甲斐家の追想
天気が良い九月半ばの連休だと言うのに、妻は里帰り出産で二、三日前から留守にしている。部分共有型で父母と同居しているおかげで、五歳になった息子の世話も、日々の暮らしも、それほど不自由を感じない。
ただ、「母親不在」が息子に与える影響は少なくないようで、聞き分けがいいお利口さんだった彼は、ここに来て途端にグズつくようになってきた。週明けには戻ってくる予定だが、それまで保たないようであれば、彼の合流も検討せねばなるまい。
父と母がいるからと、連日遅くまで仕事をしているのも良くなかった。昨夜も起きている間に帰宅することが叶わず、土曜日だから朝からゆっくり過ごそうと思っていたところに、どうしても外へ遊びに行きたいとせがまれてしまった。父、母の協力も得て、無計画なりに、四人で神戸へ繰り出すことにした。
往きの車は、父に運転席に入ってもらい、私は助手席で仮眠を取らせてもらった。有能な自動運転があるとは言え、万が一の手動運転を寝不足では出来ない。電車で移動も考えたが、連休初日のお昼前に、クズつきがちな子どもを連れての長距離移動も正直辛い。
サンデードライバーばかりで渋滞しまくる高速道路、下道を上手く切り抜けながら、車で移動する方が行きも帰りも楽だろうと判断したが、駐車場の混み具合までは見通しが甘かった。ポートアイランドの動物園も混雑していて、少し離れた駐車場に停めざるを得なかった。
到着早々、息子のトイレに付き合ってから、動物より人が多そうな園内をゆっくり周り始めた。普段は触れない犬や猫、ウサギに触れ合えるコーナーからスタートして、世界各地を再現したブースや、鳥が沢山集まっている池、屋外のドッグショーや羊、山羊への餌やりも一通り回った。
息子はまだまだ元気いっぱいといった様子だったが、流石に父は疲れたらしい。息子は母と共にもう一度小動物を触るコーナーへ向かい、我々は二人で近くのテーブル席で休むことにした。父は椅子に腰掛けたまま、身体を捻って息子や母の方を見ている。私は売店で人数分の飲み物を確保して、テーブルへ戻った。
「この後、どうしようか?」
父は無言で、外より少し高かったアイスコーヒーに口をつけた。
「とりあえず昼メシは、外に出ちゃう方がいいよな。ここだと割高だし、選択肢も少ないしさ」
「車はあるけど三宮か、ハーバーランド方面か。まー君がもう少し歩けるなら、南京町の食べ歩きも捨て難いけど……」
父はアイスコーヒーを一口飲んで、「ま、親子連れならハーバーランドか」と言った。私もそれに同意した。大人だけなら、安くて旨い店も幾らでもあるが、駐車場もあって、小さな子どもがいても安心できそうなのは、ハーバーランドがベターな気がする。混雑具合にもよるが、パンがモチーフの、人気キャラクターの施設もある。
「メシの後は? ハーバーランドで終わりじゃ、すんなり寝てくれないぞ」
私の思考でも読んでいたのか、父はその先を尋ねてきた。
移動して昼にありつくのもすんなり行くとは思えないのに、その先の先を見据えているようだ。父の言う通り、この程度のお出かけで、息子の体力が消耗できるとは思えない。山の方へ向かうか、どこかでボールでも買って走り回らせた方がいい気もする。
私はスマホを取り出して、ハーバーランド周辺のスポーツ用品店と、周辺の地図を確かめた。ショッピングモールの中にそれらしい店もあるし、ハーバーランドからちょっと歩いて、メリケンパークで遊ばせる手もありそうだ。
「お待たせ。もう、満足したって」
母の声に振り返ると、満足げな顔をした息子が母に手を引かれて立っていた。これなら、水分補給して外へ出ても、グズることはなさそうだ。息子を父と母に任せ、私は一足先に車を取りに向かった。少し離れた駐車場を行き来して、動物園の出口で父と母、息子をピックアップする。彼らは手際よく息子のトイレも済ませておいてくれたらしく、ハーバーランド近くの駐車場へ車を停めるまで、トイレ休憩を挟まずに済んだ。
