お前を殺す

青空一星

被日常

 「死ね」という言葉は昨今使われやすい言葉だ。「殺す」という言葉もそうだろう。日常を破壊する言葉が簡単に飛び交うのが今の世だ。いったいその何割が本気で、何割は口だけの嘘言なのだろうか。


 私は人を殺したいと思ったことは一度もない。殺した後のリスクや必要性を見出だせないからだ。私はそれなりに度胸はあるし、本気になれば大抵何でもできる。


 ふと思った、「殺す」というのはどういうことなのだろう。誰もが知っていて誰もが使えるその言葉、しかし実際に殺すという事態に発展する場合は一割にも満たない、本気ではないのだ。今の私はきっと何でもできる。どこからかそんな確信が湧いてきていた。私の心はそのとき、確実に死んでいた。だから、なのだろうか。


 私は人を殺した


 そいつのことなど知らない。顔も見ていない。だが、ぽっと沸いて出た不確かな殺意によって、私は見ず知らずのそいつを殺した。


 夜の山道、歩く人影は私とそいつだけ。長身に黒スーツ、中折れハットを被って視線は落とし、こちらに歩いてくる。明かりもそう無く視界は悪い、殺せると思った。


 あまり意識させぬよう距離を開けてすれ違い、静かに振り返る。そいつと同じように歩く、少し早歩きになって近付き、持っていたナイフを背中に突き立てた。そいつは驚きと痛みで背を仰け反らせ、悲鳴をあげることさえできていなかった。


 右の手で刺さったナイフを握り直し、左手でそいつの首を鷲掴みにした。こちらを見られないように、声を出させないようにがっちりと掴んだ。


 そいつは声も出せないまま私に何度も背中を刺され続けるしかなかった。左手に伝わるそいつの筋肉の動きから、苦悶の表情を浮かべているのが容易にわかった。私はそれが嬉しくてまた何度も何度も刃を突き立てた。


 人間の生命力とは素晴らしいもので十数分はそんなことをし続けていた。背中から刺したせいかそんなに血も出ず、右手とナイフにこびり着いただけだった。それが少しつまらなかったがナイフの血を見ると、あまりの非日常っぷりに嬉しくなった。


 ぐったりと倒れ込み、呼吸はまだ浅くしている。うつ伏せに倒れたから顔はまだ見えない。腰辺りにどっかりと座って背中を撫でた。


 所々私のつけた刺し傷があって、なんだか愛おしく感じてしまう。これではまるで殺人鬼のようだなと苦笑しながら傷口にずぶりと指を立てた。


 あまり深くは刺せていないようですぐ肉の壁にぶつかった。上に下に、傷口に指を沿わせて少しだけ広げてから抜く。すると紅い紅い液体が指にも付いてきた。


 人を傷付けた証明、日常を冒した者だけが味わえるモノ。私は嬉しくて嬉しくてじーっと指を眺めていた。本物の殺人鬼ならば舐めたり顔に塗ったりするのだろが汚いのでしなかった。


 もう死んだかな?死んでいないのなら私はまだ殺人者ではない。背中をぽんぽんと叩くが返事は無い。もう一度ぽんぽんと叩くがやはり返事は無かった。


 つまらなくなったので私はそいつから腰を上げた。見下されるそいつは無様で滑稽だった。私なんかに殺されてしまうなんて哀れな人だ。


 山道の木々の中、私はポイとそいつを投げた。いい感じの窪みがあったからそこに置いて土を被せた。これでバレることはない。


 さっさと帰ってもよかったのだが、まだこの非日常の空気に浸っていたくて、そいつの埋まった土の上に寝っ転がった。わずかに死体の感触を味わった。


 辺りは静まって今の季節だから虫の声も聞こえない。何も…聞こえてこない…


 土の中へ耳をすます。大地の静けさを感じたくて…死の音を聞きたくて…


 ハァ…ハァ…ハァ…


 音が聞こえる。紛れもない生の音が


 そんなわけがない、そんなわけがない。こいつはもう死んだはずだ。それに土へ埋めたのだ。浅くとも心音など聞こえるはずもないのだ、なんせ土を被せたのだか…ら。


 なぜさっき死体の感触がした?


 ゆっくりと起き、じーっと見た。あぁ、あの紅だ。土とスーツ越しのせいで体温は感じられないが、こびり着いた紅があいつである事を物語っていた。土は薄く張られているくらいだった。


 頭をフル回転させる。そして、最も自らの生存確率が高い答えを選んだ。こいつにはきっと何か目的があり、今は私がまだ自分の生存に気付いていないと考えているのだろう。


 自分でも馬鹿らしいとは思っている。だが、この恐怖からなんとかして逃げ出したかった。


 ゆっくり…ゆっくり…と立ち上がり、駆け出した!後ろで何か音が聞こえた気もする、が、全速力で走った。


 山道から抜けて、なんとかアパートまで帰ってこれた。息も切れ切れでしんどい。


 あいつを刺したナイフを放ってきてしまったし、服も砂まみれだ。無気力のまま動いた結果にはお似合いの結果だが、あんな化け物と会うことになろうとは。


 私はただ、人を殺してみようと思っただけだったのに、これほど恐ろしい思いをするだなんて…


 鼓動がうるさい。ニヤけている自分がいた


───


 次の朝、私は起きた。普通に、五体満足で起きた。ここはいつものアパートで服もあの時のままだ。


 昨日は山にあるバーに行った帰り、あんな事態に陥った。私があんな気分に陥ったのもきっとあのバーのせいなのだろう。なぜそんな所へ行ったのかさえ覚えてはいない。もう出勤の時間だ。


