第6話

 フロントで二人分の館内着とロッカーのかぎを受け取って、ロビーのソファの前でシエラに片方を渡す。

「はい、これシエちゃんの。着替えたらここで待ち合わせね」

「これに着替えるんですか。ヤバっ」

 館内着の入ったバッグを目の前にかかげて、シエラは眉を上げる。

「そうだよ。シエちゃんはあっちの女性用の更衣室でね。鍵はなくさないように、しっかり手首に着けてね」

「分かりました。なんだかドキドキしますね」

 シエラは素直に鍵のバンドを手首に装着し、館内着のバッグを両腕で抱く。

「こっちまでちょっとドキドキしてきたよ。じゃあ、また後でね。着替えるの、ゆっくりでいいからね」 

 「女」と大書たいしょされた赤い暖簾のれんを興味深そうに眺めながら、バッグを抱いたシエラはその向こうの闇の中へと消えていった。


 銭湯は、私にとって数少ない娯楽の一つである。人の顔色をうかがうことなく、自分のペースで楽しめるのが良い。千円足らずで、たっぷり二時間は楽しめる。そんな娯楽が、二十一世紀の日本に、他に存在するだろうか。天然温泉、打たせ湯、足つぼ湯、薬湯、炭酸泉、ジェットバス、ジャグジー、電気風呂、ドライサウナ、ミストサウナ。そして、銭湯の最大の魅力が水風呂だ。サウナで限界まで暑さに耐えた後、水風呂に滑り込み、心の中で「ひゃあああ」と大声で叫ぶのだ。この瞬間が、自分のせいの価値の約四割は優に占めていると思う。 

 記憶を可能な限りさかのぼると、四歳の頃、父親に連れられて行った銭湯に辿り着く。「ゆ」とたった一文字だけ染め抜かれた紺色の暖簾をくぐる。下足入れには木製の鍵が付いている。木の質感と重みが、四歳の自分に銭湯に来たことを実感させた。そして番台。子供の視点から見ると、途方もなく高いところに番台はあった。男湯と女湯の双方を視野に収めながら、どちらにも属さないという番台の中立性が、神格的に感じられた。そして知らない人が大勢いる中で素っ裸になる解放感。四歳であってもすでに、陰部は人に見せるものではないという社会常識が身に付いていたので、これは愉快だった。そして子供の目の高さは、まさに大人の股間の位置に設定されていたから、眼前がんぜんを行き来する品々しなじなを大いに観察した。自分の興味を最も強く引き付けたのは、陰毛である。なぜあのようなところに毛が生えるのか、神のたわむれとしか思えない。加えて奇異なのは、生殖器の形状である。とても自分のものと同種のものとは思われない奇想天外なデザイン。どうしたらこれがああなるのかと、自分のものと大人のものとをきもせず交互に見比べた。

 脱衣所で大いに楽しんだ後、メインイベントが待ち構えている。もちろん風呂である。ただし、風呂に入るには危険な関門を突破しなければならない。脱衣所と浴場とを隔てる重たい木の扉は、指を挟んで泣かせることによって、少年の風呂への忠誠心の強さを測ろうとする仁王なのだ。開けるのは怖くない。恐ろしいのは閉める時である。私は十中八九仁王のペンチによってアスパラの新芽を無残にもつぶされた。指を掛ける位置を工夫すれば決して挟まれることはないということに気付き、仁王が単なる扉であると悟るまでには、ずいぶん長い月日を要した。

 木の扉を抜けると、そこは異空間であった。湯気の中で、桶をゆかに置くカッポーンという音が、私たちを出迎える。下手だが気持ちの良さそうな演歌が、湯の匂いとともに漂っている。ドボドボと湯船に湯を足す低音が、体内の全細胞に直接響く。そして視野いっぱいに広がる富士の絵。湯にかりながら、私は絵に描かれた風景の中に完全に溶け込んでいた。あれほどの包容力を持った絵を、他の場所では見たことがない。

