そうだな。君が居たいと思う場所に辿り着くまでは同行しよう。私は暇なのでな」

「それなら、よかったです」

「あぁ、だから安心して今は寝るといい」

「でも、森には魔物が……」

「大丈夫だ。この森に魔物はもういない。足音も何も聞こえないだろう?」

 そう言われてロウェアは耳を澄ました。聞こえるのは風の音と、風に揺らされる草木のさざめきだけ。人を襲うような魔物どころか他の生き物さえいる気配はなかった。

「そもそも魔物がいたら、私が来る前に君は襲われているだろう」

「それは……確かにそうですね」

 ハッと目を見開いてロウェアは小さく頷く。そこでルピナスに薄めの布をかけられて、ロウェアは見開いた目をぱちくりと瞬かせた。

「私の外套だ。これで少しは暖かいだろう」

「何から何まで、ありがとうございます」

「気にするな。子どもは大切に保護されるべきだ」

 最後にもう一度ルピナスに優しく頭を撫でられてロウェアは目を閉じる。じんわりと暖かい外套に包まれて、ロウェアの意識は安らかな闇に落ちていった。


「……まだ目は覚さないか」

 日が少し出てきた明け方、ルピナスは隣で穏やかな寝息を漏らすロウェアを見つめてゆっくりと息を吐き出した。

「いつか故郷に帰ってきた時に、村が無くなっていたらこの子は悲しむだろうな」

 起きないようにそっとロウェアの頭を撫でながら、ルピナスは村のある方向へと視線を向ける。ルピナスはそちらの方向から濃い血の匂いが漂っていることを感じ取っていた。

「昨日ここに来る前に狩人を見たな。もし、彼らが魔眼の噂を聞いていたとしたら……」

 魔宝の魔眼を求める者は多い。何かしらでロウェアを知った者が村を襲いに来ていたとしても不思議はなかった。

「私に、守れるだろうか」

 自らの手を見つめてルピナスは小さく呟く。その手は強靭で力強いことをルピナスは自覚していたが、敵の血に塗れるだけで守ることに使ったことはなかった。

「んぅ……」

「いや、この子の笑顔は守らなければならないな」

 寝ぼけたままルピナスの手を抱くように引き寄せたロウェアの顔を見て小さく呟く。その言葉は決意に満ちていた。

 ルピナスはロウェアの手から自らの手をそっと引き抜くと、近場の石を拾い上げる。そして囁くように魔力をこめた唸り声を漏らすと、その石をロウェアの側に置いた。

「さて、行くとするか」

 立ち上がったルピナスは村に向けて一歩を踏み出した。次の二歩目で走りに、そして四歩目でルピナスは前傾姿勢になると八歩目から四つ足に変わる。そして十歩目を踏み出す時にはルピナスは大きな狼となって森を駆け抜けていた。


「おい、早く言わないともっと酷い目にあうぞ」

 村の中、身体に鱗を生やした男が剣を片手に村人を怒鳴りつける。対する村人はその身に無数の切り傷を刻まれ、血を垂れ流していた。

「し、知らない! なんだ魔眼って!」

「あぁ? 俺達この前聞いたんだよ、ここから来た商人に星空みたいな目の少女がいるってよぉ!」

「星空……ロウェア? あの呪われた子なら生贄になって今頃森の狼様に食われてるはずだ! だからもういいだろ! 話すことは話した、もうやめてくれ!」

 身を竦めながら村人は震えてそう懇願する。しかし鱗の男は気にした様子もなく剣を振り下ろして、村人に新たな傷を刻みこんだ。

 村人は痛みに叫び声を響かせて、涙を流す。突然村にやって来た男に何故襲われているかもわからないまま、村人は死が近づいていることを悟った。

「生贄とか馬鹿にしてんのか? それともお前達が馬鹿なのか? まぁ、いいや。もう要らないよお前」

 鱗の男が剣を振り上げる。その剣先が振り下ろされる先は村人の首だった。

 死ぬ。そう村人が認識した瞬間、森から現れた何かが剣を弾いた。

「うぉっ! なんだお前!」

 突然を剣を弾かれた男が驚いて見つめた先にいたのは、大人をも越す体高の狼だった。

「……森の狼様だ! 狼様が助けに来てくださった!」

「は? いや、どう見てもこいつは俺と同じ魔族だろ」

 感激する村人を見つめて男は奇妙な物を見るように顔を歪める。

 そんな二人の目の前で、狼は姿を変えた。それは立ち上がった狼だ。人にも近い造形ながら、けれど毛皮と鋭い爪を持つ手足。そして一般的な成人を超える体躯の上に乗る顔はそのまま狼だった。