 着替える時にポケットに入った紙を見つけた。「困ったらドーゾ」という言葉と電話番号が書いてあった。かなり気になったが机の上に置いて、さっさっと職場へ赴いた。


 誰にでもできる簡単な仕事。私ならもっとできる仕事があったとも思うのだが、私にはやる気が欠けているのだ。


 何をやるにも力が出ない。何も面白く感じない。つまらない時間で淡々と流す日々。平凡な私にはあの体験は最悪ではなかった。


 昼休憩、コンビニ弁当を口へ運ぶ。頭には昨日のことばかりが反芻していた。いつも空っぽな脳には冴えた栄養だ。


 結局あいつは何だったのか。人間ではない化け物。まさか本当にいるとは…ネットの掲示板などで囁かれているウワサ。超常的なナニカ。私はそれに出会ってしまっただけだ。


 そう一見冷めて見える私だが、内心かなり喜んでいる。非日常的なホンモノは存在したのだ。妄信でも嘘言でもなく、現実だったのだ。


 弁当がいつもより早く消えていく。私は生きていると久し振りに感じた。つまらない世界などではなかったのだ。この世界は!


 バッと顔を上げるとあいつが私を見下ろしていた


 距離にして10cm、間近にいるというのに顔は相変わらず見えない。黒い帯のようなものを何重にも顔に巻いているように見える。


 実はこいつなんかはおらず、私が作り出した幻のなのだと思いたかった。だが、遮られて見えない陽の光が私に現実なのだと報せた。


 こいつに見えているのだと気付かれれば一巻の終わりだ。ビクッと体を震わせそうになるのを我慢して視線を前へと戻し、スタスタと歩き始める。会社内へ入ってしまえばこちらのものだという確信があった。


 するとあいつも後を付いてくる。足音を合わせてコツコツコツと張り付いてくる。周りの同僚に目で訴えかけるも変な顔をされるだけだ。やはりこいつは人間ではない。殺されないのは人前だからで、きっといつでも私を殺せるのだ。


 震えながらもなんとか会社内に入れた。気が付くとあいつはいなくなっていて、私の心臓はもうはち切れんばかりとなっていた。あいつのことが頭から離れず、なかなか業務に集中できなかった。


 私は極力会社に留まり、外へ出ないようにして過ごした。あいつに殺されないよう慎重に。


 そして、夜になってしまった。否が応でも帰らなくてはいけない。夜の道を一人で行かなければならない。何か解決策は無いものかと頭を悩ませているとあの妙な紙のことを思い出した。藁をも掴む思いだと紙を取り出そうとしたが、もう一つ思い出した。あれは自宅に置いてきてしまったのだ。


 どちらにしろ、帰るしかないようだ。幸い会社からアパートまで遠くはない。殺されればそこで終わりだ、例えこれが報いなのだとしても死ぬのは嫌だ。頭がどうにかなってしまいそうだったが意を決して駆け出した。


 絶えずどこからか見られている気がしたし、止まればすぐにでも殺されてしまう気がした。悪寒が止まらず、何度も後悔し、泣きたくなったが、足を止めなかった。


 なんとかして私は、昨晩と同じように息も切れ切れとなってアパートの自室へと辿り着いた。


 机の上の紙をひっつかみ、電話をかけた。呼び出し音がプルルルルルと鳴る。無慈悲に、嘲笑うように、弄ぶように鳴る。


 いつまで経っても出ない。せっかく希望が見えたと思ったのに、藁が掴むより先に消え


「もしもーし、だれですかぁ?」


 間の抜けた声。恐怖の只中にいる私にとって、藁が燃えた気がした。だがそんな煙の燻る藁であったとしても、今は縋るしかない。


「昨日バーで紹介頂いた者なのですが今大変困っておりまして助けて頂けませんでしょうか!」


 相手の機嫌を損ねぬようにと丁寧を装いつつ、焦った私がとれる精一杯の第一声だった。


「名前聞いたんだけど…まあいいや。ご依頼内容はなんでしょう」


「はい。実は昨日、化け物に出会いまして、その化け物が私のことを追ってきているようなのです。なのでどうか撃退してもらえませんでしょうか」


 普通ならこんな案件、迷惑電話だと切られるものだが…ラッキー、相手も普通ではなかった。


「えぇ、よろしいですとも。うちの者達を既にお送りしておりますので、そちらの者からお話をお聞きください。それでわー」


ガチャッ


 電話は切られた。そして


コンコンコン


 同時にドアが鳴った。ドアスコープ越しに見ると、ピシッという擬音が合いそうな眼鏡をかけたスーツ姿の女性が立っていた。


 ドアを開けてお辞儀をする。


「随分とお早いんですね」


「ええ、リサーチが既に済んでおりますから」


 さも当たり前かのように応えられる。やはり怪物などを信じる組織に常識など通じないのだろう。


「それではまず、詳しいお話をお聞かせください」


 女を家に上げ、事のあらましを話した。どうせ知られているだろうから殺したはずということも話した。


「それはさぞ恐ろしかったことでしょう。撃退とのご要望でしたが、殺害・捕縛・追い払いのどちらがお望みでしょうか」


 淡々と女は語った。恐らくもう、怪物についても調べがついているのだろう。女の目を見ているとなぜだかそんな確信が持てた。


「…では───」


 裏世界の者との会合、そして化け物に狙われているという非日常的快感を欲しいままにしていた。それが終わってしまう事が私は酷く悲しかった。

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