 湯から上がれば、待っているのはコーヒー牛乳である。この世にこんなにうまい飲み物が他にあろうかと思いながら、毎度その瓶の中のライトブラウンの液体をしみじみと眺めた。実は大人になった今でも、その嗜好は変わらない。かの滋味を味わう一時ひとときが、おのれの生の価値の四割は確実に占めていると思う。そして扇風機の風を受けるためのベストポジションを見つけ、そのたえなる味の調べを味蕾みらいに記憶させながら、脱衣所の壁に貼られた成人映画のポスターを鑑賞するのだ。その都度父親がその作業を妨害する理由が、当時の私にはよく分からなかった。


 そのようなわけで、私は銭湯が大好きなので、本当はシエラと共に銭湯に行きたかったのだ。しかし、銭湯は男女別々に入らねばならぬため、デートにならない。そこでやむを得ず、男女ともに楽しめる岩盤浴を選んだわけだ。

 館内着に着替えソファに腰かけて待っていると、一〇分ほど遅れてシエラが現れた。フランス人形と館内着とのギャップが愛おしくて、この瞬間を永久凍土に閉じ込めて一万年おきに何度も堪能したいと思う。

「分かりました。ここ、お風呂ですね」

「ぼくの最大の趣味が風呂なんだよ」

「へぇ~、そうなんですか。どこで裸になるんですか?」

「ああ、お湯には入らないからその服を着たままでオッケーだし、裸じゃないから男女一緒に楽しめるんだよ。更衣室の奥には、男女別のお湯もあるんだけれどね」

「お風呂なのにお湯に入らないんですか。ヤバっ。ウケる。なんだか全然分かりませんけどオモシロそうです。早く行きましょ、行きましょ」

 シエラは、私の腕に自分の腕をからめて引っ張る。シエラの胸のふくらみが腕にあたる。こんなに躊躇ちゅうちょなくボディーコンタクトをとられたことがないので、もうそれだけで脳の血管が破裂しそうになる。酩酊めいていした状態で、そのポヨンポヨンした物件の借主に説明する。

「岩盤浴はね、色々な種類があって、それぞれに部屋が分かれているんだよ」

「どんな種類があるんですか?」

「うん。じゃあ、ぶらぶらしながら見ていこうか」

「ハイ。行きましょう」


 腕を組んだシエラが不規則に動くので、随時足を踏まれる。それがどういうわけか絶妙に痛い。

「岩盤に使われている岩石の違いなどによって、アっ、部屋は全部で七種類あるんだよ」

「ヤバっ。多過ぎませんか」

「ここが『火の』と言って、ってっ、化石黄土の部屋だよ」

「『火の湯』とかマジでヤバっ。火の湯に入ったらフツウに死にますよ。シエラは死神だから死にませんけど」

「ここが『玉の癒』と言って、ブラックゲルマニウムの部屋、こっちは『山の癒』と言って、痛ったっ、富士山溶岩の部屋、ここは『雪の癒』と言って、火照った体を人工雪で冷やす部屋だよ。そしてこっちが、痛たたっ」

「もうなんとなく分かりました。説明はもういいです。早くどこかに入りましょ」

 待ち切れなくなったシエラは、私の腕をかかえてぶんぶんと振る。

「そうだね。じゃあ、この『海の癒』から入ってみようか」


 二重になった扉を抜けると、そこにはココナッツの香りのする温かい空気と、照明を抑えた静かな空間が広がっており、ハワイアンのウクレレサウンドが薄く流れている。つるんとした黒い石の床をベースに、ゴツゴツした白色岩塩の敷かれた長方形の寝床が規則的に並んでいて、その四つに一つ位の割合で先客が寝ている。平日の昼間だからか、人は少ない。