親子連れでごった返すハーバーランドを、息子の手をしっかり握って奥へ進む。飲食店が立ち並ぶエリアまで来ると、少しでも早く入れそうな店を探して、整理券を取得した。キッズメニューもある神戸牛の店らしい。多少値は張るが、ちょっと早い敬老の日と思って、父と母には贅沢してもらおう。両親にはワインも頼んでもらって、私はつましく、一番安いものを頼んだ。
こういうところで、息子が行儀よくしてくれるのはありがたい。それもこれも、妻や両親の躾のおかげだろう。ステーキにかじりついた息子に「旨いか?」と尋ねると、彼はソースを口の周りに飛ばしながら、「うん」と満面の笑みで答えた。
「本当にいいのか?」
父はワイングラスを片手に、私に尋ねた。帰りの運転を気にかけてのことだろう。母は、そんな父を冷ややかな目で見ている。こんな時ぐらい、素直に楽しめばいいのに。私が頷くと、「じゃあ、遠慮なく」と父は母と乾杯をして、食事を開始した。母は時々息子を気にかけながら、父との外食を楽しんでいるようだ。
私は自己満足に浸りながら、息子の世話を焼きつつ、彼が食べ切れなかった分を頬張った。食べ残した付け合わせの野菜は、自分で食べるように促した。強い言い方で無理強いはせず、どうしても食べられないものは私が食べた。
終始和やかな雰囲気のまま、昼食を終えられた。港の見えるこの場所で、楽しい時間を過ごせている。ここに、妻や生まれる予定の娘が居合わせていないのが残念に思えた。また今度、違う店でも構わないから、父や母を連れてここに来よう。その時は、電車で来るか、一泊したい。
結局、父と母はそれぞれ赤ワインを二杯ほど飲んだ。ほろ酔いというほどでもなさそうだが、人混みの中でもちょっぴり上機嫌に歩いてくれているのはありがたい。隣のショッピングモールへ移って、スポーツ用品店に向かった。
小さなサッカーボールか、ゴムボールが一つでもあれば十分だ。息子が蹴って走り回る分には十分そうなサイズの、ミニサイズのボールを購入し、メリケンパークの芝生エリアまで父母を引き連れて移動した。
芝生が広がる場所まで来ると、息子はボールなど関係なしに走り始めた。私は彼が変なところへ身体をぶつけないか、少々慌てながらフォローに回った。予測不能な動きに備えながら、延々と中腰で素早い動きに対応するのは中々辛い。
父母は、少し離れたところで我々や、近くを行き来する船を見ているようだ。
走り回ることに飽きてきたらしい息子に、ボールを投げてみる。彼はボールを蹴り返すか、投げ返すかしてくれるかと思いきや、一人でボールと戯れ始めた。息子の制御下から抜け出したボールは、父母の方へ転がっていく。ボールに気がついた父は、それを拾って息子に手渡した。
「どうしたの? ばあちゃん」
息子は、海の方をジッと見ている母に声をかけた。普段なら、すぐ息子を気にかけてくれる彼女が、彼に声をかけられるまで無視するなんて珍しかった。母は、「あ、ごめんなさい」と言い、横にいた父が「ばあちゃんは、昔を思い出してたんだ」と息子に語った。
「昔?」
「ああ。ずーっと、ずーっと昔のことだ。まー君のパパが生まれるより前、私もまだ子どもだった頃の話だ」
「ちょっと、そんなに強調しないでくださいよ」
母の抗議に、父は「すまん、すまん」と謝った。母は若かりし頃、近くの港へやってくる船に乗って、故郷の大分から出て来たのだ。同郷の父と大阪で出会い、結婚して子供を授かった。
「僕も、乗ってみたい。ばあちゃんの思い出の船に」
息子はボールを胸の前で抱えながら、母を見上げた。
「ばあちゃんも乗ってみたいでしょ?」
息子のわがままに、母も満更ではなさそうだった。こうなると、無碍には断れない。息子を父母に任せ、フェリー乗り場へ航路と運賃を確かめに行った。完全に母の思い出とは無関係な航路だが、南港へ向かう短い航路があるらしい。車を取ってきて、帰り道はフェリーという選択肢も十分ありだ。
私は父、母と相談して、フェリーへ乗船することにした。出航時間を確かめ、チケットを購入し、車を取ってこなければならない時間まで、ゆっくり息子を走り回らせることにした。
フェリーに乗ると決めた時の母の顔は、これ以上なく喜んでいるように思えた。
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