「そうだな、私はただの人狼だ。お前は蜥蜴人か」

「見りゃわかるだろ。それより邪魔してきやがって何のマネだ? 崇められて守り神気取りか?」

「そんなつもりはない。ただこの村の者を殺されると不都合でな」

 そう言って人狼が村人に振り返って小さく唸り声を漏らす。その声を受けて村人は恐れに震え上がった。

「狼様が、魔族? ……いや違う、きっとあの子が魔族を誘き寄せたんだ!」

 村人は恐怖から逃避するように妄想を口走る。その様子を眺めた人狼は、より低く唸り声を響かせた。

「早く逃げるがいい。私の気が変わらない内にな」

「おいおい、逃すかよ。俺の名はハイドラ。ハイドラ猟団の団長だぜ? 今日ここが狩場だって決めたからよぉ。誰も逃さねぇんだわ!」

 そうハイドラが叫ぶと同時に村のあちこちに蜥蜴人を含む魔族が現れる。魔族達に追われて泣き叫ぶ村人達を眺めて人狼は小さく舌打ちをした。

「私はルピナス。今はただのルピナスだ。悪いが、この村は守らせてもらうぞ」

 唸り声を響かせてルピナスはそう吠えると、その姿を大狼へと変えてハイドラへと飛びかかった。


「……朝、かな?」

 何かの遠吠えを聞いたような気がして目を覚ましたロウェアは周りを見渡して小さく首を傾げた。

「温かい」

 差しこむ陽光に触れたロウェアはその感覚で朝を確認すると、耳を澄ましてルピナスの姿を探る。その瞬間、かたりと近場の石ころが揺れた。

『聞こえるか、ロウェア。私は少し用事があってその場を離れている。すぐ戻るから、待っていてくれるか。もししばらく待っても私が来なければ、村とは反対へ先に進んでいてくれ』

「……えっ、えっ?」

 聞こえてきたルピナスの声にロウェアはあわあわと慌てながら声の聞こえた方を見えない目で凝視する。そこにあるのは先ほど揺れた石ころだ。間違いなくロウェアの耳は石ころからルピナスの声が聞こえると認識していた。

「もしかして、魔法?」

 初めての現象に少しだけわくわくしながらそう呟いてロウェアは石ころを指先で突く。すると石ころが再びルピナスの声を響かせた。

『驚いたかもしれないが、これは私の魔法だ。声や音を使った魔法は得意だが、このように精密な作業は苦手なようだ。これ以上のことは残す余裕がない。どうか無事でいてくれ』

「わぁ! 凄いです!」

 誰にともなく呟いてロウェアは石ころを大切そうに懐にしまう。それからロウェアはルピナスの気配を探ろうとして、森へと耳を澄ました。

「……これは?」

 ただルピナスが近くまで戻ってきてないかと探ろうしただけのロウェアは、村の方から金属音や叫び声を聞いて小さく首を傾げた。

「どうして悲鳴が? あれ、この声……!」

 より深く音を探ろうと耳を澄ました瞬間、ロウェアは低い唸り声を聞いてハッと目を見開く。それは時折ルピナスが漏らす唸り声と似た響きをしていた。

「どうしてルピナスさんが村に? それに悲鳴……。行かなきゃ」

 何が起こっているか理解できないながらもロウェアは不安に駆られて村へと歩き始めた。

「おかしい……。知らない人達の声がする」

 向かうにつれて聞こえる音の中に知らない声が混じり、ロウェアは焦燥感を募らせる。歩きから小走りにまで速度を上げたロウェアは、村と森の境界にまで辿り着いた。

「なに、これ……」

 ぱちぱちと何かが燃える音と人々の悲鳴。その惨状を示すかのように、煙と血の混じった匂いまでもがロウェアを襲う。

 周囲を音で理解できるロウェアは、近場で倒れ伏す人々の姿まで認識していた。

「おいおい! 威勢はいいが何もできてねぇじゃねぇか! ルピナスだっけか、魔法はどうした? 俺みたいに人の肉が供物に必要なのか? だったらそこの村人を食っちまえよ。じゃなきゃ死ぬぜぇ?」