「メガネ曇っちゃいました」

「ホントだ。それじゃ前が見えないね」

 シエラはメガネを外すと、こちらを見て微笑んだ。レンズを経由しないシエラの眼差しは、ダイヤモンドをも液体にする。

「メガネを外すと一歩も歩けません」

 そう言って、シエラは私の腕に再びしがみつく。私の体は、日向ひなたの雪だるまのごとく融けて床と同化する。

「静かですね」

「そうだね」

 さすがのシエラも、雰囲気を察してか、小声で話す。人間っぽくて少し安心する。

「ウケる。いびきをかいてる人がいますよ」

「よく眠れるね。ぼくには無理だよ。暑くて眠れない」

「シエラも眠れそうにないです。なんだか元気になってきちゃいました」

「いつでも元気でしょ、シエちゃんは。ここでいいかな」

「いいですよ。寝ましょ、寝ましょ」

「うん」

 白色岩塩をいた寝床に一歩足を踏み込むと、岩塩の触れ合うギョリッという音が鳴った。白い岩塩の上にオレンジ色のジャンボタオルを敷いて、シエラと並んで横になった。背中全体にゴツゴツした岩の刺激を感じる。二人の間には、象牙ぞうげ色の石のブロックを積んだ高さ四〇センチほどのパーテーションがある。そのため、横になるとシエラの姿が完全に隠れてしまった。それだけでもう切なくて、水深八〇〇〇メートルの海底の水圧に、胸が押し潰されそうになる。二人を隔てる石の壁を、怨念おんねんを込めてにらむ。するとシエラの手が、壁の向こうからこちらに向かってひらひらとおよいでいるのが見える。鼻の穴を拡張しながら、海中を漂うシエラの手をつかまえた。シエラの皮膚を自分の皮膚が認証した瞬間、胸を押さえ付けていた分厚い海水は、モーゼの奇跡のように二つに割れて消え失せ、直後に大量の酸素が肺へと送り込まれた。

 結ばれた二つの手は、石の壁の上に落ち着いた。

「あったかいですね。ちょー気持ちイイ」

 シエラがささやいた。

「そうだね。シエちゃんはこんな温度でも暑くはないの?」

「全然暑くないです。ちょうどいいです。なんだか走り出したい気分です」

「ダメだよ。静かにしていてね」

「わかりました」

 なぜだか溜め息をついている。

 こうして石の壁の上で手をつないでいると、もう何億年も前からシエラを知っていたような気がする。白色岩塩から発せられている熱もまた旧知のごとく思われる。全身から汗がにじみ出す。手のひらの汗が、シエラの手のひらを濡らしているはずだが気にならない。今までの私だったら、そして今までの相手だったら、汗を嫌がられるのではないかとかなんだとか、あれこれとつまらないことを気にしただろう。何も気をつかわない。何も気を遣われない。そんな関係が成立するなんて。

 シエラが手を離した。手をつなぐには、かなり無理のある体勢だったから疲れたのだろう。すると突如、

 ゴツンッ、

 と、硬くて重い衝撃を頭部に受けた。

 目を開けると、シエラが石の壁を乗り越えて頭突きをしてきたのだということが分かった。

「何するの! じっと寝てないとダメだよ」

 のどをしぼって言う。

「分かりました」

 シエラが私をまねて、しぼり出すような声で答える。

「分かっていないでしょ、絶対に」

「分かりましたって言ってる時は、分かったって思ってるんです。次の瞬間のことまでは、さすがのシエラも責任を持てません」

「さすがのって何よ、もう。そんな少女漫画みたいな顔して頭突きをする人は見たことがないよ」

ひじ打ちをする人は見たことがありますか」

 そう言って、今度は肘打ちのモーションを始める。

「ないってば。お願いだから静かにして。うるさいと店からつまみ出されるよ」

 シエラの攻撃をガードしながら言った。 

「マジか。それは困ります。シエラ、ここ気に入りましたから」

 そう言うと、シエラは再び横になって鼻で一つ息をついた。

 その後一分ほどじっとしていたが、それが限界だったようだ。シエラは再び壁を乗り越えて来た。思わず頭をガードしてしまった私の耳元で、シエラはささやく。

「ここはだいたい分かったから、そろそろ他のところに行ってみたいんですけど」

「そうか。じゃあ出よう」

 仕方がないので、シエラの手を取って『海の癒』を出た。先が思いやられる。

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