第28話
出勤前に歯を磨きながらテレビを見ていると、ワイドショーのキャスターが台風の接近を伝えていた。大型で非常に強い台風が、小笠原の近海を自転車ほどのゆっくりとした速さで北に進んでいるという。台風が海の上で必死にママチャリをこいで、彼方に見える富士山を目指している姿を想像し、思わず心の中で応援してしまった。
マンションを出ると、確かに風が心持ち強く感じられた。帰りまで空がもつと良いのだが。もし電車が止まってしまったら、帰りはもちろんタクシーを使うしかない。幸いにして、警備員だった頃と比べれば、収入は格段に上がった。ダグザでは、給料が銀行振り込みではなく現金で手渡される。密着ドキュメントが追い風となって、先月の売り上げは店で八番目だったので、給料袋がその厚みによってテーブルの上に立った。仕事が順調にいくと、そういうことが起こり得るという都市伝説的な話は、入店した初日からすでに聞かされてはいたが、現実にそれが我が身に起ころうとは、生まれながらのペシミストには想像すらできなかった。
一八時の開店時刻を迎えても、客足はまばらである。やはり台風の影響は避けられないようだ。
もし電車が止まったら、タクシー代はお客さんの分まで店が出すのだという。ケンちゃんの
空がこんなに重たい鉛の色をした日に、やめておけばよいのにと思ってしまうのだが、髭森氏率いる撮影隊はめげずに来ている。
『密着ドキュメント 新人ホストの長い一日(前編)』は、視聴率が良かっただけではなく、その内容が局内外で高く評価されたそうで、クルーも、より一層気合いが入っているように思われる。我々は全く知らなかったのだが、髭森氏は、その世界では名の通った
開店して一時間ほどで、蘭丸と私のコンビに指名が入った。指名したのは、ニューハーフのマナティーと、SM嬢のサクラである。人工雪で冬眠してしまったシエラを、蘭丸と一緒に介抱してくれた人たちだ。キャバ嬢かと思っていた若い女性が、実はSM嬢だったのだ。
「台風で干上がってると思って来てあげたのよ。あんたたち、一生感謝しなさい」
マナティーが、ダグザの入り口で配っている
「そぉよぉ、女王様にきっちりご奉仕してよぉ」
サクラは、たった今、人を食ってきたところかと思うほど真っ赤なルージュを引いた唇に、メンソールの煙草をくわえながら言った。
「なに言ってんスか、サクラさんMのくせに」
蘭丸がサクラの煙草に火をつけながら言った。
サクラは蘭丸の頭を、競技かるたの勢いでたたいた。
「あ痛てっ。サクラさん強過ぎッス」
この二人の客は、撮影隊にとっても、貴重な客であろう。事前に撮影可否を確認されたとき、二人ともモザイクなしで構わないと言い放ったそうだ。カメラを担いだ髭森氏の腰の構えが、いつもと違うような気がする。
「それにしてもレオン、あんた、ホストが板についたわねぇ」
「みなさんのお蔭でぇす。イエイッ。踊れ、踊れーえ」
「バカ、踊んないわよ。あんた、元の人格どこの車両に置き忘れてきたのよ、まったく」
「でも、ホントはイケメンだったのねぇ、レオンって。岩盤浴で会った時は、死ぬほどダサかったのにぃ」
「いや~、イケメンなんて、照れるなぁ~。もっとみんなに聞こえるように選挙カー使って言ってよ~」
「ホントはバカだったのね、レオンって。岩盤浴ではお利口だと思ってたのにぃ」
「オレが見抜いてスカウトしたんスよ。すごくないッスか」
「蘭丸、そのレオンに売り上げ抜かれちゃったんでしょお。やばくなぁい?」
「サクラさん、そこ触れますか。
「音速でナンバーエイトになった大型新人レオンでぇす。エイトマーン! 古いよ、おいっ。つまらないボケは自分で処理。マナティーさん、サクラさん、何飲みますかぁ?」
「ワタシ、梅サワー」
「アタシ、ビール飲みたぁい。
「梅サワー富美男とルービーコンチネンタルですね。カシコマラジャー。レオン一号発進!」
「二号はどこにいるのよ」
オーダーを伝えに厨房に向かう。その私を、カメラを担いだ髭森氏が軽快に追う。
ちょうどそのとき、ドアチャイムがカランコロンと鳴って、外の強風から逃げるように身をかがめて、一人の客が入って来るのが見えた。
「いらっしゃいませー」
思いっ切り営業スマイルを作って挨拶をすると、顔を上げた客と目が合った。
人工笑顔が、石膏のように固まった。
「シエちゃん……」
額に貼り付いた前髪から水が
「ち、ちょっと、待ってて」
厨房まで行ってオーダーを伝えると、おしぼりを三本持ってシエラの元に急いで戻る。
すると、他のホストがすでにシエラの応対をしていた。髭森氏も加わっているところを見ると、撮影許可の話をしているのだろう。