 荒々しい声の中にルピナスの名を一瞬だけ聞き、ロウェアはその方向へと顔を向ける。けれど悲鳴や火の音が入り乱れる村の中をロウェアは認識することができなかった。


「私は魔法を使わない。使うわけにはいかない」

 ロウェアから少し離れた場所で、傷から溢れる自らの血に塗れたルピナスは荒く息を吐き出す。その視線は周囲の村人に向いていた。

「おいおい、魔法も使わないで勝つ気かよぉ! 笑わせんなよなぁ!」

 ハイドラがそう言って振り下ろす剣から水の刃がルピナスへと飛来する。ルピナスはその刃を避けようとして、後ろに村人がいることに気がつくと刃を体で受け止めた。

「ぐぅ……」

 唸り声が口から漏れる。いっそのこと咆哮を轟かせてしまいたい気持ちに駆られ、しかしルピナスは首を横に振った。

 ルピナスの咆哮は魔法となるのだ。咆哮魔法は人の体を弾けさせる破壊力と、村一帯を容易に包みこむ範囲を持っている。しかしその効果は無差別だった。

 ルピナスが魔法を使った瞬間に、魔族達は全て塵となるだろう。だがそれは守るべき村人達にも当てはまることだった。

「……やはり私は、破壊することしかできないのか」

「あぁ? なんだって?」

 小さく漏らした声にハイドラが反応する。その瞬間のことだった。

「ルピナスさん! どこにいますか!」

 ロウェアの声がルピナスの耳に届いた。


「ロウェア、どうしてここに!」

 そう叫び返したルピナスの声が、一瞬だけロウェアの耳に入る。けれどその声は瞬時に他の音に掻き消されてしまった。

「どうしよう、どうすれば……」

 何が起きているかも、ルピナスがどこにいるのかもわからない現状にロウェアは頭を抱える。

 危ない状況であることはロウェアも雰囲気から察していた。だからこそ、ロウェアはルピナスを探す。唯一優しい音で迎えてくれたルピナスと共にいたいとロウェアは願った。

「そうだ、願い……」

 願いを叶える魔眼の話を思い出してロウェアはそう呟く。ロウェアはルピナスを見つけられるだけでよかった。ルピナスの声を手繰り寄せられる力が欲しいと、ただそう目に願う。

「お願い。今くらい、私を助けてよ……」

 村人から嫌われる理由でもあった目に、憎らしいとさえ思っていた自らの目にロウェアはそう願う。その瞬間、ロウェアの視界を埋め尽くしていた闇が眩く輝いた。

「うぅ……」

 無意識に目を閉じたロウェアはそこで自らの変化を悟った。周囲の音がまるで糸のように【見える】のだ。そして見ながら意識するだけでその糸を動かせることに気がついた。

「これは、木が燃える音?」

 近場で漂う糸に視線を移して手繰り寄せたロウェアは、その音の正体を理解して遠ざける。するとその音がロウェアから離れて聞こえなくなった。

「……もしかして、これなら」

 ロウェアはあらゆる音の糸を引き寄せては遠くへと押しやった。

 村人の悲鳴が消え、見知らぬ男達の笑い声が消える。風の音や木々の騒めきも消え、そうして手繰り寄せた赤い糸にロウェアは小さな唸り声を聞いた。

「あった……! ルピナスさん!」

「ロウェア、これは一体……」

 突然に音が遠く消え去り静寂に包まれた中、響いたロウェアの声にルピナスは疑問の声を漏らす。その声の糸が凄まじい勢いで動くのを見て、ルピナスが誰かと戦っている最中なのだとロウェアは理解した。

「魔眼に願ったんです! ルピナスさんの声が聞きたいって! そうしたら音を操れるようにーーあつっ」

「どうした、ロウェア!」

 話す最中にその身を熱さに包まれたロウェアは集中力を失う。その瞬間、全ての音が戻ってきたことでロウェアは火が近くまで来ていたことを理解した。

「大丈夫です、少し火が近かっただけで……。それよりもルピナスさんは大丈夫ですか?」

「私は、大丈夫だ。それよりもロウェアは音が操れるのか?」

「そう、みたいです」

 ロウェアはルピナスと自分の周囲の音だけを手繰り寄せて言葉を交わす。

 魔眼によってロウェアはまるで見るようにルピナスの戦いの様子がわかっていた。

「何かしているみたいだが、お前の魔法はこれか? 音を消して何になるんだぁ?」

 馬鹿にするように笑ったハイドラの振り下ろす剣から水の刃が放たれ、逃げ惑う村人が悲鳴を漏らす。その声を聞いたルピナスが刃から村人を守るように立ち塞がるのが見えてロウェアは小さく悲鳴を漏らした。

