第四章 「如月葉月」
アパートに帰った僕は、とりあえず、シャワーを浴びて部屋着に着替えた。
ナップサックをベッドの上に放り出し、サンダルを履いてベランダに出る。
「ただいま帰ったぞ! マサムネよ!」
ベランダの隅に巣を作っている女郎蜘蛛に声を掛ける。
ご主人様の帰宅なんてお構いなしで、女郎蜘蛛の「マサムネ」は、モンシロチョウを捕まえて体液を吸っていた。巣の真下には、体液を吸われてカラカラになった虫たちの遺骸が落ちている。
「ったく、もう少し綺麗に食べられないのかな? 僕なんか、スイカは種ごと食べるぞ?」
行儀の悪いマサムネに文句を垂れながら、傍に置いてあったミニ箒で遺骸を回収する。
掃除した傍から、マサムネはモンシロチョウの羽根を噛み切った。
ヨットの帆のような白い羽が、ひらひらと冷たい床の上に落ちる。
「こいつ、嫌がらせをしているわけじゃないよな?」
「嫌がらせなんじゃない?」
「うーん、そうか、やっぱり…」
嫌がらせか…。うん? 人の声?
「はい?」
僕は首が捩じ切れそうな勢いで振り返った。
隣の部屋のベランダを区切る薄い壁と、外壁の隙間から、一人の女性が顔半分を出してこちらを覗いているのが見えた。
一瞬、世に聞く、「隙間女」のことを思い出した僕は、顔を引きつらせて半歩後ずさる。
「す、す、隙間女…」
「馬鹿じゃない?」
女は場所を移動すると、ベランダの手すりからぐいっと身を乗り出して僕のベランダを覗き込んだ。
佐藤恵奈には敵わないが、艶やかな黒い長髪。佐藤恵奈には敵わないが、ニキビ一つと無いきめ細やかな肌。佐藤恵奈には敵わないが、ノースリーブシャツ越しにつんと張った胸。佐藤恵奈には敵わないが、水辺の水晶のような目。
佐藤恵奈には敵わない美しい女性だ。
「え、ええと…」
「あ、私は『如月葉月』ね。よろしく」
「あ、はあ、よろしく」
二月なのか、八月なのか…、どっちなんだい?
あまりピンと来ていない僕に、如月さんは怪訝な顔をした。
「え? なに? 毎日壁を蹴ってやったのに、そんな反応?」
「あ、はあ、そうか…」
そう言えば、僕が部屋の中で声をあげるたびに、壁を蹴っていたな。
この人だったか…。確かに、足癖の悪そうな体型をしている。
「あんたか…、僕の壁を蹴っていたのは」
「そうそう。ってか、私、社会人だから、敬語ね」
「社会人…、何歳ですか?」
「女性に歳を聞くもんじゃないよ。ストーカー君。ちなみに、二十六歳ね」
「へ?」聞き捨てならないな。「僕のどこがストーカーですか!」
「いや、ストーカーでしょ」
如月さんは、夏の生温かい風に黒髪を揺らしながらにやっと笑った。
「うちのアパート、壁がうっすいのよね。だから、あんたの部屋での独り言なんて、筒抜けよ?」
じゃあ、僕が毎夜毎夜言っている、あんなこととか、こんな事とか、そんなことも聞かれていたのか?
「『佐藤恵奈が好きだああ』とか、『佐藤恵奈は今日も可愛かった』とか、『佐藤恵奈と結ばれてやる』とか、『佐藤恵奈とセックスしたい』とか」
「後者は違いますね!」
記憶を勝手に改ざんしないでいただきたい。
如月さんは、今にも落っこちそうなくらい身を乗り出すと、ベランダの隅の蜘蛛の巣を覗き込んだ。
「蜘蛛飼っているんだね。さすがストーカー君。考えていることが他人と四万キロくらいずれてるよ」
「地球の全周じゃないですか。一周回って戻ってきていますよ?」
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