シエラはレインコートを脱ぎながら、うなずいたり首を横に振ったりしている。
やがて髭森氏は二人から離れ、カメラを回し始めた。二人の話も一段落したらしく、同僚は私の方に顔を向けると、口の動きで「知、り、合、い?」と尋ねた。私は彼の目を見てうなずいた。
一人になったシエラに、おしぼりを渡す。
「はい、これ。よかったら使って」
この手を使われることを、実はずっと恐れていたのだ。これをやられると、もう逃げようがない。
「今、接客中で抜けられないんだけれど、どうする?」
「待ちます」と、低い声。
「じ、じゃあ、申し訳ないけれど、そこの椅子に座って
フロントのソファにシエラは黙って腰かけ、おしぼりで顔や腕の雨滴をぬぐう。
テーブルに戻ると、梅サワーとビールがすでに届いていた。蘭丸の前にもコーラが置かれている。
「どうしたの。遅かったじゃない」
マナティーに問われたので、「実は」と言って、事情をありのままに話した。
「あら、それならここに連れて来なさいよ。アタシたちは全然構わないわよ。ねえ、サクラ」
「うん、全然いいよぉ」
「どうもありがとうございます。では、ご厚意に甘えさせていただきます」
「すっかり元に戻っちゃったわね」
「しまった」
「いいわよ。早く呼んで来なさいよ」
「はい」
シエラを連れてテーブルに戻った。
「お久しぶりぃ。お元気ぃ?」
サクラがシエラに声を掛けた。
「イイエ、元気じゃないです」
一ミリの段差につまずいて、危うくテーブルの上にダイブしそうになる。
「あら、どうして元気じゃないの? 彼氏が優しくしてくれないのかしら」
マナティーが流し目で私を射る。
「ハイ、優しくありません。全然逢ってくれないんです」
シエラの視線が私に突き刺さる。
「そうなんスか。ラブラブだと思ってましたけど」
「どうして逢ってあげないのぉ、こんなにかわいいカノジョに」
蘭丸とサクラにも波状に
「いや、いろいろと、ありまして……」
髭森さんのカメラにも照準を合わされ、総身から変な液体がピューピューと噴き出る。
「まあまあ。とりあえず乾杯しましょ。五人がせっかく集まったんスから。シエラさん、何飲みますか?」
「アールグレイがいいです」
蘭丸に救われた。
息を吸って、気持ちを立て直す。
「残念だけれど、アールグレイはないよ。ノンアルコールの梅酒なんかどうかな?」
「それでいいです」
「あんたも何か飲みなさいよ」
「ありがとうございます。ぼくは、普通の梅酒をいただきます。では、エビバデー、ちょっと待ってモーメントプリーズ。チャンネルはそのままで」
「もう無理しなくていいから。早く行きなさいよ」
手の甲で額の汗をぬぐって厨房に走った。
オーダーを伝え、「大至急で」と言葉を足すと、
「ダイシキュー? ワカッタ!」と言って、アフマドは鼻の穴を広げた。
テーブルに戻って腰を下ろすと、一分もせぬうちにアフマドがやってきた。
「コッチガ……ノン…アルコール。コッチガ……アルコール」
アフマドは、シエラと私の前に、グラスをそれぞれ一つずつ置いた。
「それでは皆さん、大変長らくお待たせいたしました。今日は外が大荒れですが、中はもっと荒れちゃいましょう。せぇーのっ、カンパーイ」
ようやく五人のグラスが触れ合う。
シエラの乾杯が強過ぎて、私の梅酒は半分以上が、テーブルと床にこぼれてしまった。
シエラはノンアルコールの梅酒を一息に飲み干した。
「シエラさん、プロの殺し屋がテキーラを飲み干すみたいでかっこいいッスねえ」
「おいしかったです。おかわりください」
シエラは空のグラスを勢いよくテーブルの上に置いた。
テーブルの上にこぼれた梅酒を拭きながら、心臓がキュッと縮む。「プロの殺し屋」は、ほぼ正解である。
「あんた、雪の部屋で冬眠しちゃってどうなるかと思ったわよ。変温動物なんじゃないの、あんた」
「ハイ、そうです」
「シエラちゃぁん、あの後は幽体離脱してなぁい?」
「あれからはずっと体と一緒にいます」
背中を滝のような汗が流れる。
この人たちをまとめて黙らせてくれる人がいたら、今月の給料の半分をあげてもよい。
「レオンはぁ、どうしてシエラちゃんに逢わないのぉ。ひどいじゃなぁい」
「いやぁ、その話はR18指定なんで、ここではちょっと無理かなぁ」
床にこぼれた梅酒を、四つん這いになって拭きながら答える。
「シエラが死神で、そこのヒトを殺そうとしてるからですよ」
「シエちゃん!」
シエラ以外の全員が固まった。
シエラは逆三角形の目で私を
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