「はは! これが一番簡単だなぁ!」

 ルピナスの体から血が溢れる音に続いてハイドラの下卑た笑い声が響き、ロウェアは思わず耳を塞ぎたくなる。けれどルピナスから目を離すわけにはいかないと、ロウェアは恐怖に震える体を自ら抱くように支えた。

「心配しなくていい。それよりもロウェアに頼みがある」

「頼みですか?」

 落ち着いた声音で呟くルピナスの声を自分だけに引き寄せて、ロウェアは少しだけ冷静さを取り戻しながら自分の声を送る。

 焦りを感じさせないルピナスの声と、優しい鼓動の音がロウェアを安心させてくれた。

「合図をしたら私の声が村人や君にも向かわないようにしてくれないか」

「わかりました。けれど、どうして?」

「私の声は魔法なんだ。聞いた者は死ぬだろう。君や村人を巻きこみたくないんだ」

「死ぬ……。わかりました」

 見えていないことさえ忘れてロウェアは小さく頷く。そして合図を聞き逃さないように集中してルピナスの戦いの様子を見守った。


「魔眼の力を信じるしかない、か」

 ルピナスは鋭く息を吐き出しながらハイドラから距離を取る。そして血に塗れた自らの左手をルピナスは右手で触れた。

「お前、何を……。いや、まさかっ!」

「そのまさかだ。私の魔法の供物は自らの血でね」

 魔族は魔法の力を成長させたり、強力な魔法を使うために供物を必要とする。供物は魔族一人一人によって違い、ルピナスの場合はそれが自分の血だった。

「自分の血だと! そんな容易な手段でいいなら、お前の魔法は……」

 ルピナスの血が虚空に消えていくのを見つめ、ハイドラがごくりと唾を飲みこんで小さく後退りする。

 供物の入手が簡単であれば、それだけ魔法は成長させやすいのだ。魔族の王が周囲に漂う魔素を供物とするように、ありふれた物を供物とする魔族ほど強い傾向にあることをハイドラは知っていた。

「いや待て、人狼で自分の血を……? まさか、そんなはずは」

 魔王についてを思い出した瞬間に、ハイドラはある人物を同時に連想して震える。

「血塗れの孤狼……!」

 それは魔王を決める戦争の中、ただ一人で名のある魔族の数々を打ち果たした人狼の二つ名だ。

「懐かしい名だな。だがその名は嫌いなんだ」

「う、嘘だ! 孤狼は戦争で死んだ!」

「死んでなどいない。戦うことが虚しくなって、戦場に行かなくなっただけだ」

 話す間にもルピナスの体を染めていた血が全て消え去り、莫大な魔力が周囲に漂う。死の気配を感じたハイドラはその身をぶるりと震わせて、歪な笑みを浮かべた。

「わ、悪かった! この村からは手を引く! だ、だから……」

「お前からは人の血の匂いがする。ここに来る前に既に食ったな?」

「商人の……。いや、それだけ! それだけだ!」

「悪いが、信じられないな」

 そう言ってルピナスはぐっと力を入れるようにその身を屈める。その構えを見た瞬間に、ハイドラはルピナスに背を向けて慌てて逃げ始めた。

「ロウェア、頼むぞ!」

 一言そう叫んだ次の瞬間、ルピナスは溜めていた魔力を解放するように大きく吠えた。

「----!」

 音というよりは衝撃に近い咆哮が放たれる。普段ならば球のように広がるはずのその衝撃が、何かに操られるように村人とルピナスを避けて広がった。

 轟音と衝撃。咆哮に触れた全ての物が爆発する様に塵と化す。そしてその衝撃が空へと霧散し終えた時、村からはルピナスを除く全ての魔族が消え去っていた。


「はぁ……、はぁ……」

 荒く呼吸をしながらロウェアは村の様子を眺める。咆哮の衝撃で火も消え、見知らぬ者達も消え去った村には沢山の村人が倒れ伏していた。

「みんな、生きてる」

 倒れた村人達は怪我こそしていたが、その誰もが息をしている。ルピナスが村人に向かう攻撃を駆けながら引き受けた功績だった。

「よかっ、た」

 魔眼の使用によって疲れ果てたロウェアがふらりと倒れる。その瞬間、温かな手がロウェアの身を抱き抱えた。

「大丈夫か、ロウェア」

「ルピナスさん……。大丈夫、ですよ?」

 安堵するような笑みを浮かべたロウェアがルピナスを見上げる。その瞳に浮かぶ星のような光の一部がきらりと赤く煌めいた。

「その目は……。そうか、宝石になるとはこういうことなのか」

「変わりました、よね。ルピナスさんの声が聞きたいと願ったら、こうなってました」

「痛くはないのか?」

「大丈夫です。それより、ルピナスさんの怪我は?」

 ロウェアの手がルピナスの体をなぞる。柔らかな毛皮に触れた手はふかふかとした感触と温かさに包まれた。

「もう私の怪我は治った。それよりも驚かせたと思うが」

 そこまでルピナスが述べた瞬間、ロウェアがへろへろと力を抜きながらルピナスに寄りかかると優しく微笑んだ。

「よかったぁ」

 心底安堵したようなロウェアの表情に少しだけルピナスは困惑する。

 声を聞いていたのならば、ロウェアはルピナスが魔族であることも人狼であることも知ったはずだ。それなのに、優しく笑える理由がルピナスにはわからなかった。

「怖くないのか? 私は、人狼だぞ」

「怖くないですよ。優しい音がしますから」

 ロウェアはルピナスに抱き寄ってその鼓動の音を確かめる。雄大な音は変わらないが、その鼓動は少しだけ早まっていた。

「人を容易に殺せてしまう、化け物だぞ」

「でも、わたしも村のみんなも生きてます」

 ロウェアは感謝をこめるようにルピナスを抱きしめる。

 今まで恐れられる存在でしかなかったルピナスはロウェアとの交流が心地よかった。その温かな存在を手放したくない思いながら、ルピナスはロウェアの頭を撫でようとして自分の手を見つめる。その手は血に塗れてきた手だった。

「人ではないんだ。牙も爪も毛皮もある」

 目が見えないロウェアを騙しているような気分になって、ルピナスはそう告げる。するとロウェアは不思議そうに首を傾げた。

「立った狼さんですよね?」

 ぱちぱちとロウェアが目を瞬かせる。

 怖がられるかとも思っていたルピナスはそこでハッと目を見開いた。

「見えているのか?」

「見えません。けれど、最初から姿はわかってましたよ。音でも形はわかるんです」

「ならばどうして逃げなかった。魔族を知らないとしても、歩く狼は化け物だろう?」

「最初は少しだけ怖かったですよ。けど、ルピナスさんはわたしに優しくしてくれました。逃げる理由なんてありません」

 ロウェアは輝かしいまでの笑顔を浮かべてルピナスを見つめる。その笑顔を疑う理由はないと、ルピナスは小さく頷いた。

「そうか……。君は、こんな私でも側にいてくれるのだな」

「ルピナスさんが嫌じゃないなら、わたしはずっと貴方の側にいたいです」

「君がいたいと思う間は、側にいてくれていい。その間は君を私が守ろう。これでも私は強いからな」

 抱きつくロウェアを優しく抱き返しながらルピナスは小さく微笑んだ。


「さて、ではそろそろここを出るとするか」

「そうですね。でも村はこのままで大丈夫でしょうか?」

 しばらく静かに休んでいたルピナスがロウェアを抱えたまま立ち上がると、ロウェアが村を見渡して少し心配そうに首を傾げる。

 倒れ伏していた村人達は既に一箇所に集まりルピナスを遠目に見ていたが、ロウェアのその声を聞いてその中から村長が前に出た。

「私達のことならば気にせずともよい。それよりも早くその魔族を連れてこの村から去ってくれ」

「村を助けた私達に言う言葉がそれか?」

 村長の言葉を聞いたルピナスが小さく唸り声を漏らす。その音に村長は僅かに震えながらも、忌々しそうにロウェアを見つめた。

「助けてくれたことは感謝しておる。だが奴らはロウェアを探しに来ていたではないか。この子がいなければこんなことにはならなかったのだ!」

「違うな。奴らは元々人狩りだ。ここまで来ていたのだから、ロウェアがいなくともお前達は襲われていた。その兆候はなかったか?」

 ルピナスが呆れたように言うと村長はその表情を曇らせた。

「確かに村に来ていた商人が行方不明になっていたが……」

「奴らが食ったのはその商人か。ならばその商人とロウェアに感謝するといい。奴らがロウェアを探そうとしてなければお前達は即座に殺されていたぞ」

「そ、そんな馬鹿な! いや、そもそも我らには森の狼様の守護がある! こんなことが起きたのはやはり呪われたその子のせいだ!」

 村長がそう叫んだ瞬間、ルピナスはその身を大狼の姿に変えて吠えた。

「その姿は……!」

 村長はルピナスの姿を見て大きく目を見開くと、わなわなと震えた。

「昔に一度見た森の狼様と同じ姿じゃと? ならばあの時の狼はお主だったのか?」

「そうだ。それで誰の守護があると? お前達が平和に生きてこられたのは偶然だ。私の狩場の一つが村近くの森で、私が人を害する気がなかっただっただけのこと。何もなければ私は村が魔族達に襲われていたことも知らなかっただろう」

 ルピナスが姿を人へと戻してちらとロウェアを見つめた。

「ロウェアがいたからこそ、私は村の異変に気がついた。彼女を悲しませたくないと、村を助けた。それでも、お前達はロウェアに感謝の一つもないのか?」

「そ、それは……」

 村長が汗をたらりと額から垂らしながら言い淀む。

 するとロウェアは小さく首を横に振って、ルピナスの手を取った。

「いいんですよ、ルピナスさん。わたしは感謝を求めてません。それに村を救ったのはルピナスさんです。感謝されるなら貴方の方ですよ」

「君はいい子だな」

 ルピナスは笑ってロウェアの頭を撫でると、毒気の抜かれた顔で村長を見つめた。

「ということだ。私も感謝は必要ないからな。ここからこの子と去るとしよう」

「あ、あぁ。いや待て、一つ聞かせてくれぬか。どうして魔族達は我らを生かしてまでその子を求めたのだ」

 村から去ろうとロウェアを抱えたルピナスを村長が引き留めて問いかける。するとルピナスはふと笑い声を漏らして村人達へ目を向けた。

「何を笑っておる」

「いや、ようやく人の使う呼び方を思い出したんだ。願いの宝玉だったか。わかりやすい名だと思ってな」

「願いを叶えるという数多の色に煌めく宝石のことか? その御伽噺が急にどうしたのだ?」

 村長が不思議そうに眉根を寄せる。その時、ふと村長は自分を見つめるロウェアの瞳に気がついた。

 まるで夜空のような瞳。その中で輝く無数の星屑の一部が赤く煌めいた。

「もしやその目が……」

「そういうことだ」

「ま、待ってくれ! やはりその子はこの村に……」

「それはできない相談だな。お前達が送った生贄なのだろう?」

 呆れたような視線のルピナスに見つめられ、村長はロウェアの方へと視線を移す。手を合わせて懇願するように村長はロウェアへ頭を下げた。

「ろ、ロウェア!」

「わたしはルピナスさんと一緒に行きたいです。皆さんも、元気そうなのでそろそろ行きますね?」

「待て! そうなったら我らは!」

 慌てて呼び止める村長の声を無視して、ルピナスはロウェアを肩に乗せると森へと駆けた。その姿は見る間に大狼に変わり、森の中へと消えていく。

 去って行く大狼を見つめて、村長はへたりと座りこんだ。

「儂らが、間違っていたのか……?」

 森の狼と願いの宝玉。その二つから村が得ていたかもしれない安寧と繁栄を一瞬で失った村長は、ぽつりと小さく呟いた。


「よかったのか?」

「村長さんはわたしの目を知った瞬間に、鼓動が悪い音になりました。だから、いいんです」

 大狼となったルピナスの背に乗りながらロウェアが村を一瞬だけ振り返る。そして感謝の気持ちをこめるように一度だけ目を閉じて祈ると、ロウェアは気を取り直すように前を見た。

「それよりも、これから何処へ向かうんですか?」

「そうだな、何処へ行きたい?」

「わたしはルピナスさんが一緒なら何処でもいいです」

「そうか、ならば適当に走ってみよう」

「はい!」

 ロウェアの元気よく返事をする明るい声が森の中に響いた。


 それから後のこと。星屑の魔女と呼ばれる少女と子連れの狼王と呼ばれる人狼の噂が世を騒がすことになるが、それはまた別の話である。

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生贄の少女と森の狼様 歪牙龍尾 @blacktail

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